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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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◆トラウマワークの非常時の対応
今回の一連の地震を受け、11日にクラニオの先輩からトラウマワークの「非常時の対応」として送られてきた文章があったので、それを私のほうで若干表現を修正して、ツイッターに転載しました。内容は以下の通りです。
1.まずは自分自身から始めましょう。
今はまだ地震直後であり、アドレナリンが噴出している時です。こういう時は何かをしたくてたまらなくなりますが、まずはその自分自身の感覚をトラッキング(追跡)しましょう。そして自分自身が安心できる状態・サポートを最初に求めてください。
2. テレビの映像を見過ぎない
テレビで繰り返し流される悲惨な映像は、強い吸引力を持ちます。人によっては催眠にかけられたようにテレビの前から動けなくなる人もいるでしょう。こうした映像に何度も何度も自分をさらすことは、あなたのためにならないことがあります。
(追記:より正確には、「刺激の強い映像情報の触れすぎに注意」というところです)
3.サポート
まず必要なのは、身の安全を確保することです。避難場所、食べ物、人々が安全かどうかのチェックを優先しましょう。そして非常時に最も大切なのは、仲間やコミュニティからのサポートです。コミュニティは非常に大切です。もし集まれる仲間がいれば、集まってサポートをし合いましょう。
これは「ソマテック・エクスペリエンス」という心理学ベースのトラウマセラピーのコミュニティによせられた内容とのことです。前にも書いたとおり、このワークのいくつかの方針は私が習うクラニオ教程にも取り入れられています。
で、載せてみたはいいが、特に2は、ちと表現がストレートな部分もあるので、若干誤解を招きやすかった部分もあったみたいです。私としては、意味が分かって役に立てられる人が役に立ててくれれば良いと思うので、どう解釈されても、それはそれで構わないのですが、一応本来の意図は明瞭にした方が良いとも思うので、今回はこれの補足説明などしてみます。なお、私自身はソマテック・エクスペリエンスの専門家ではないので、実際は私が書いた内容と少し意味が違っていたり、もっと別の意味が含まれている可能性もあることはお断りしておきます。
◆全体まとめ
まず、1~3をまとめて言うと、「災害の経験は人間の神経系に大きな興奮をもたらし、なにかしなければ!という思いも誘発する。しかし、そこで、多くの刺激(ここでは、災害の経験そのもの、周囲の人の様子、あらゆる媒体を通じて流れる多くの被災情報など)に触れすぎると、人によっては自律神経系にキャパシティ以上の負荷がかかり、かえって混乱したり、状況に圧倒されて動けなくなってしまう恐れもある。
なので、まずは、1,3で言うように、自分が安心できるように深呼吸でもしてみたり、仲間や家族と連絡が取れるなら励まし合ったりして、ある程度自分が落ち着こう!」…ということですかね。
その際に2のような、刺激の強い情報を控えめにした方が落ち着きやすい人「も」いる、ということです。ある程度落ち着いた状態なら、すばやい行動もしやすく、色々な災害情報も判断しやすいというものです。
2で映像について特に書いてあるのは、映像の効果で潜在意識に何か影響があるとか、悲惨な映像がなんとなくマイナス思考を誘発するといった意図ではないです(そういう考えもありだとは思います)。生々しい映像情報は、単純に自律神経系に対して、刺激としての影響力が大きい、という意味です。…というところで、以前も書いたんですが、自律神経系と刺激の関係についてもう一度書いてみます。
◆過活性とは
人の自律神経系は各種の刺激を受けると「活性化」し、「逃げなきゃ」とか、肉体がすばやくアクションできるモードに入ります。これは生きるために必要な反応です。そして、「活性化」は危機を乗り越えたりして、必要がなくなれば元に戻ります。
ただ、自律神経系にはキャパシティがあって、あまりに大量の刺激に晒されたり、圧倒的な質量の刺激に晒されたりして、キャパシティを超えてあまりにも活性化しすぎると(自律神経系の「過活性」と呼ばれています)、ささいなことに過敏に反応してしまったり、動けなくなったり(たとえば、パニックのような状態など)、正常な判断ができにくくなることもあります。
この自律神経系のキャパシティは、休息などにより神経系がリラックスできるとまた元に戻るので、過活性も通常は時間が経てば解消しますが、その間判断力が低下するので、状況に応じた迅速な対応ができることが望ましい危急時においては、ならずにすむなら、ならないほうがいい、というのは確かではあります。
なお、「過活性」は「火事場の馬鹿力」とは別です。そういう力を出すには、おそらく心身が完璧に統一されるようなある種の強力な集注感が必要で、重心が浮いて、自分自身が落ち着けないような過活性状態では多分出ません。
◆トラウマ化
また、これに関してもう一つ問題なのが、「活性化状態の常態化(「トラウマ化」と呼ばれています)」です。あまりにも過活性状態を誘発するような状況が連続すると、実際の災害が終わっても自律神経系が活性化したままになり、ちょっとした刺激に過敏に反応するような状態になることもあります。これは、上記の「過活性」が常時起きているということなので、日常生活に影響が結構あります。
過敏状態であるが故に、ささいなことで身近な人に激しくあたってしまって、自分自身がますます傷ついたり、という負の連鎖につながることもありますし、過ごし方によっては何年も続いてしまうこともあるので、ものによっては結構深刻です。帰還兵や大事故にあった方がその後も既に過ぎた経験に悩まされる、という例はしばしば聞きますよね。そういう深刻な状況でも、上手に過ごせば自然解消するだろうし、効率的に解消するためにサイコセラピーや色んなワークがあるわけなので、解消自体は可能と思いますが、その間しんどいとは思うので、これも避けられるなら避けたいですよね。
◆つまり
