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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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5/21に書いた日記の後半。たぶん長いので分割しました。
おもむろに自分の稽古し始めのころを振り返ってみる。
◆
過去の私自身は、クラニオを学び始めたり、中国武術の教室に来る前は勝手気ままに稽古らしきことをしていても何とかなると思って実行していた口で、そういう取り組みもそれなりの面白さがあることは理解しているので、何も習わずに自分で色々試すことや、色々な技術のつまみ食いをすることを特に否定するわけではないです。ただ、振り返ってみると、それらの選択肢ではどうしてもわかることには限界がある、もしくはあんまり効率が良くないというのも個人的実感です。
初期状態では全くの無知かつ運動不足ですから、そういう方法でもしばらくは何がしかの変化は見られるわけですが、私の場合はある程度それを続けていたら、だんだんむなしくなってきたわけです。何か自分の活動に「核」「魂」が欠けているというか、エゴの命じるまま自分勝手なことをしているような罪悪感にさいなまれるというか…。私よりもクリエイティブで才能ある方々は自分だけでもできるのかもしれませんけども、私自身は気力的にできそうに思えなかったので、結果、クラニオや中国武術を学んでいるわけですが、その選択ができてよかったと思っています。
私は身体に関する学びに興味を持ちはじめた時期は精神的に結構疲れてしまっていて(だから興味を持ったってこともあるんでしょうけど)、人から素直にものを習うことが非常にしんどい状態だったため、色々なところを回りながらも、なかなかこれを学ぼう!と思うものを見つけることができず、現在の状態まで来るのに随分遠回りしました。
その時体験した色々な苦労や複雑な思い、獲得した知識が今の学習の支えになっているという意味では、無駄な経験ではなかったと思いますが、最初から素直に人に学べるような健全な方に殊更に勧めたい選択肢ではないです。研究ならメイン分野を少し学んでからでもいくらでもできますし、一見地味と見える既存の体系を学んでいく道のりも、試行錯誤の機会や日々の発見はたくさんあります。
◆
もっとも、歩く道は人それぞれであり、私が遠回りせざるを得なかったように、それぞれの方の歩く道にそれぞれの意味があるのだろうとも思っています。「3年かけて良師を探せ」なんて言葉もありますけれど(私自身はクラニオに出会うまでに明らかに3年以上かかってます…)、自分自身の中で学習の準備ができるまでの期間や、ある分野について理解を深める期間も時にたくさん必要であり、人によってはいろいろな場所をうろついたり、無謀な取り組みをして痛い目に遭ったりする事も必要なんでしょう。
まあ、それらの放浪や迷走は「自分にあった選択肢を見つけ出すまでの見えざる天の試練」みたいなもので、自分が学ぶ条件が整わないと、そうそうスムーズに自分に合う場所には辿りつかないものなのかもしれません。…まあ、私自身の武術への取り組みは上記のようにアバウトなものですから、あんまり偉そうなことをいうのもなんですが、いろいろな体験をした結果、それなりに思う所もあったというところですかね。
◆
書いていて、あまり意識していなかったけれど、これはクラニオでも同じことだなと思いました。クラニオは表面的な手順そのものは難しくないかもしれないけれど、やはりそれなりの技術が体に身につくにはまとまった年月が必要と思いますし、時々くたびれたりしながらもカリキュラムで学びつづける中で段階的に分かってきたことはたくさんあります。
私は私なりのクラニオ観を持っていますが、これも体系立った学習を通じて先人の価値観に触れた体験があるから、原型を壊さない程度にそこに何かを積み上げたり、自分自身が持つ世界観と折り合いがつく地点を模索したりできるのだろうと思っています。…と、いうわけで、何となく最後にクラニオにつながったところで終了です。
おもむろに自分の稽古し始めのころを振り返ってみる。
◆
過去の私自身は、クラニオを学び始めたり、中国武術の教室に来る前は勝手気ままに稽古らしきことをしていても何とかなると思って実行していた口で、そういう取り組みもそれなりの面白さがあることは理解しているので、何も習わずに自分で色々試すことや、色々な技術のつまみ食いをすることを特に否定するわけではないです。ただ、振り返ってみると、それらの選択肢ではどうしてもわかることには限界がある、もしくはあんまり効率が良くないというのも個人的実感です。
