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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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クラニオ・バイオダイナミクスの学習体系に、ここまでしばしば紹介した、「身体に積極的に働きかける色々な技」も含まれているのはなぜだろうと思っていましたが、理由のひとつとして、クラニオ学習者の技の質をスムースに「形あるものから形なきものへ」移行させる手助けの意味合いがあるのでは、と先日ふと思いました。あくまで私の勝手な解釈で、違うかもしれませんが。


「形あるものから形なきものへ」というのは、身体を遣う技術が上達するにつれ、その姿がどのように変わっていくか、という話です。学び始めは型などの姿勢や手順がしっかりした「形のある」ものを繰り返しますが、熟練するにつれ、その型のエッセンスが深く体得され、殊更に手順や形を意識しなくても、状況に応じた動作や対応が自然と現れてくる「形がない」ものへと変わるというような意味合いです。最初は形として目に見えた技術が、熟練するにつれてその人自体と一体化していき、やがて同じ技術を使っていても、それを使っている(というか意図して「使っている」意識が最早ない)ことが外見からは分かりにくくなる、という感じです。有名な言葉だと「守破離」みたいなものでしょうか。

もちろん、「形がない」を体感した状態でも、それは終わりではなく、「形がない」の段階に至った時点でまた「形に戻る」と、さらに上位の「形がない」状態に至るヒントがあったりするものだろうとも思います。とりあえずここでは「技とは形がある状態と形がない状態を往復する」もののような気がする、ということです。


これをクラニオ学習体系に関して言うならば、クラニオ・バイオダイナミクスの最大の特徴と思われる「介入しない」「ただからだの声を聴く」を原理として初期段階から紹介しつつも、同時に時折「特定の骨に働きかけるけど全体も見る」「相手の身体に能動的に働きかけるが、最低限の介入ですむようにする」といった、「ゆるいけれども介入する方法」も体験させるという一見矛盾したことをしているといえます。しかし同時に、そうすることによって、「最低限のことのみを行う」「ただ相手の身体の声を聴く」態度の質を深めやすくなる部分もあるのではとも思います。
「微細に介入する」ことも知っていれば、「介入しない」がどういう状態か想像しやすいということもあるでしょうし、学習の初期段階では、介入しないといっても、そもそもどういうことか良く分からないので、同じような内容を、徐々に段階を踏んで教えてくれている部分もあるのだろうと思います。
いきなり最初から「何もしない」などと教えたら、多分初心者はあさっての方向に向かってしまいかねないので、まずは形がある部分、わかりやすい考えからしっかり教え、学習が進むに連れ、徐々に深い部分を体感してもらい、結果的に効率的に技術を深められる、ということではないかと。


ゆえに、クラニオ基礎教程で4年もかけてなにをするのか、といえば、別に特別な秘伝的な訓練があったりするわけではなく、クラニオとしては一般的な内容を丁寧に、数多く体験することで、学習開始当初は「放置」と同義かもしれない、「介入せず、ただ身体の声を聴く態度」の質を熟練により、「技術」と言ってよい領域にまで高めるというだけなのだろうと思います。実際、「見える部分」である相手への触れ方や手順自体は難しくないので、学習経験を通じていかに「見えない部分」を育めるかが重要であり、それには「一応一人前」といえる程度になるまででも、相応の年月がかかるということなのでしょう。

武術の例でいうならば、入門の最初に紹介されたただ前方に突きを打ちながら移動する(一見)シンプルな型が、長い稽古を経てその人の底力(中国武術に言う功夫)が高まることで、同じ動作でありながら、極めて強大な威力を有する動作に変わっていくようなものでしょうか。クラニオと突きを対比するのは微妙な気もしますが、「ある技の体得過程」という視点から見るならば、似た部分もありそうに思います。


実際、私自身もクラニオを学び始めて、まあなんとかやれなくもないかなという気になってきたのは3年目くらいからのような気がします。まあ、クラニオ教程に色々な内容が含まれていることの理由がこれなのかは良く分かりませんが、伝統武術でもボディワークでも、身体を使う技法・流儀には、上記の如き「形あるものから形なきものへ」や「テクニックの数を増やすというより、自分のコア部分を経験の積み重ねにより強化」する世界観を持つものが多いのでは、とは思っています。

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自己設定したクラニオの理屈や技法についてのテーマ(ネタ)も残り少なくなってきました。それが尽きたら、クラニオに関しては一体何を書いたらいいのか分かりませんが、まあ、尽きたら尽きた時に考えるとして、書くことがある限りは書いてみますか。