1~3はそういった状態にできるだけなりにくくしたり、もしなっても、できるだけ短時間で復帰しやすくなるためのこつ、ということです。なお、2に関しては、自律神経系のキャパシティや刺激への耐性には個人差があるので、刺激の強い映像を観ても平気な人は平気でしょうし、必要な災害情報が全くないと困りますので、当然ながら、テレビは絶対観るなという意味でもないです(ここで言わんでも2の文面から分かると思いますが)。
また、これは「災害のほぼ直後」という状況での話で、ある程度状況が落ち着いてからは、自律神経系も(地震の体験という刺激はある程度解消されており)キャパシティに余裕がある状態でしょうから、少々刺激的な映像を見たくらいでは目だった影響が全くないことも多いでしょう。そもそも、状況が落ち着けば生々しい映像自体も減るわけで。
冒頭のまとめで述べたことと重なりますが、要は、災害直後に、強い刺激への耐性があまりない子供や、特に弱っている人や、敏感になっている人(別の言い方をすれば自律神経系のキャパシティがもともと少ない人や、いっぱいになりかかっている人)が影響力の高い映像などの刺激に釘付けになって、過活性状態を起こし、無力感からますます混乱してしまったり、避難などの動くべき時に動けなくなってしまうような事態を防ごう、ということですね。
そして、そのような状況では、情報の収集も大事だが、自分自身が仲間と協力し合って安全を確保し、しっかりとおちついて冷静な判断力をもって動ける状況になることが最優先、というわけです。まあ、これは日常の情報の扱い方でも共通かも知れませんが。
良く漫画などで、小さい子供や繊細そうな女性キャラが悲惨なシーンや残酷なシーンを目の当たりにしそうになった時に、漢気溢れるキャラが「見るな!」と言ってそのキャラの目をふさいだりしますが、これもジェントルマンとしての道義的意味合いの他に、上記のような(トラウマ化や過活性の影響を最小限にする)意味も潜在的に含まれた対応とも解釈できるかも知れないですね。
※3/26追記:
本文では「過活性」の例として、分かりやすい「興奮しやすい状態」を挙げていますが、
過活性には「何もできないくらいもの凄く無気力」という状態もあります。
前者は自律神経のうち交感神経の過活性、後者は副交感神経の過活性の例です。
「興奮しすぎ」か「静かになりすぎ」か、と想像すれば分かりやすいかと思います。
今回の一連の地震を受け、11日にクラニオの先輩からトラウマワークの「非常時の対応」として送られてきた文章があったので、それを私のほうで若干表現を修正して、ツイッターに転載しました。内容は以下の通りです。
1.まずは自分自身から始めましょう。
今はまだ地震直後であり、アドレナリンが噴出している時です。こういう時は何かをしたくてたまらなくなりますが、まずはその自分自身の感覚をトラッキング(追跡)しましょう。そして自分自身が安心できる状態・サポートを最初に求めてください。
2. テレビの映像を見過ぎない
テレビで繰り返し流される悲惨な映像は、強い吸引力を持ちます。人によっては催眠にかけられたようにテレビの前から動けなくなる人もいるでしょう。こうした映像に何度も何度も自分をさらすことは、あなたのためにならないことがあります。
(追記:より正確には、「刺激の強い映像情報の触れすぎに注意」というところです)
3.サポート
まず必要なのは、身の安全を確保することです。避難場所、食べ物、人々が安全かどうかのチェックを優先しましょう。そして非常時に最も大切なのは、仲間やコミュニティからのサポートです。コミュニティは非常に大切です。もし集まれる仲間がいれば、集まってサポートをし合いましょう。
これは「ソマテック・エクスペリエンス」という心理学ベースのトラウマセラピーのコミュニティによせられた内容とのことです。前にも書いたとおり、このワークのいくつかの方針は私が習うクラニオ教程にも取り入れられています。
で、載せてみたはいいが、特に2は、ちと表現がストレートな部分もあるので、若干誤解を招きやすかった部分もあったみたいです。私としては、意味が分かって役に立てられる人が役に立ててくれれば良いと思うので、どう解釈されても、それはそれで構わないのですが、一応本来の意図は明瞭にした方が良いとも思うので、今回はこれの補足説明などしてみます。なお、私自身はソマテック・エクスペリエンスの専門家ではないので、実際は私が書いた内容と少し意味が違っていたり、もっと別の意味が含まれている可能性もあることはお断りしておきます。
◆全体まとめ
まず、1~3をまとめて言うと、「災害の経験は人間の神経系に大きな興奮をもたらし、なにかしなければ!という思いも誘発する。しかし、そこで、多くの刺激(ここでは、災害の経験そのもの、周囲の人の様子、あらゆる媒体を通じて流れる多くの被災情報など)に触れすぎると、人によっては自律神経系にキャパシティ以上の負荷がかかり、かえって混乱したり、状況に圧倒されて動けなくなってしまう恐れもある。
なので、まずは、1,3で言うように、自分が安心できるように深呼吸でもしてみたり、仲間や家族と連絡が取れるなら励まし合ったりして、ある程度自分が落ち着こう!」…ということですかね。
その際に2のような、刺激の強い情報を控えめにした方が落ち着きやすい人「も」いる、ということです。ある程度落ち着いた状態なら、すばやい行動もしやすく、色々な災害情報も判断しやすいというものです。
2で映像について特に書いてあるのは、映像の効果で潜在意識に何か影響があるとか、悲惨な映像がなんとなくマイナス思考を誘発するといった意図ではないです(そういう考えもありだとは思います)。生々しい映像情報は、単純に自律神経系に対して、刺激としての影響力が大きい、という意味です。…というところで、以前も書いたんですが、自律神経系と刺激の関係についてもう一度書いてみます。
◆過活性とは
人の自律神経系は各種の刺激を受けると「活性化」し、「逃げなきゃ」とか、肉体がすばやくアクションできるモードに入ります。これは生きるために必要な反応です。そして、「活性化」は危機を乗り越えたりして、必要がなくなれば元に戻ります。
ただ、自律神経系にはキャパシティがあって、あまりに大量の刺激に晒されたり、圧倒的な質量の刺激に晒されたりして、キャパシティを超えてあまりにも活性化しすぎると(自律神経系の「過活性」と呼ばれています)、ささいなことに過敏に反応してしまったり、動けなくなったり(たとえば、パニックのような状態など)、正常な判断ができにくくなることもあります。