初期状態では全くの無知かつ運動不足ですから、そういう方法でもしばらくは何がしかの変化は見られるわけですが、私の場合はある程度それを続けていたら、だんだんむなしくなってきたわけです。何か自分の活動に「核」「魂」が欠けているというか、エゴの命じるまま自分勝手なことをしているような罪悪感にさいなまれるというか…。私よりもクリエイティブで才能ある方々は自分だけでもできるのかもしれませんけども、私自身は気力的にできそうに思えなかったので、結果、クラニオや中国武術を学んでいるわけですが、その選択ができてよかったと思っています。
私は身体に関する学びに興味を持ちはじめた時期は精神的に結構疲れてしまっていて(だから興味を持ったってこともあるんでしょうけど)、人から素直にものを習うことが非常にしんどい状態だったため、色々なところを回りながらも、なかなかこれを学ぼう!と思うものを見つけることができず、現在の状態まで来るのに随分遠回りしました。
その時体験した色々な苦労や複雑な思い、獲得した知識が今の学習の支えになっているという意味では、無駄な経験ではなかったと思いますが、最初から素直に人に学べるような健全な方に殊更に勧めたい選択肢ではないです。研究ならメイン分野を少し学んでからでもいくらでもできますし、一見地味と見える既存の体系を学んでいく道のりも、試行錯誤の機会や日々の発見はたくさんあります。
◆
もっとも、歩く道は人それぞれであり、私が遠回りせざるを得なかったように、それぞれの方の歩く道にそれぞれの意味があるのだろうとも思っています。「3年かけて良師を探せ」なんて言葉もありますけれど(私自身はクラニオに出会うまでに明らかに3年以上かかってます…)、自分自身の中で学習の準備ができるまでの期間や、ある分野について理解を深める期間も時にたくさん必要であり、人によってはいろいろな場所をうろついたり、無謀な取り組みをして痛い目に遭ったりする事も必要なんでしょう。
まあ、それらの放浪や迷走は「自分にあった選択肢を見つけ出すまでの見えざる天の試練」みたいなもので、自分が学ぶ条件が整わないと、そうそうスムーズに自分に合う場所には辿りつかないものなのかもしれません。…まあ、私自身の武術への取り組みは上記のようにアバウトなものですから、あんまり偉そうなことをいうのもなんですが、いろいろな体験をした結果、それなりに思う所もあったというところですかね。
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書いていて、あまり意識していなかったけれど、これはクラニオでも同じことだなと思いました。クラニオは表面的な手順そのものは難しくないかもしれないけれど、やはりそれなりの技術が体に身につくにはまとまった年月が必要と思いますし、時々くたびれたりしながらもカリキュラムで学びつづける中で段階的に分かってきたことはたくさんあります。
私は私なりのクラニオ観を持っていますが、これも体系立った学習を通じて先人の価値観に触れた体験があるから、原型を壊さない程度にそこに何かを積み上げたり、自分自身が持つ世界観と折り合いがつく地点を模索したりできるのだろうと思っています。…と、いうわけで、何となく最後にクラニオにつながったところで終了です。
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今日はクラニオのことを書く気力が湧いてこないので、
日記風に稽古っぽいことなど書きます。
◆
2か月くらい前から、通っている中国武術教室で大極剣を習い始めました。武術を稽古されている方には説明するまでもないですが、中国武術では(というか世界中の多くの伝統武術では)拳術と武器術がセットになっており、太極拳にも「太極剣」が併設されている流派が多くあります。
中国武術の「剣」というのは細身の両刃の片手剣で、日本刀のような両手剣とはだいぶ様子が異なります。私が学ぶ太極拳流派の併設武器は剣のみですが、「大極刀(これも日本刀と違って片手で振る刀です。青竜刀みたいな感じです)」やその他私がまったく知らない武器を併設する門派もあるみたいです。
拳術と武器術がセットになっているのは、大雑把にいうと両者の技術に共通点があるからです。そのため、拳術をある程度学んで身体を作り、多少動けるようになってから武器術に進むのが一般的なようです。私自身は中国武術に関してはほとんど素人ですから、ようやく武器を習ってもよい段階に来たというところです。私は過去に若干の武術経験はありますが、新しい流派を習い始めたらやはりゼロからスタートということです。