今回のお題である「静脈洞排出」というのは、私がクラニオ講座で教えられた技法のひとつです。概要としては、文字通り、頭内の「静脈洞」からの静脈血のスムーズな排出を助ける(といわれている)技法です。ちなみに、wikipediaによると、「静脈洞(venous sinus)」とは、「静脈血が流れていても管らしくなく、周りの組織の隙間と言えるような場所に使われる語」とのことです。要するに、「静脈血が流れているけども、血管じゃない管っぽい部分」ということでしょうか。心臓にも同等の器官があるようですが、ここではあくまで頭内の静脈洞に対する技法です。

なお、頭内の静脈洞には例えば以下の図↓のような種類があり、
http://www.i-l-fitness-jp.com/aboutbody/circulatory-system/vein/img/koumakujoumyakudou-3.JPG最終的には静脈洞を通った静脈血は内頚静脈(図の下部)に流れ込むようになっているそうです。
この流れをより円滑にするのが目的なのでしょうね。


その静脈洞には、上記リンク先にもある通り、部位によって「上矢状静脈洞」「横静脈洞」など、色々な名前があるのですが、この技法はそれぞれの静脈洞に対して順番に行います。
具体的には、ある静脈洞の脇(物理的には触れられないので、正確にはその付近と言うところです)に軽く指を置いて、静脈洞の状態を感じて(触れていると、今触れているつもりの静脈洞は右の方が流れていなそうだと感じたりします)なんとなく待っていると(意図的に流れを作ったり揉んだり締めたりはしません)、その静脈洞がゆるんで、流れがスムースになった感じがするので、次なる静脈洞(の付近の頭部どこか)に触れる、を繰り返します。

通常のクラニオバイオのセッションでは1箇所につき10~15分、時には30分くらい触れていることもありますが、これに関しては1箇所につき1分くらいしか待たず、流れたなと思ったらすぐに先に行きます。どの静脈洞から初めてもいいのではなく、正確な順番があり、各静脈洞(の付近)と静脈洞交会という部位(静脈洞が交わる位置)に一通り触れたら終了となります。
やや半端な書き方をしていますが、これに関しては、特に繊細な部位ということで、変に真似でもすると(この変なブログを読んでそんな気分になる方はいないと思いますが…)どこかおかしくなるかも知れないので、念のためこの程度の記述にとどめておきます。


排出といっても、事実上操作は行わないので、その辺りはクラニオらしいと言えばらしいのかもしれないですが、もとより、全体性の視点がやや薄い点と、とりあえずやる側の都合で目的を定めている点において、(やや極端に考えると)クラニオバイオの世界観になんとなく相容れない部分が多い技法のようにも感じられなくはないです。
講座中に練習した(受けた)感触としては、気持ちよいという方も多かったですが、私自身は脳内の血液が妙に沢山流れているようで、何だか変な気分ではありました(まあ、それが血液がとても良く流れている状態なんでしょうし、失敗したり気持ち悪かったりしたわけではないのですが)。
なんというか、そんなに頻繁に受けたい技法ではないですね。実際、そんなに頻繁にやる技法ではない(確か、せいぜい月1くらい)と先生も言われていた気がします。どちらかというと、お疲れ気味のミドル・シニア層の方に向いている技法という話があった記憶があり、とりあえずまだミドルではない私の身体にはあんまり必要性がなかったのかも知れません。


どうにも気合いの入らない書き方になってしまいましたが、「これをしなければならない状況」は思いつかないので、個人的には、「習ったけれども使う気がないセルフ封印技法の代表」というのが正直なところであります。ううむ。思い入れがない技法だとあっさりしていますね。まあ、こういうものもありましたよ、ということで、紹介でした。

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先日クラニオをやっている知人と交換セッションをしたのですが、こちらは最近のマイブームよろしく、ともかく馬鹿正直に「可能な限り余計なことをしない(最低限のことだけする)」をもっと追求してみようということで、その方針を実施しました。
結果、概ね良い感じになったわけですが、今回の発見としては「1次呼吸の動きを見ようとする」こと自体が既に余計なことだったのではないか、ということ。もちろん、その働きを「がんばって見ないようにする」のでもなく、「全体としての身体の色々な変動の中に1次呼吸もある状態」をただ感じている、という感じです。