この自律神経系のキャパシティは、休息などにより神経系がリラックスできるとまた元に戻るので、過活性も通常は時間が経てば解消しますが、その間判断力が低下するので、状況に応じた迅速な対応ができることが望ましい危急時においては、ならずにすむなら、ならないほうがいい、というのは確かではあります。
なお、「過活性」は「火事場の馬鹿力」とは別です。そういう力を出すには、おそらく心身が完璧に統一されるようなある種の強力な集注感が必要で、重心が浮いて、自分自身が落ち着けないような過活性状態では多分出ません。
◆トラウマ化
また、これに関してもう一つ問題なのが、「活性化状態の常態化(「トラウマ化」と呼ばれています)」です。あまりにも過活性状態を誘発するような状況が連続すると、実際の災害が終わっても自律神経系が活性化したままになり、ちょっとした刺激に過敏に反応するような状態になることもあります。これは、上記の「過活性」が常時起きているということなので、日常生活に影響が結構あります。
過敏状態であるが故に、ささいなことで身近な人に激しくあたってしまって、自分自身がますます傷ついたり、という負の連鎖につながることもありますし、過ごし方によっては何年も続いてしまうこともあるので、ものによっては結構深刻です。帰還兵や大事故にあった方がその後も既に過ぎた経験に悩まされる、という例はしばしば聞きますよね。そういう深刻な状況でも、上手に過ごせば自然解消するだろうし、効率的に解消するためにサイコセラピーや色んなワークがあるわけなので、解消自体は可能と思いますが、その間しんどいとは思うので、これも避けられるなら避けたいですよね。
◆つまり
1~3はそういった状態にできるだけなりにくくしたり、もしなっても、できるだけ短時間で復帰しやすくなるためのこつ、ということです。なお、2に関しては、自律神経系のキャパシティや刺激への耐性には個人差があるので、刺激の強い映像を観ても平気な人は平気でしょうし、必要な災害情報が全くないと困りますので、当然ながら、テレビは絶対観るなという意味でもないです(ここで言わんでも2の文面から分かると思いますが)。
また、これは「災害のほぼ直後」という状況での話で、ある程度状況が落ち着いてからは、自律神経系も(地震の体験という刺激はある程度解消されており)キャパシティに余裕がある状態でしょうから、少々刺激的な映像を見たくらいでは目だった影響が全くないことも多いでしょう。そもそも、状況が落ち着けば生々しい映像自体も減るわけで。
冒頭のまとめで述べたことと重なりますが、要は、災害直後に、強い刺激への耐性があまりない子供や、特に弱っている人や、敏感になっている人(別の言い方をすれば自律神経系のキャパシティがもともと少ない人や、いっぱいになりかかっている人)が影響力の高い映像などの刺激に釘付けになって、過活性状態を起こし、無力感からますます混乱してしまったり、避難などの動くべき時に動けなくなってしまうような事態を防ごう、ということですね。
そして、そのような状況では、情報の収集も大事だが、自分自身が仲間と協力し合って安全を確保し、しっかりとおちついて冷静な判断力をもって動ける状況になることが最優先、というわけです。まあ、これは日常の情報の扱い方でも共通かも知れませんが。
良く漫画などで、小さい子供や繊細そうな女性キャラが悲惨なシーンや残酷なシーンを目の当たりにしそうになった時に、漢気溢れるキャラが「見るな!」と言ってそのキャラの目をふさいだりしますが、これもジェントルマンとしての道義的意味合いの他に、上記のような(トラウマ化や過活性の影響を最小限にする)意味も潜在的に含まれた対応とも解釈できるかも知れないですね。
※3/26追記:
本文では「過活性」の例として、分かりやすい「興奮しやすい状態」を挙げていますが、
過活性には「何もできないくらいもの凄く無気力」という状態もあります。
前者は自律神経のうち交感神経の過活性、後者は副交感神経の過活性の例です。
「興奮しすぎ」か「静かになりすぎ」か、と想像すれば分かりやすいかと思います。
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これまでなんべんか書いているので、しつこい気もしますが、まとめの意味も含め、クラニオ・バイオダイナミクス(以下クラニオ)のセッション中の「距離感」について書いてみます。
◆クラニオの距離感
ここでいう「距離感」というのは、クラニオをやる人と受ける人の間にある、物理的・感覚的、両方の意味での「適切な距離」です。要は「お互いにとって心地よい距離」です。武術っぽく言えば、「適切な間合い」となりますかね。
一般のボディワークでは、「相手の方に触れた時にどうアクションするか」が主眼だと思うので、やる人と受ける人の距離感は、技法体系の中ではあまり重きを置かれていないかも知れないですが(違ったらすみません)、クラニオは能動的アクションがなく、どうやって相手を邪魔しないように居続けられるのかが重要なので、技法における距離感の重要度はかなり高いと思われます。
たとえば、セッションで受ける人の身体が変わろうとし始めても、やる人がその様子を近くでじろじろ見ていたら、受ける方は気になって、変化なんかできないか、警戒して変な風に変わってしまうかも知れません。かといって、やる人があまりに遠くにいて、受ける人がそこらに取り残されている感じだとしたら、やはり身体は気分良く変化する気にはなれないでしょう。
そんなわけで、「受ける人の身体にとって、放置されもせず、近すぎて負担にもならない距離」にやる側の人が居つづけること自体が、セッションの全般にわたって必要と考えられているわけです。むしろ、適切な距離感が分かること自体がクラニオの重要な技術の一部といえるでしょう。
◆適切な距離の発見
「適切な距離感」は、クラニオをやる側の人が、受ける人の身体に触れ、自分の上体の角度を変えたり、視線の位置、意識の置き所を変えたりなど、微妙に動く中で「自分にとって負担でなく、遠過ぎもしない位置」を感じとることによって見つけます。やる人にとって心地よい位置は、受ける人にとっても心地よい、という理屈です。