剣の独特の使い勝手にはなかなか慣れませんでしたが、毎日のように振っていたら、なんとなく振れるような気にはなってきました。中国武術の剣は大変精妙な武器で、相手を両断するような使い方には向かないものの、剣先を相手の筋肉の隙間に滑り込ませるようなテクニカルな使い方を想定した恐ろしい武器とのことです。
そのため、技術が十分ならばあまり腕力がない(脱力しているという意味ではなく)人でも相手を無力化できる反面、熟練には長い修練(30年くらい)が必要とのこと。納得です。まあ、使う機会は一生ないだろうし、あったら困りますけど、現代における武術はそういうものでしょうし、のんびり取り組みたいところです。
◆
凄く当たり前なことなんですが、剣を習い始めて、何かの技術をある程度以上身に着けるにはしかるべき技術を伝えている方にちゃんと体系立てて教えてもらう機会がないとやはり駄目だなということを改めて実感しています。私が本か何か読んで自分で剣を懸命に振ってみたところで、剣は基本的にはこんな風に使うのだと先生に数分説明を受けたことを実感するだけで何年もかかってしまいそうです。
もちろん、練習して身に着けるのは自分自身ですから、教えてもらえる立場であっても、漫然と先生のいうことを聞くだけでは足りず、習得にあたっては自分なりの探求・試行錯誤・たくさんの自主稽古が必要といえます。しかし、もともと完成している体系の模範解答を最初から紹介されて努力するのと、知らないで取り組もうとする道のりには大きな違いがある気がします。
過去の私自身そうでしたが、そもそも、多少は身体や動きを見る目を持っているつもりでも、実際に教わってみると、事前に同流派の映像を見たことでは全く分からない点が非常に多かったです。自分にとって未知の世界なのですから、自分の既存の価値観・視点で判断することが至難なのは至極当然でありますが。
また、うまく言葉で言い表せませんが、何かの技術体系を学ぶことは、手の形とか腰構えみたいな単発のこつをたくさん身に着けることではなく、「それらの部分的注意全てを含む動きの雰囲気丸ごと全体」や「その流儀が持つ空気感・世界観」といった、先人が受け継いできた「パッケージ化されたその技術体系全体」を肌で丸ごと体験し続けることに意味がある気がします。連綿と受け継がれてきた智慧に触れることに意義があるとでも言いますか。まあ、対人稽古で強さを発揮するといった部分まで追求すると、そういう部分だけで満足していてはいけないのかもしれませんが、個人的には現状の割と緩い取り組みでもお腹一杯です。
…後半に続く。
日記風に稽古っぽいことなど書きます。
◆
2か月くらい前から、通っている中国武術教室で大極剣を習い始めました。武術を稽古されている方には説明するまでもないですが、中国武術では(というか世界中の多くの伝統武術では)拳術と武器術がセットになっており、太極拳にも「太極剣」が併設されている流派が多くあります。
中国武術の「剣」というのは細身の両刃の片手剣で、日本刀のような両手剣とはだいぶ様子が異なります。私が学ぶ太極拳流派の併設武器は剣のみですが、「大極刀(これも日本刀と違って片手で振る刀です。青竜刀みたいな感じです)」やその他私がまったく知らない武器を併設する門派もあるみたいです。
拳術と武器術がセットになっているのは、大雑把にいうと両者の技術に共通点があるからです。そのため、拳術をある程度学んで身体を作り、多少動けるようになってから武器術に進むのが一般的なようです。私自身は中国武術に関してはほとんど素人ですから、ようやく武器を習ってもよい段階に来たというところです。私は過去に若干の武術経験はありますが、新しい流派を習い始めたらやはりゼロからスタートということです。
剣の独特の使い勝手にはなかなか慣れませんでしたが、毎日のように振っていたら、なんとなく振れるような気にはなってきました。中国武術の剣は大変精妙な武器で、相手を両断するような使い方には向かないものの、剣先を相手の筋肉の隙間に滑り込ませるようなテクニカルな使い方を想定した恐ろしい武器とのことです。
そのため、技術が十分ならばあまり腕力がない(脱力しているという意味ではなく)人でも相手を無力化できる反面、熟練には長い修練(30年くらい)が必要とのこと。納得です。まあ、使う機会は一生ないだろうし、あったら困りますけど、現代における武術はそういうものでしょうし、のんびり取り組みたいところです。
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凄く当たり前なことなんですが、剣を習い始めて、何かの技術をある程度以上身に着けるにはしかるべき技術を伝えている方にちゃんと体系立てて教えてもらう機会がないとやはり駄目だなということを改めて実感しています。私が本か何か読んで自分で剣を懸命に振ってみたところで、剣は基本的にはこんな風に使うのだと先生に数分説明を受けたことを実感するだけで何年もかかってしまいそうです。