これは、小難しく言えば、「方法Aにより、身体のある部位に意識を集めるとB状態(例えばゆるむ)になる」という「因果関係」でものを捉えようとしたり、「全体」の中に因果関係を探したり(作ったり?)するのではなく、「リアルタイムに変化する全体」をまるごとただ見つめるというようなことでしょうか。そうすることで、何か起こるべき事が起こっていくというような。


1次呼吸はクラニオでは重要な要素とされますが、クラニオ・バイオダイナミクスでは1次呼吸をコントロールするようなことはしません。これはたとえば、「1次呼吸の働きによって動いている体液の具体的な挙動を、のぞき込んで観察」したり、「エネルギーややや強い意識で体液の方向付けをするなどの操作」といったことですが、より厳密に行おうとすると、「1次呼吸の働きを特に見つめようとする」こと自体も、ある種の緊張になっているのではないか、と感じたわけです。

私は、1次呼吸によって動かされているものになんとなく注目している時に、結果的に自分自身の身体が緊張しているなと感じたわけですが、こういう深い状態でのセッションでは、「同調」によって、自分の緊張というのは相手に結構正確に伝わるものなので、それもないほうが良いのでは、と感じたわけです。まあ、これも要は「軽いのぞき込み」なのかもしれませんが、まだ相手に対して色々な事をしているのだなというのは感じられました。


とはいえ、「何もしない」を突き詰めて「相手を放置する」になってしまっては本末転倒(何も起こらなくなる)なので、どこまで最小限度の「やってよいこと」を私は行ってよいのか、そして、最低限のことを行うという条件のもとで、身体にとって「もっともしっくりくる」状態が生じるのはどの地点なのか、といった特性は今の私が「ちょっとやらなすぎ」である可能性も含め、少しずつ探求・把握したく思うわけです。
また、クラニオも対人技法のひとつでありますから、身体に任せる方針の技法とはいえ、受けた方に何らかの身体でのまなびや体感としての満足感を持ち帰ってもらえたらという気持ちは当然あるわけです。そんなわけで、自分の行動を「どこまでならカットしていいのか」ということが今後のテーマになっていきそうな気がしたセッションでした。


「何もしない」というと誤解を招きそうなので別の表現を借りてくると、クラニオ創始者のサザーランド博士は「静まりて聴くべし」という言葉を残されたそうです。「ただ相手の身体の声を聴く」というところでしょうか。このほうがロマンチックかつ、怠惰な響きがなくて良いかも知れません。つまりは「なにを、どの程度、どんな態度で、聴くか」あるいは、「聴く以外」のことはどの程度まで許可されうるのか、といったその辺りの細かい部分を探求しようとしているということです。これからは「何もしない」ではなくて「声を聴く」と言ったほうが良い気がしてきました。

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クラニオを私が学び始める直前(数年前)にクラニオ・バイオダイナミクスの大家ジム・ジェラス氏の講演を聴いたと少し前に書きましたが、探していたら、その時のメモらしき物(講演に行ったが書くものを持っていなかったらしく、ホテルの地図の裏に無造作に書いてある)が出てきたので、感想や若干の引用など。

結論から言うと、クラニオ・バイオダイナミクスについて、ごく常識的かつ、重要なことを氏なりの言葉で分かりやすく話そうとしているのだな、という印象です。今の私ならついて行ける内容ですが、はっきり言って、当時の私には「何か深いことを言っている」という以上のことは分からなかったと思います。更に言えば、当時の私には本当に相手に何も手を加えなくてもなにかが起きるなんて事があると想像すらできなかったと思うので、そもそも言っている事の意味が分からず、おそらく当時の自分に理解できる知識や世界観に勝手に変換の上、明後日の方向に勘違いして理解していたと思われます。


なお、前述の通り、ジム・ジェラス氏はクラニオ・バイオダイナミクスの大家として知られる人物ですが、実質的にはクラニオ創始者のサザーランド氏からオステオパシーの一部としてクラニオを直接学んだ「正統な伝承者」的ポジションの方です。
私自身はクラニオを学ぶと言っても、「(オステオパシーの難しい部分と医療的権限はカットした)クラニオ・バイオダイナミクスに特化した民間向けプログラム」に参加しているわけで、お医者さんとほぼ同等の権限と知識を持っているオステオパスでもあるジェラス氏と立場的にも知識レベルも全く異なっているといえます。