この「適切な距離感」はセッションの展開につれて微妙に変わってくることがあるので、必要な場合はセッション中に距離を調整することもあります。確か前も書きましたが、セッション中はほとんど意識の置き方のみで距離を調整します。例えば、やる人が自分の背中側や背面後方の空間を意識する、などです。意識の起き場所によって距離が離れた感じが出てくるのです。やる人がある程度慣れてくると、無闇にあっちこっちに意識を動かさずとも(ちょっとした視線や意識の置き方で)大丈夫になってきます。
頭に触れている場合は、触れている手を少し開き気味にするなどの「物理的に動く」対応をすることもありますが、あまり頻繁にばたばた動かしたりすると、受ける人はこれまた落ち着かず、更に急に動かされでもしたら、気分が悪くなることもあるので、通常はそう無闇に動かすものではありません。
◆距離感いろいろ
また、これはあくまで個人的な体感ですが、手を動かすなどの物理的な距離のコントロールが必要なのは、主に「物理的肉体そのもの」に向き合っている時で、「もっと大きな領域(…と書くと微妙にオカルトですが、「物理的肉体を含むその人全体」のような意味合いと思って頂ければ)」に向き合っている時は、あまり必要ないように感じています。
やる人が、受ける人の身体システムのどの「領域」に向き合っているかによって、「距離」の意味合いも変わってくるということなんでしょうね。なお、個人的に「バイオダイナミクスらしさ」を感じるのは「大きな領域」のほうに向き合っている時です。
距離感の話に戻ると、「適切な距離の調整」が始まっているのは、受ける方に触れる前からだったりします。クラニオのセッションでは、やる人は受ける人に実際に触れる前に、少し離れた場所でしばらく座って、落ち着くまで待つのですが、この時既に「適切な距離」を意識した位置に座っているわけです。
離れたところからスタートするのは、「やる人、受ける人双方が十分落ち着いてから触れる」という意味合いなのですが、「お互いが警戒せずにいられる遠くから徐々に距離を詰めて慣れていく」という距離感の配慮も含まれているものと思われます。東洋の伝統武術では、相手に触れる前から技が始まっているなどと言いますが、まあそんなようなもんでしょう。
◆人との関係性
「適切な距離感」は受ける人によっても異なります。相手に構って欲しいタイプの人やひとりでいることの不安が大きいような人はどうも近い距離を好むことが多いようです。私のように、基本的にほっといて欲しい人は割と遠目の距離が必要です(多分)。
そんなわけで、私が「構って欲しい人」にセッションをする時は、自分が「ふつう」だと思う位置よりも若干近づかないと、良い距離感が見つからなかったりします。このように、「お互いの関係性」によってもセッションや距離感は変わってくるわけです。
結局のところ「相手との適切な距離感」に対応し続けるということは「相手との適切な関係性を見つけていく」作業でもあるんでしょうね。
◆クラニオの距離感
ここでいう「距離感」というのは、クラニオをやる人と受ける人の間にある、物理的・感覚的、両方の意味での「適切な距離」です。要は「お互いにとって心地よい距離」です。武術っぽく言えば、「適切な間合い」となりますかね。
一般のボディワークでは、「相手の方に触れた時にどうアクションするか」が主眼だと思うので、やる人と受ける人の距離感は、技法体系の中ではあまり重きを置かれていないかも知れないですが(違ったらすみません)、クラニオは能動的アクションがなく、どうやって相手を邪魔しないように居続けられるのかが重要なので、技法における距離感の重要度はかなり高いと思われます。
たとえば、セッションで受ける人の身体が変わろうとし始めても、やる人がその様子を近くでじろじろ見ていたら、受ける方は気になって、変化なんかできないか、警戒して変な風に変わってしまうかも知れません。かといって、やる人があまりに遠くにいて、受ける人がそこらに取り残されている感じだとしたら、やはり身体は気分良く変化する気にはなれないでしょう。
そんなわけで、「受ける人の身体にとって、放置されもせず、近すぎて負担にもならない距離」にやる側の人が居つづけること自体が、セッションの全般にわたって必要と考えられているわけです。むしろ、適切な距離感が分かること自体がクラニオの重要な技術の一部といえるでしょう。
◆適切な距離の発見
「適切な距離感」は、クラニオをやる側の人が、受ける人の身体に触れ、自分の上体の角度を変えたり、視線の位置、意識の置き所を変えたりなど、微妙に動く中で「自分にとって負担でなく、遠過ぎもしない位置」を感じとることによって見つけます。やる人にとって心地よい位置は、受ける人にとっても心地よい、という理屈です。
この「適切な距離感」はセッションの展開につれて微妙に変わってくることがあるので、必要な場合はセッション中に距離を調整することもあります。確か前も書きましたが、セッション中はほとんど意識の置き方のみで距離を調整します。例えば、やる人が自分の背中側や背面後方の空間を意識する、などです。意識の起き場所によって距離が離れた感じが出てくるのです。やる人がある程度慣れてくると、無闇にあっちこっちに意識を動かさずとも(ちょっとした視線や意識の置き方で)大丈夫になってきます。
頭に触れている場合は、触れている手を少し開き気味にするなどの「物理的に動く」対応をすることもありますが、あまり頻繁にばたばた動かしたりすると、受ける人はこれまた落ち着かず、更に急に動かされでもしたら、気分が悪くなることもあるので、通常はそう無闇に動かすものではありません。
◆距離感いろいろ
また、これはあくまで個人的な体感ですが、手を動かすなどの物理的な距離のコントロールが必要なのは、主に「物理的肉体そのもの」に向き合っている時で、「もっと大きな領域(…と書くと微妙にオカルトですが、「物理的肉体を含むその人全体」のような意味合いと思って頂ければ)」に向き合っている時は、あまり必要ないように感じています。
やる人が、受ける人の身体システムのどの「領域」に向き合っているかによって、「距離」の意味合いも変わってくるということなんでしょうね。なお、個人的に「バイオダイナミクスらしさ」を感じるのは「大きな領域」のほうに向き合っている時です。