もちろん、練習して身に着けるのは自分自身ですから、教えてもらえる立場であっても、漫然と先生のいうことを聞くだけでは足りず、習得にあたっては自分なりの探求・試行錯誤・たくさんの自主稽古が必要といえます。しかし、もともと完成している体系の模範解答を最初から紹介されて努力するのと、知らないで取り組もうとする道のりには大きな違いがある気がします。
過去の私自身そうでしたが、そもそも、多少は身体や動きを見る目を持っているつもりでも、実際に教わってみると、事前に同流派の映像を見たことでは全く分からない点が非常に多かったです。自分にとって未知の世界なのですから、自分の既存の価値観・視点で判断することが至難なのは至極当然でありますが。
また、うまく言葉で言い表せませんが、何かの技術体系を学ぶことは、手の形とか腰構えみたいな単発のこつをたくさん身に着けることではなく、「それらの部分的注意全てを含む動きの雰囲気丸ごと全体」や「その流儀が持つ空気感・世界観」といった、先人が受け継いできた「パッケージ化されたその技術体系全体」を肌で丸ごと体験し続けることに意味がある気がします。連綿と受け継がれてきた智慧に触れることに意義があるとでも言いますか。まあ、対人稽古で強さを発揮するといった部分まで追求すると、そういう部分だけで満足していてはいけないのかもしれませんが、個人的には現状の割と緩い取り組みでもお腹一杯です。
…後半に続く。
「自然治癒力」という言葉を最近ツイッターなどでたまに見かけるので、それについて大雑把に書いてみます。何となく自然治癒力という響きの言葉を使いたくない気分なので、身体の自己調整力などと言い直して書きます。
最近見かけたつぶやきに、たしか「身体のゆがみが自然治癒力を妨げているので、ワークでそれを取るのだ」みたいなものがありました。別にそう考えても何ら問題ないと思いますが、このつぶやきをクラニオ(バイオダイナミクス)的に少々ひねって解釈すると、身体のゆがみもまた身体の自己調整力の働きの結果だ、と表現できるかもしれません。
◆
例えば、何かにぶつかったり、精神的なショックを受けて身体が強く緊張したり、仕事などでひたすら同じ部位を酷使したりすることで身体のゆがみは生じると思われますが、それらの「ゆがみ」も実のところ、身体に大きな負荷がかかった状態でもそれなりにバランスを取るために体が行った応急処置のようなものと考えることができるように思います。
なにがしかゆがみが生じるような事が起き、(もっと良い選択肢があったかもしれないというのは脇に置いて)ともかくその場でとっさに身体が対処するしかない場合、身体がゆがみという形でうまく色々なダメージを受け止め、体のパターンとして吸収してくれなければ、体はもっと深刻なダメージを受けてしまったのかもしれません。つまり、「体のゆがみができる過程」もまた身体の調整力のあらわれという解釈もできるのではと思います。クラニオではゆがみをファルクラムという名前で呼びますが、上記のとらえ方はその概念を参考にしています。要はゆがみがあるのもできるのも、身体がそれなりに現状に即応すべく努力した結果であり、別に悪ではないということです。
◆
同様に、病気もウイルスへの対抗手段や、極端な疲労に対して身体に半強制的に休息の機会を与えるための手段と考えれば、それもやはり身体の調整力の表現であり、身体が熱や咳、腫れなどで何らかの調整作用を発揮しようとしている状態が「症状」であるという解釈もできると思います。「風邪は身体の調整作用である」とみなす野口整体的に考えれば、風邪に限らず、病気で身体が色々な対処や休息をしている機会を利用して、身体が今よりよいバランスを整えようとする、ということもあるように思います。
もちろん、北極に裸で行くことが自殺行為であるように、人間の身体が対処できる範囲に当然限界はあり、調整力のキャパシティをはるかにオーバーするダメージを受けた場合は病院の助けを借りなければ対処できないかもしれませんし、借りてもどうにもならないときもあるとも思います。ここで言いたい事としては、病気の症状そのものも身体の調整反応のいち表現であることが個人的には納得できる、ということです。
◆
とはいえ、いくら自然治癒力の結果だとしても、しんどいものはなんとかしたいということで、そういったゆがみなどに対してボディワークの分野に対処が求められることがあるわけですが、例えばクラニオの場合なら、そもそも「ゆがみ=悪」ではないので、その除去を主目的とせず、「身体のゆがみという形として表れている調整作用の方向性を身体が自分から変えられないか見守る」といった対応をすると思います。