なので、同じクラニオ・バイオダイナミクスを学んでいることになっていても、彼の思想や実際の技法は私の理解と色々違うのかも知れませんが、このメモを見る限り、クラニオ・バイオダイナミクスの根本思想自体は私が学んだ内容や、今の私の実感とほとんど変わらないようには見えす。
…ここで落ち着いて考えてみると、私が学んでいる先生の旦那さん(その方もクラニオの先生をしている)がジェラス氏から現在直々に教わっているそうなので、その学びの成果が間接的に私が学ぶ講座内容にも何か影響を及ぼした可能性もゼロではない…のかもしれないです。


で、メモの内容に移りますが、クラニオを行う基本的態度としては以下のようなことが書いてあります。「病を取り除くのではなく、相手の中に起こっているもともとある自然な性質とコミュニケーションをとる」「例えば、ねんざの人を前にしたときも、ねんざという部分ではなく相手の全体を見て、受け手の持つ整う力はどこにあるのか耳を澄ます(「整う力を送る」のではない)」「既に相手の身体の中に起こっている「その人を活かしている」働きにただついていく(追随する・強化するという意味ではなく見守るという意味だと思います)」。他にも「静けさを相手と共有する」「手を使って聴くのみ」という表現もあります。ほぼ私が習った内容そのものという印象です。

いかなる人の身体にも自らの内に「整う働き」があり、その働きを強化するでもなく、その働きを時に感じつつただ静かに傍にとどまることで、結果的にその「整う働き」が自ずから作用し「その人の身体に必要なこと」が起こる、というようなことだと思います。今記憶を掘り起こしてみると、当時の私は「クラニオは人が整う働きを強化する」ものだと勝手に理解した気がするので、やっぱりよくわからなかったんでしょう。


クラニオで重視されている「1次呼吸」については「生理学、解剖学的な意味で(サザーランド氏の時代には)これまで未発見だった人体の働き」「脳、経絡、マインド、いずれとも異なる」「自動的に働きつづけるものであり、コントロールは不可能である」などなどです。
コントロールは不可能であるというのは、以外と忘れているけれど、とても明確な特徴を現しているなとこれを見て思いました。「1次呼吸を重視」というのは、「1次呼吸をコントロールする」ことではない、ということを理解するのに私も時間がかかりました。なお、当時の私は「1次呼吸」ではなく、「一時呼吸」とことごとくメモしているので、この語自体が理解できなかったものと思われます。

「「治る」かどうかは問題ではないし、部分を「治し」ても相手のためにならないかもしれない」などの大胆発言もあります。私みたいな医療と関係のない立場なら「私はお医者さんではないので、医療行為は行わない」で済みますが、この方の立場で堂々と言えるのは凄いことです。

大家だけにセッション経験は膨大で、服役囚(だったと思う)にセッションをしたこともあるという話も出ました。その時はさすがの氏も心中複雑であったようですが、「法律上ではいかなる悪党だろうと「整う」働きは等しくその人を生かし続けている」「どんな相手がクライアントでもこの働きを信頼し、敬意を払う」態度で問題なくセッションを行えたようです。人は色んな事をするし、色々な個性を持っていますが、こういった部分を見れば同じ人間であり、その働きに耳を澄ますという態度の前には、その人が背負う一切のものは、その瞬間だけでも無となるのかも知れませんね。


他にはクラニオセッションの中で出会うことがある「ダイナミック・スティルネス」の状態についての解説もあります。正直、今このメモの記述「スティルネスは静けさの中にバイブレーションがかすかにある感じだが、ダイナミックスティルネスには本当に何にもない」を見て「スティルネス」と「ダイナミック・スティルネス」の体感としての違いがやや明確になった感じです。

「ダイナミック・スティルネス」の状態については、「星々の間の空の色」「出来事が起こる前の状態」「「無極」とはこういうものかもしれない」などとも書いてあります。これは体験しないと全く分からない世界であって、当時の私に理解を求めるのは酷な内容です。クラニオ・バイオダイナミクスを始めた人がこのワークを続けるのは、この「星々の間の空の色(人によって表現は違うと思いますが、これは納得感のある表現です)」が忘れられないからかも知れません。これは出会いたくても出会えないことの方が多い、秘境や蜃気楼のごとき状態といえましょうか。
人の中に時として、このような無限とも言える世界が広がっているように見えるのは、本当に不思議です。なお、この状態は単に不思議というだけではなくて、人が自ずから自らの内の何かを変えていく前の準備段階のようなもので、単なる神秘体験や気のせいではない、人体にとって意味のある現象です。