距離感の話に戻ると、「適切な距離の調整」が始まっているのは、受ける方に触れる前からだったりします。クラニオのセッションでは、やる人は受ける人に実際に触れる前に、少し離れた場所でしばらく座って、落ち着くまで待つのですが、この時既に「適切な距離」を意識した位置に座っているわけです。
離れたところからスタートするのは、「やる人、受ける人双方が十分落ち着いてから触れる」という意味合いなのですが、「お互いが警戒せずにいられる遠くから徐々に距離を詰めて慣れていく」という距離感の配慮も含まれているものと思われます。東洋の伝統武術では、相手に触れる前から技が始まっているなどと言いますが、まあそんなようなもんでしょう。
◆人との関係性
「適切な距離感」は受ける人によっても異なります。相手に構って欲しいタイプの人やひとりでいることの不安が大きいような人はどうも近い距離を好むことが多いようです。私のように、基本的にほっといて欲しい人は割と遠目の距離が必要です(多分)。
そんなわけで、私が「構って欲しい人」にセッションをする時は、自分が「ふつう」だと思う位置よりも若干近づかないと、良い距離感が見つからなかったりします。このように、「お互いの関係性」によってもセッションや距離感は変わってくるわけです。
結局のところ「相手との適切な距離感」に対応し続けるということは「相手との適切な関係性を見つけていく」作業でもあるんでしょうね。
今回は微妙にクラニオ繋がりということで、番外編で…。
◆
先週末、クラニオ関係の用事で沖縄を訪問しました。用事が落ち着いた後、知人の案内で集落やお気に入りの場所を案内してもらいました。感想としては、この地は、世界観というか土地のエネルギーの質というか、そういったものが、「大和」とは根本的に異なる場所だということ。
まあ、日本(大和)国内でも、東北と関西は食べ物や言葉遣い、風習といった文化は違うわけですが、日本は日本だな、という思いはあります。宗教なども変わらないし、多分、基本的な世界観はほとんど同じではないかと思う。あるいは、もともとが大きく違っていても、ほぼ陸続きだから「同じになってしまった」のかもしれないですが。
◆
でも、今回の訪問では、なにか根本的な部分で、「大和」と「琉球」の非常に大きな隔たりを感じた気がしたわけです。那覇などの市街地はそうでもないが、今回歩いたような集落や、森のような場所の雰囲気には非常に異質なものを感じた。自分が明らかに異邦の民であることを意識させられるような何かがあった。
まあ、何をもってそんなことを言うのかといわれると、良く分からんのですが、「その地に立つことで、身体が感じる違和感」が尋常でなく大きかったためというのが、理由と言えば理由です。それをあえて言葉にしてみると、集落なら「大地にがっしりと根付いているような、深く、密度のある空気感」、森ならば、「大和のあっさりとしたそれに比べると遥かに重厚で、傍に寄ると吸い込まれるような雰囲気」とでもいう感じ。
ある国の文化は、その地の身体観に基づくものだ、というような話をかつて身体教育研究所という場所で聞きましたが、ここで感じた違和感も、なにかそういうレベルの違いをである気がします。違和感と言っても、それはあくまで体感のことで、目に映るのは澄み渡った空や海、穏やかな静けさに包まれ、人々が自然に交流している集落、というような美しい風景だし、別に自分が拒絶されている感じがあるのでもない。ただ、「どうしようもないくらい違う」ということだけはなぜか感じたという。
今回知人からちらっと聞いたところでは、琉球のお墓は大和のお墓とはかなり格好が違い、弔いかたも大分違うらしいこと(歌ったり踊ったり)。また、魔を祓うための集落の構造上の工夫(海から来る魔は直進しかできないらしい)があること、習うスピリチュアルではなく、天然の霊能とでもいうべきものを身につける人が案外多いこと(おかしくなる人も多いらしいが)…などが、何かこの違和感と関係しているような気もしますが、具体的には何とも言い難い。
◆
大和と風習が違うと言えばそれまでだが、それは形だけのことで、私の感じた違和感に繋がるなにかは、琉球の人々の身体観であるとか、死生観であるとか、もっと深いところにあって、それは聞いたり読んだりして分かるような物でもないんだろうと思う。
とりあえず、国の編成上、日本の一部になっても、やはり、琉球は琉球なんだろうな、というのが、根拠もなく、しかし、非常な確信を持って言える今回の感想でした。
◆
先週末、クラニオ関係の用事で沖縄を訪問しました。用事が落ち着いた後、知人の案内で集落やお気に入りの場所を案内してもらいました。感想としては、この地は、世界観というか土地のエネルギーの質というか、そういったものが、「大和」とは根本的に異なる場所だということ。
まあ、日本(大和)国内でも、東北と関西は食べ物や言葉遣い、風習といった文化は違うわけですが、日本は日本だな、という思いはあります。宗教なども変わらないし、多分、基本的な世界観はほとんど同じではないかと思う。あるいは、もともとが大きく違っていても、ほぼ陸続きだから「同じになってしまった」のかもしれないですが。
◆
でも、今回の訪問では、なにか根本的な部分で、「大和」と「琉球」の非常に大きな隔たりを感じた気がしたわけです。那覇などの市街地はそうでもないが、今回歩いたような集落や、森のような場所の雰囲気には非常に異質なものを感じた。自分が明らかに異邦の民であることを意識させられるような何かがあった。
まあ、何をもってそんなことを言うのかといわれると、良く分からんのですが、「その地に立つことで、身体が感じる違和感」が尋常でなく大きかったためというのが、理由と言えば理由です。それをあえて言葉にしてみると、集落なら「大地にがっしりと根付いているような、深く、密度のある空気感」、森ならば、「大和のあっさりとしたそれに比べると遥かに重厚で、傍に寄ると吸い込まれるような雰囲気」とでもいう感じ。
ある国の文化は、その地の身体観に基づくものだ、というような話をかつて身体教育研究所という場所で聞きましたが、ここで感じた違和感も、なにかそういうレベルの違いをである気がします。違和感と言っても、それはあくまで体感のことで、目に映るのは澄み渡った空や海、穏やかな静けさに包まれ、人々が自然に交流している集落、というような美しい風景だし、別に自分が拒絶されている感じがあるのでもない。ただ、「どうしようもないくらい違う」ということだけはなぜか感じたという。