言い方を変えれば、「ゆがみを取ることにより、減っている調整力を増やす」のではなく、目の前の体が調整力を十分に表現していること、目の前の身体は常にベストを尽くしていることを前提として、いまの「ゆがみを中心として取っている身体全体のバランス状態」を、より負担が軽減された状態でバランスを取り直すことが可能かどうか待ってみる感じでしょうか。
そして、大概の場合、体はなんらかのポジティブな反応を表現してくれるわけです。セッションで症状やゆがみそのものが消えなかったとしても、それはおそらく、身を守るため等の必要性から、まだそれらを解消しないほうがよいと身体自身が判断しているだけで、クラニオをする側としては、セッションを通じて何かその人の中で新しいバランスが生まれ、ちょっとでも楽になる感じがあればそれで十分だろうと思っています。それが受ける方の身体の声を尊重することだと思っているので。
◆
なお、こういった場合、よりアクティブなボディワーク技法だと、こういう新しいバランスはどうでしょうと「提案する」とか、これが理想のバランスだと思うのだが、と「術者の理想を体験させる」といった手段をとるのかなと思っています。これらもまた、「身体との対話方法」の1つの形といえるでしょう。
なので、どんな手段を使っても症状を止めて、生命を永らえさせることを最優先する病院医療とボディワークはやはり方向性や役割が相当に違うものであるし、両者はそういう違いがあるからこそ、お互いに価値があるのだろうと改めて思います。
あとはまあ、そもそも身体の調整力というのは非常にハイスペックですから、極端なダメージを受けない限り、武術稽古(私にとっては武術がそれに相当するだけで、自分に合ってる運動という意味合いです…)でもして、ほどほどにバランスよく食べたり寝たりして、たまに不摂生もして楽しんで、身体に違和感を感じたり体調不良の時はしっかり休んでいれば、かなり身体の方でなんとかしてくれるんじゃないかとも思います。
…何かこの内容、前にも書いた気がしてきましたが、まあ、本当に重要かつ書きやすいことは限られていますし、表現が変われば雰囲気も目新しくなるだろうということで、ご勘弁願えればと。
最近見かけたつぶやきに、たしか「身体のゆがみが自然治癒力を妨げているので、ワークでそれを取るのだ」みたいなものがありました。別にそう考えても何ら問題ないと思いますが、このつぶやきをクラニオ(バイオダイナミクス)的に少々ひねって解釈すると、身体のゆがみもまた身体の自己調整力の働きの結果だ、と表現できるかもしれません。
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例えば、何かにぶつかったり、精神的なショックを受けて身体が強く緊張したり、仕事などでひたすら同じ部位を酷使したりすることで身体のゆがみは生じると思われますが、それらの「ゆがみ」も実のところ、身体に大きな負荷がかかった状態でもそれなりにバランスを取るために体が行った応急処置のようなものと考えることができるように思います。
なにがしかゆがみが生じるような事が起き、(もっと良い選択肢があったかもしれないというのは脇に置いて)ともかくその場でとっさに身体が対処するしかない場合、身体がゆがみという形でうまく色々なダメージを受け止め、体のパターンとして吸収してくれなければ、体はもっと深刻なダメージを受けてしまったのかもしれません。つまり、「体のゆがみができる過程」もまた身体の調整力のあらわれという解釈もできるのではと思います。クラニオではゆがみをファルクラムという名前で呼びますが、上記のとらえ方はその概念を参考にしています。要はゆがみがあるのもできるのも、身体がそれなりに現状に即応すべく努力した結果であり、別に悪ではないということです。
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同様に、病気もウイルスへの対抗手段や、極端な疲労に対して身体に半強制的に休息の機会を与えるための手段と考えれば、それもやはり身体の調整力の表現であり、身体が熱や咳、腫れなどで何らかの調整作用を発揮しようとしている状態が「症状」であるという解釈もできると思います。「風邪は身体の調整作用である」とみなす野口整体的に考えれば、風邪に限らず、病気で身体が色々な対処や休息をしている機会を利用して、身体が今よりよいバランスを整えようとする、ということもあるように思います。