最後の方に、少しでもクラニオらしき体験ができれば、ということで、瞑想みたいなワークも体験させてくれたようです。やり方としては「自分の中の「何もない点」に目を向けて、思考を止める」「暖かい流れのようなものを感じたら、ただその流れに耳を傾ける」というもののようです。「とりあえず、深く落ち着いてみる。1次呼吸らしきはたらきが体験できたらもうけものかな」…といった意味合いで実施してくれたのだと思います。
当時の私が1次呼吸を感じたかは不明ですが、やたらと眠たくなって、帰りの電車でぼんやりして(寝ていたわけではないのだが)降りる駅を2つくらい通過してしまったというのは覚えています。


…という感じだったようです。当時の私にも、理解は十分できないまでも、なかなか有意義な体験だったみたいですね。そして、今になって見返すことで、自分のポジションに少し自信が持てた気もします。まあ、他の技法でもそうですが、同じ事を体験したり同じとされる技を使ったりしていても、熟練者と初心者ではその体験の質が全く違うのであって、当時の氏の話は現在の私にも十分理解できていない部分があるかもしれぬ、とも思いますが。
ただ、それを差し引いても、数年後になお影響を与えてくれるとは、ジェラス氏は(確か講演前に「滅多に人前でこうやって話をすることはないので、うまく話せるか分からないが…」と言われていたと記憶していますが)さすがのクラニオ達人であるといえましょう。

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現在、私は10月に提出用のクラニオ論文を書いており、作業も終盤に入りつつありますが、私の場合「技法」という言葉にこだわる構成となっています。クラニオ・バイオダイナミクスは、その思想や立ち位置からして、ある意味手順や形のない漠たる世界を扱う物であり、技術とか技法といった言葉で語らない方がよい部分もあるのかも知れぬとも思います。
実際、私自身、クラニオの技法としての優位性を語るつもりもなければ、積極的な勢力拡大を意図しているのでもなく、このブログでも世の中にはこういう技法もあるんですが…程度のノリでつぶやいているだけのことで、技法という言葉そのものにはそう極端な思い入れがあるわけではないです。


それでも「技法的視点」にこだわるのは、クラニオについて「他者に客観的に語る」には、結局そのような目に見える部分を通じてしかないと思うからです(まあ、気の利いたネーミングやら詩的な表現などが私は極めて苦手だということもありますが…)。
神秘的または感動的な体感、人としてのあり方、無限やら自然やらといった色々な概念は、目に見える技法という「土台」を踏まえた上で自然と現れてくる「結果」を主観的に眺めたものであって、それらに関しては、自分の心の中にしまっておけばよいのではと個人的には思っています。
むしろそういった神秘的領域を理論化したりすると妙な方向に突貫しそうです。例えば、クラニオを扱うにあたって、「愛が重要」などと言われたら私はどうすればいいのか分からなくなってしまいますし、初心の方への伝達も困難かと思われるので、結局は武術などと同じく、どんな技法だろうと最初は形から入るしかないだろうとも思います。


もっとも、クラニオの目に見える部分といっても、ほとんど動いたり手を加えたりしないので、「姿勢」と「触れ方」と「いくらかの例外的手法」程度のもので、「今の身体感覚」「意識の置き所」などの見えるような見えないような部分が占める部分も比較的多い気がするので、なかなか表現は難しい物があります。あえて言うならば、地に足をしっかりとつけて、無理のない程度の緻密さでリラックスしたまっすぐな姿勢を構成し、意を全身にいきわたらせるか、その上でどのように相手に対するか…を深めていくこと、が「クラニオの技法」だといえるでしょうか。


個人的には、「技術・技法」という言葉は、しばしば連想されがちな、ハウツーでもテクニックでもない懐が広いものであると思っています。「なにかの形・手順によって他者に伝達が可能」で、「熟練による上達がある」もので、「上達に伴いおのれ自身の立ち位置も変わっていく」余地があるものであると見なしています。
結局のところ、技術も高まれば自然と「自分と一体化」し、「無形」に近づくものであって、武術の達人の逸話などに聞く「その人自身が技」のような領域について語られることもあるのでしょう。これは多分、伝統芸能でも、プログラマーなどでも、どんな技術でもあることなのだろうと思います。それと同時に、形や原理原則という目に見えるものがあるから、曖昧な状況に陥りがちな技法であっても、原点に還る道標にもなり得るのだろうとも思っています。

クラニオセッションでは色々な体験に出会いますが、セッション中に出会う未知の体験に埋没したり、その体験に妙な解釈を加えずに中庸に向き合うための備え(いうなれば、見えざる世界に対するための身の処し方)として「形として伝えられる技術的部分」が必要だとまとめられるのかも知れません。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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