今回知人からちらっと聞いたところでは、琉球のお墓は大和のお墓とはかなり格好が違い、弔いかたも大分違うらしいこと(歌ったり踊ったり)。また、魔を祓うための集落の構造上の工夫(海から来る魔は直進しかできないらしい)があること、習うスピリチュアルではなく、天然の霊能とでもいうべきものを身につける人が案外多いこと(おかしくなる人も多いらしいが)…などが、何かこの違和感と関係しているような気もしますが、具体的には何とも言い難い。
◆
大和と風習が違うと言えばそれまでだが、それは形だけのことで、私の感じた違和感に繋がるなにかは、琉球の人々の身体観であるとか、死生観であるとか、もっと深いところにあって、それは聞いたり読んだりして分かるような物でもないんだろうと思う。
とりあえず、国の編成上、日本の一部になっても、やはり、琉球は琉球なんだろうな、というのが、根拠もなく、しかし、非常な確信を持って言える今回の感想でした。
前回は書いているうちに眠くなって半端に終わったので続き…といきたいところだが、実はクラニオの姿勢については、そんなに厳密なものがあるわけではなかったりします。
とりあえず、前回書いた、ベッドや椅子の高さを十分調整し、腕が長時間同じ場所にあっても疲れないように、クッションやまくら等を使って、十分リラックスできるような状態を整える…という部分が姿勢に関わる第1段階。
◆まっすぐ
で、姿勢関連の第2段階は、そのリラックス状態を保ったまま、自分の姿勢をまっすぐにして、受ける人との距離感を適切に調整する、という感じ。まっすぐといっても、身体を練る(鍛える)ための姿勢ではないから、自分が十分リラックスして心地よいことが優先。まっすぐでリラックスしていることが必要な理由としては、「まっすぐの姿勢の方が結果的に自分が楽だ」ということと、「まっすぐの姿勢の方が今起きていることの情報が自然と受け取りやすい」ということが主に挙げられる。
自分がまっすぐかどうか確認するのには、ミッドライン(背骨とほぼ並行して走る、身体の中心にあるライン。おおよそ「正中線」のようなもの。詳細はいつか書くかも知れない。)という指標を用いることもあるが、あまり自分の体内やイメージの類に意識を向けると自分の身体が緊張するし、ミッドラインの感知よりは受ける方との距離感の方が重要なので、極端には気にしない。ぼんやりクラニオセッションをしていると、相手の方の方向に引き込まれやすいこともあり、いつの間にか身体が傾いて、受ける人の方に微妙に寄ってしまっていることもあるので、そういう時に、「まっすぐ」がどこか大体分かるミッドラインのような指標があると便利、というくらい。
◆距離感
受ける方との距離感の調整はほとんど勘のみの世界だが、かといって、そんなに超能力的な素養が必要なわけでもなく、気をつけていれば、誰でもわかるようになるものと思う(まあ、駅などで歩いていると、日本の街中の人々の多くはあまりにも他者との距離感に無頓着にも見えるが…)。距離感といっても、物理的に身体を大きく動かして数十センチ単位で距離を調整するわけではなく、意識を若干背中側に置くとか、視野を広く取るとかいった程度の方法で、ほとんど自分の意識のみで距離を取る(あるいは距離を取ったつもりになると言った方が良いかも)。つまり、距離感を調整する時も、見た目はあまり動いていない事が多い。
実際、やる側の人が、自分の腹側に主に意識をおいているか、背中側に意識を置いているかだけでも、受ける側の印象は大分変わる。やる側が物理的に動いて距離を取ろうとすると、あまりにも遠くなりすぎたり、相手に触れている場合は受ける人の身体を引っ張るような方向性を与えてしまうこともあるので、もし実際に大きく動く場合は一度受ける人に触れている手を離してから動くのが一般的。
他に、自分の背面・後方を意識する軸として、自分の後頭部からまっすぐ斜め後方に、地面に向かって延びている線をイメージし、それによりかかるようにする、というものも教えられるが、これは最初から意識するのはかなり難しいし、いつもやらなくてはならないものでもない。それを意識して変に緊張するくらいなら、初心の頃は背中を何となく感じるくらいで十分だろうと個人的には思っている。
◆重心
やる人の重心は落ちていた方がいい。受ける側の人は、やる側の人の身体状態や、やる人の存在そのものを道標のように用いつつ、自分の身体システムを整えていくようなので、受ける側の姿勢があまりフラフラしていると、受ける側のシステムも迷わせることになってしまう。クラニオはセッションが順当に進行すると、やる側も結構気持ちよいので、ついぼんやりしすぎてしまうことがあるが、その時には、自分の足(つまり地面や自分の重心)を意識するなどして、意識を飛ばしすぎないように気をつける。
変な例ですが、仮にクラニオをやる人が武術稽古も併習しているならば、嫌でもある程度重心は落ちていると思うのだが、クラニオの教程自体は、重心が落ちるのに役立つ何かを特別にすることがあまりないようなので(クラニオを受けていれば身体が変わるかもというのはおいといて)、まったく自分の身体を遣う習慣のないクラニオプラクティショナーの方は、どこかで自分の身体を遣う稽古(武術に限らず、ヨガとかフェルデンクライスなど、自分の身体を動かし、理解するワークならなんでも。)もした方がいいのかもしれぬとも個人的には思う。意識せずとも、ある程度重心が落ちていると、セッション中、突発的な事態(受ける人によっては、寝ていたと思いきや、いきなり飛び起きるなど、色々な事が起きることがあります。)にあってもあまり動揺せず、落ち着いて対応できるし、受ける人の身体システムがかなり興奮状態にあっても、それに引っ張られて自分も相手も一緒に興奮してしまうようなことも少なくて済む。やる側の人は「道標」なのだから、受ける人がどんな状態でも、それに一方的に引っ張られるのは駄目なわけですね。
◆
…まあ、やる側の人の姿勢に関してはおおよそこんな感じでしょうかね。結局、クラニオでは姿勢に関してはあまり具体的な決まりは多くなく、個人の裁量によるところが大きいといえそうです。同時に、ある程度まかされる部分だけに、この姿勢の充足度によって、プラクティショナーごとのセッションの安定度が違ってくる、ということは結構ありそうですね。