もちろん、北極に裸で行くことが自殺行為であるように、人間の身体が対処できる範囲に当然限界はあり、調整力のキャパシティをはるかにオーバーするダメージを受けた場合は病院の助けを借りなければ対処できないかもしれませんし、借りてもどうにもならないときもあるとも思います。ここで言いたい事としては、病気の症状そのものも身体の調整反応のいち表現であることが個人的には納得できる、ということです。
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とはいえ、いくら自然治癒力の結果だとしても、しんどいものはなんとかしたいということで、そういったゆがみなどに対してボディワークの分野に対処が求められることがあるわけですが、例えばクラニオの場合なら、そもそも「ゆがみ=悪」ではないので、その除去を主目的とせず、「身体のゆがみという形として表れている調整作用の方向性を身体が自分から変えられないか見守る」といった対応をすると思います。
言い方を変えれば、「ゆがみを取ることにより、減っている調整力を増やす」のではなく、目の前の体が調整力を十分に表現していること、目の前の身体は常にベストを尽くしていることを前提として、いまの「ゆがみを中心として取っている身体全体のバランス状態」を、より負担が軽減された状態でバランスを取り直すことが可能かどうか待ってみる感じでしょうか。
そして、大概の場合、体はなんらかのポジティブな反応を表現してくれるわけです。セッションで症状やゆがみそのものが消えなかったとしても、それはおそらく、身を守るため等の必要性から、まだそれらを解消しないほうがよいと身体自身が判断しているだけで、クラニオをする側としては、セッションを通じて何かその人の中で新しいバランスが生まれ、ちょっとでも楽になる感じがあればそれで十分だろうと思っています。それが受ける方の身体の声を尊重することだと思っているので。
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なお、こういった場合、よりアクティブなボディワーク技法だと、こういう新しいバランスはどうでしょうと「提案する」とか、これが理想のバランスだと思うのだが、と「術者の理想を体験させる」といった手段をとるのかなと思っています。これらもまた、「身体との対話方法」の1つの形といえるでしょう。
なので、どんな手段を使っても症状を止めて、生命を永らえさせることを最優先する病院医療とボディワークはやはり方向性や役割が相当に違うものであるし、両者はそういう違いがあるからこそ、お互いに価値があるのだろうと改めて思います。
あとはまあ、そもそも身体の調整力というのは非常にハイスペックですから、極端なダメージを受けない限り、武術稽古(私にとっては武術がそれに相当するだけで、自分に合ってる運動という意味合いです…)でもして、ほどほどにバランスよく食べたり寝たりして、たまに不摂生もして楽しんで、身体に違和感を感じたり体調不良の時はしっかり休んでいれば、かなり身体の方でなんとかしてくれるんじゃないかとも思います。
…何かこの内容、前にも書いた気がしてきましたが、まあ、本当に重要かつ書きやすいことは限られていますし、表現が変われば雰囲気も目新しくなるだろうということで、ご勘弁願えればと。
クラニオ・バイオダイナミクスを視点を変えつつ何べんも説明してみようとする試みその3です。
今回は「スローダウン」という視点から語ってみようかなと。
◆
クラニオ・バイオダイナミクス(以下クラニオ)におけるひとつの特徴は、受ける方の身体に「静寂」や「スローダウン」を体験してもらうことをひとつの方針としていることです。例によって、クラニオでは受ける方に刺激を与えないようにするので、「静かにさせよう」とするわけではないですが、クラニオセッションを原則通りに行うと、受ける方の身体は、最初ざわざわしていた動きが静かになっていくことが大半です。
そして、静かになるを通り越して、あたかも体の動きが止まっているようなものすごく静まった状態になっていくこともあります(手から感じられる身体全体の印象です。もちろん心臓などは止まっていません…)。どの程度静かになるかは場合によりますが、いずれにせよ、セッションが進めば、受ける方の身体の雰囲気はスローもしくは静かな状態になっていくことがクラニオでは自然な流れです。
◆
おそらく、一般的に想像される整体的技法では、もともと動いている身体の働きを別の方向に導くとか、あんまり動いていない身体に圧を加えて動いてもらうといった形で、身体には「静けさ」というより「アクティブな状態」を体験させることを主目的とすることが多いのではと思います。アクティブな状態になった身体の働きを活用して身体を整えてもらう、というところでしょうか。