とりあえず、前回書いた、ベッドや椅子の高さを十分調整し、腕が長時間同じ場所にあっても疲れないように、クッションやまくら等を使って、十分リラックスできるような状態を整える…という部分が姿勢に関わる第1段階。
◆まっすぐ
で、姿勢関連の第2段階は、そのリラックス状態を保ったまま、自分の姿勢をまっすぐにして、受ける人との距離感を適切に調整する、という感じ。まっすぐといっても、身体を練る(鍛える)ための姿勢ではないから、自分が十分リラックスして心地よいことが優先。まっすぐでリラックスしていることが必要な理由としては、「まっすぐの姿勢の方が結果的に自分が楽だ」ということと、「まっすぐの姿勢の方が今起きていることの情報が自然と受け取りやすい」ということが主に挙げられる。
自分がまっすぐかどうか確認するのには、ミッドライン(背骨とほぼ並行して走る、身体の中心にあるライン。おおよそ「正中線」のようなもの。詳細はいつか書くかも知れない。)という指標を用いることもあるが、あまり自分の体内やイメージの類に意識を向けると自分の身体が緊張するし、ミッドラインの感知よりは受ける方との距離感の方が重要なので、極端には気にしない。ぼんやりクラニオセッションをしていると、相手の方の方向に引き込まれやすいこともあり、いつの間にか身体が傾いて、受ける人の方に微妙に寄ってしまっていることもあるので、そういう時に、「まっすぐ」がどこか大体分かるミッドラインのような指標があると便利、というくらい。
◆距離感
受ける方との距離感の調整はほとんど勘のみの世界だが、かといって、そんなに超能力的な素養が必要なわけでもなく、気をつけていれば、誰でもわかるようになるものと思う(まあ、駅などで歩いていると、日本の街中の人々の多くはあまりにも他者との距離感に無頓着にも見えるが…)。距離感といっても、物理的に身体を大きく動かして数十センチ単位で距離を調整するわけではなく、意識を若干背中側に置くとか、視野を広く取るとかいった程度の方法で、ほとんど自分の意識のみで距離を取る(あるいは距離を取ったつもりになると言った方が良いかも)。つまり、距離感を調整する時も、見た目はあまり動いていない事が多い。
実際、やる側の人が、自分の腹側に主に意識をおいているか、背中側に意識を置いているかだけでも、受ける側の印象は大分変わる。やる側が物理的に動いて距離を取ろうとすると、あまりにも遠くなりすぎたり、相手に触れている場合は受ける人の身体を引っ張るような方向性を与えてしまうこともあるので、もし実際に大きく動く場合は一度受ける人に触れている手を離してから動くのが一般的。
他に、自分の背面・後方を意識する軸として、自分の後頭部からまっすぐ斜め後方に、地面に向かって延びている線をイメージし、それによりかかるようにする、というものも教えられるが、これは最初から意識するのはかなり難しいし、いつもやらなくてはならないものでもない。それを意識して変に緊張するくらいなら、初心の頃は背中を何となく感じるくらいで十分だろうと個人的には思っている。
◆重心
やる人の重心は落ちていた方がいい。受ける側の人は、やる側の人の身体状態や、やる人の存在そのものを道標のように用いつつ、自分の身体システムを整えていくようなので、受ける側の姿勢があまりフラフラしていると、受ける側のシステムも迷わせることになってしまう。クラニオはセッションが順当に進行すると、やる側も結構気持ちよいので、ついぼんやりしすぎてしまうことがあるが、その時には、自分の足(つまり地面や自分の重心)を意識するなどして、意識を飛ばしすぎないように気をつける。
変な例ですが、仮にクラニオをやる人が武術稽古も併習しているならば、嫌でもある程度重心は落ちていると思うのだが、クラニオの教程自体は、重心が落ちるのに役立つ何かを特別にすることがあまりないようなので(クラニオを受けていれば身体が変わるかもというのはおいといて)、まったく自分の身体を遣う習慣のないクラニオプラクティショナーの方は、どこかで自分の身体を遣う稽古(武術に限らず、ヨガとかフェルデンクライスなど、自分の身体を動かし、理解するワークならなんでも。)もした方がいいのかもしれぬとも個人的には思う。意識せずとも、ある程度重心が落ちていると、セッション中、突発的な事態(受ける人によっては、寝ていたと思いきや、いきなり飛び起きるなど、色々な事が起きることがあります。)にあってもあまり動揺せず、落ち着いて対応できるし、受ける人の身体システムがかなり興奮状態にあっても、それに引っ張られて自分も相手も一緒に興奮してしまうようなことも少なくて済む。やる側の人は「道標」なのだから、受ける人がどんな状態でも、それに一方的に引っ張られるのは駄目なわけですね。
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…まあ、やる側の人の姿勢に関してはおおよそこんな感じでしょうかね。結局、クラニオでは姿勢に関してはあまり具体的な決まりは多くなく、個人の裁量によるところが大きいといえそうです。同時に、ある程度まかされる部分だけに、この姿勢の充足度によって、プラクティショナーごとのセッションの安定度が違ってくる、ということは結構ありそうですね。
クラニオ(バイオダイナミクス)のセッション中の姿勢について大雑把に書いてみます。
◆
ここまでの記事で何べんも書いてますが、クラニオはやる人が長時間じっとしている技法なので、姿勢は重要です。時に数十分もじっとしているので、リラックスできるような、心地よい姿勢である必要があります。まあ、しんどくなった場合は受ける方に言って姿勢を直せばいいんですが、初心の頃は気後れして言えなかったりするし、しんどくなるような姿勢になること自体はセッション開始前に予測されてしかるべきなので、セッション前に十分に安定できる姿勢を整えた方がいいのは言うまでもないです。
…と同時に、だらっとしている姿勢も良くないです。だらっとしていると、自分で勝手に気持ちよくなって、受ける側を無視してセッションが進んだり、受ける方の身体システムの状況が良く分からなかったりしますし、ある程度姿勢をまっすぐにして、きちんと座っている方が結果的に身体の局部に負荷がかかりにくく、楽でもあります。これはまあ、多分他の技法でも同じでしょう。