なお、これはあくまで「ありがちなイメージ」で、実際は整体的技法、ボディワークといっても非常に精妙なものが多く、上記の特徴は全然当てはまらない技法も多いことはお断りしておきます。また、アクティブな状態を体験させる方法も悪いわけでは全然なくて、技法として比較した場合のクラニオとの表面的な違いとして挙げられるというだけです。
◆
もっとも、クラニオでも、身体は一度静まったらずっと静かになっているわけではなく、最終的には静かになった状態から、もう一度自発的に新たな動きを始めます。そしてなぜか、その動きは、最初のざわざわした感じの動きよりも、落ち着いた規則的なものになっていることが多いので、受けた方の実感と合わせて、クラニオでは、これは、身体が今できる範囲で身体全体のバランスを組み替えているのだろう、と解釈しています。
なので、クラニオでも最終的には「新たな身体全体のリズム・動き」というアクティブとも取れるものを表現してもらうことが目的ともいえるんですが、それは静けさやスローダウンを経ての動きであって、アクティブな状態にアクティブな刺激を加えて起きた動きとは異なるわけです。クラニオではこの静けさを経由して起きた新しい動きを「再構成」と呼んでいます。まさに身体が自分でバランスを再構成している感じです。
この人体の「再構成」の働きがなぜ起こるのかは現時点では不明ですが(リアルタイムなので現在の機材では測定しようがないとは思います)、いつもそうなるので、クラニオでは、身体にはそういう働き・性質があることを前提として、術者は手を加えずその働きに身体の調整活動の一切をお任せしようとしているわけです。
◆
「クラニオでは受ける相手にインプットを与えない」という、毎回のように書いていることがありますが、今回の話の流れにつなげるとしたら、この「受ける方の身体にインプットを与えない(けど放置でもない)」を術者が徹底することで前述の「受ける方の身体状態のスローダウン」ならびに、「スローダウンした状態からの身体のバランスの再構成」という身体の自動的な調整の働きが高確率で発生する、といったところです。
なお、静かになった後の「再構成」ですが、規則的で落ち着いた雰囲気とはいえ、身体が適切なバランスを表現しようとするくらいですから、必ずしも弱弱しい動きではありません。静けさや静止状態は無力というイメージがあるかもしれませんが、中国武術に「太極は無極より生じる」などという言葉があるように、人体が表現する静寂の中にも実は今にも新たなリズムで動き出そうとする活発な働きが常に潜んでいる、と言えるのかもしれませんね。
今回は「スローダウン」という視点から語ってみようかなと。
◆
クラニオ・バイオダイナミクス(以下クラニオ)におけるひとつの特徴は、受ける方の身体に「静寂」や「スローダウン」を体験してもらうことをひとつの方針としていることです。例によって、クラニオでは受ける方に刺激を与えないようにするので、「静かにさせよう」とするわけではないですが、クラニオセッションを原則通りに行うと、受ける方の身体は、最初ざわざわしていた動きが静かになっていくことが大半です。
そして、静かになるを通り越して、あたかも体の動きが止まっているようなものすごく静まった状態になっていくこともあります(手から感じられる身体全体の印象です。もちろん心臓などは止まっていません…)。どの程度静かになるかは場合によりますが、いずれにせよ、セッションが進めば、受ける方の身体の雰囲気はスローもしくは静かな状態になっていくことがクラニオでは自然な流れです。
◆
おそらく、一般的に想像される整体的技法では、もともと動いている身体の働きを別の方向に導くとか、あんまり動いていない身体に圧を加えて動いてもらうといった形で、身体には「静けさ」というより「アクティブな状態」を体験させることを主目的とすることが多いのではと思います。アクティブな状態になった身体の働きを活用して身体を整えてもらう、というところでしょうか。
なお、これはあくまで「ありがちなイメージ」で、実際は整体的技法、ボディワークといっても非常に精妙なものが多く、上記の特徴は全然当てはまらない技法も多いことはお断りしておきます。また、アクティブな状態を体験させる方法も悪いわけでは全然なくて、技法として比較した場合のクラニオとの表面的な違いとして挙げられるというだけです。
◆
もっとも、クラニオでも、身体は一度静まったらずっと静かになっているわけではなく、最終的には静かになった状態から、もう一度自発的に新たな動きを始めます。そしてなぜか、その動きは、最初のざわざわした感じの動きよりも、落ち着いた規則的なものになっていることが多いので、受けた方の実感と合わせて、クラニオでは、これは、身体が今できる範囲で身体全体のバランスを組み替えているのだろう、と解釈しています。