◆
クラニオセッションでは、受ける人にマッサージテーブル(大体高さ1メートル程度の、高さ調整ができる持ち運び用テーブル)の上に寝てもらい、やる人は椅子に座って、受ける方の身体に触れていきます。なので、まず楽な姿勢を取るために重要なのはベッドと椅子の高さです。やる人は実際に椅子に座ってみて、自分の身体に無駄な力が加わらない、適切な高さを確認し、ベッドの高さや椅子の高さを調整します。めんどくさいといえばめんどくさいのですが、この過程を無視して受ける方がベッドに乗ってしまうと、途中で簡単にベッドの高さ変更はできないので、自分に合わない高さのまま必死に姿勢を調整することになり、とても大変です。
後は、セッション途中で相手の方のベッドから多少高い位置(胸部など)に触れる時など、腕を上げる必要がある場合、何の対策もしないと腕が緊張してくるので、必要に応じてまくらやクッションなどを自分の肘の下に置いて高さを微妙に調整し、安定して触れ続けられるようにします。武術の鍛錬で、長時間腕を同じ格好で空中に固定していられるとかも可能性としてはなくもないですが、それも意識が緊張しますので、心地よさ重視で行きます。
◆
私の場合、クラニオを習いたての頃は、武術稽古の影響か、「しんどいはずの状況でも、できるだけ楽にできるように」などと考え、わざわざしんどそうな姿勢を選んだりしてましたが、クラニオの場合は、「自分が可能な限り楽な状況・姿勢」をちゃんと見つけて設定しないと、自分がしんどいくらいですから、相手の人も同じくらいしんどかったりします。そんなわけで、否応なく、心地よい姿勢というやつを探るわけですが、楽なことのはずなのに、逆に結構苦労しました。実際、自分に関して言えば、それまで「できるだけ心地よく」ということを考える機会はありそうでなかったものです。日本人の頑張る気質みたいなものはよい面もあるが、そういう心地よさの探求を苦手とする面にもつながってくる気もしますね。
…と、随分抽象的になりましたが、全体の姿勢方針はこんな感じで、(だらけない程度に)使うべき道具は遠慮なく使って、心地よさを重視するというところですかね。姿勢がまっすぐとかの実際の身体の姿勢についてはまた今度書きます。
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ここまでの記事で何べんも書いてますが、クラニオはやる人が長時間じっとしている技法なので、姿勢は重要です。時に数十分もじっとしているので、リラックスできるような、心地よい姿勢である必要があります。まあ、しんどくなった場合は受ける方に言って姿勢を直せばいいんですが、初心の頃は気後れして言えなかったりするし、しんどくなるような姿勢になること自体はセッション開始前に予測されてしかるべきなので、セッション前に十分に安定できる姿勢を整えた方がいいのは言うまでもないです。
…と同時に、だらっとしている姿勢も良くないです。だらっとしていると、自分で勝手に気持ちよくなって、受ける側を無視してセッションが進んだり、受ける方の身体システムの状況が良く分からなかったりしますし、ある程度姿勢をまっすぐにして、きちんと座っている方が結果的に身体の局部に負荷がかかりにくく、楽でもあります。これはまあ、多分他の技法でも同じでしょう。
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クラニオセッションでは、受ける人にマッサージテーブル(大体高さ1メートル程度の、高さ調整ができる持ち運び用テーブル)の上に寝てもらい、やる人は椅子に座って、受ける方の身体に触れていきます。なので、まず楽な姿勢を取るために重要なのはベッドと椅子の高さです。やる人は実際に椅子に座ってみて、自分の身体に無駄な力が加わらない、適切な高さを確認し、ベッドの高さや椅子の高さを調整します。めんどくさいといえばめんどくさいのですが、この過程を無視して受ける方がベッドに乗ってしまうと、途中で簡単にベッドの高さ変更はできないので、自分に合わない高さのまま必死に姿勢を調整することになり、とても大変です。
後は、セッション途中で相手の方のベッドから多少高い位置(胸部など)に触れる時など、腕を上げる必要がある場合、何の対策もしないと腕が緊張してくるので、必要に応じてまくらやクッションなどを自分の肘の下に置いて高さを微妙に調整し、安定して触れ続けられるようにします。武術の鍛錬で、長時間腕を同じ格好で空中に固定していられるとかも可能性としてはなくもないですが、それも意識が緊張しますので、心地よさ重視で行きます。
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私の場合、クラニオを習いたての頃は、武術稽古の影響か、「しんどいはずの状況でも、できるだけ楽にできるように」などと考え、わざわざしんどそうな姿勢を選んだりしてましたが、クラニオの場合は、「自分が可能な限り楽な状況・姿勢」をちゃんと見つけて設定しないと、自分がしんどいくらいですから、相手の人も同じくらいしんどかったりします。そんなわけで、否応なく、心地よい姿勢というやつを探るわけですが、楽なことのはずなのに、逆に結構苦労しました。実際、自分に関して言えば、それまで「できるだけ心地よく」ということを考える機会はありそうでなかったものです。日本人の頑張る気質みたいなものはよい面もあるが、そういう心地よさの探求を苦手とする面にもつながってくる気もしますね。
…と、随分抽象的になりましたが、全体の姿勢方針はこんな感じで、(だらけない程度に)使うべき道具は遠慮なく使って、心地よさを重視するというところですかね。姿勢がまっすぐとかの実際の身体の姿勢についてはまた今度書きます。
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プロフィール
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HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
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