なので、クラニオでも最終的には「新たな身体全体のリズム・動き」というアクティブとも取れるものを表現してもらうことが目的ともいえるんですが、それは静けさやスローダウンを経ての動きであって、アクティブな状態にアクティブな刺激を加えて起きた動きとは異なるわけです。クラニオではこの静けさを経由して起きた新しい動きを「再構成」と呼んでいます。まさに身体が自分でバランスを再構成している感じです。
この人体の「再構成」の働きがなぜ起こるのかは現時点では不明ですが(リアルタイムなので現在の機材では測定しようがないとは思います)、いつもそうなるので、クラニオでは、身体にはそういう働き・性質があることを前提として、術者は手を加えずその働きに身体の調整活動の一切をお任せしようとしているわけです。
◆
「クラニオでは受ける相手にインプットを与えない」という、毎回のように書いていることがありますが、今回の話の流れにつなげるとしたら、この「受ける方の身体にインプットを与えない(けど放置でもない)」を術者が徹底することで前述の「受ける方の身体状態のスローダウン」ならびに、「スローダウンした状態からの身体のバランスの再構成」という身体の自動的な調整の働きが高確率で発生する、といったところです。
なお、静かになった後の「再構成」ですが、規則的で落ち着いた雰囲気とはいえ、身体が適切なバランスを表現しようとするくらいですから、必ずしも弱弱しい動きではありません。静けさや静止状態は無力というイメージがあるかもしれませんが、中国武術に「太極は無極より生じる」などという言葉があるように、人体が表現する静寂の中にも実は今にも新たなリズムで動き出そうとする活発な働きが常に潜んでいる、と言えるのかもしれませんね。
ICSBの「チューター」である木村さんのサイト「クラニオジャパン」に
「クラニオコラム」というコンテンツができていると遅まきながら気づきました。
読みやすく興味深い内容なので、クラニオやボディワークに興味を持っておられる方には
おすすめです。以下ページの左わきのメニューから入れます。
◆クラニオジャパンHP
http://www.cranio-japan.net/
木村さんは通常のクラニオセッション以外にも「イントロダクションコース」という、
(ICSBの)クラニオ・バイオダイナミクスの概要紹介講座を開いています。
私自身も木村さんのこの講座の受講をきっかけにICSBの講座の存在を知ったひとりで、
木村さんには、学び始めから現在までお世話になりっぱなしです。
細かい技術の紹介はありませんが、「クラニオバイオダイナミクスをやる側」を
少し体験してみたい方はこのイントロダクションコースに参加されるのもよいかもしれません。
私が学んだICSBのクラニオ基礎コースは国内では当面新規開催の見込みがなく、
また、現在開かれているコースに途中から入ることもできないため、
このイントロコースはISCBのクラニオについて開かれている貴重な場といえますね。
「クラニオコラム」というコンテンツができていると遅まきながら気づきました。
読みやすく興味深い内容なので、クラニオやボディワークに興味を持っておられる方には
おすすめです。以下ページの左わきのメニューから入れます。
◆クラニオジャパンHP
http://www.cranio-japan.net/
木村さんは通常のクラニオセッション以外にも「イントロダクションコース」という、
(ICSBの)クラニオ・バイオダイナミクスの概要紹介講座を開いています。
私自身も木村さんのこの講座の受講をきっかけにICSBの講座の存在を知ったひとりで、
木村さんには、学び始めから現在までお世話になりっぱなしです。
細かい技術の紹介はありませんが、「クラニオバイオダイナミクスをやる側」を
少し体験してみたい方はこのイントロダクションコースに参加されるのもよいかもしれません。
私が学んだICSBのクラニオ基礎コースは国内では当面新規開催の見込みがなく、
また、現在開かれているコースに途中から入ることもできないため、
このイントロコースはISCBのクラニオについて開かれている貴重な場といえますね。
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プロフィール
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HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
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