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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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来週頭に私が学ぶクラニオ基礎教程の最終プレゼンがあります。
前にも書いたと思いますが、このプレゼンを無事乗り越えることで、「国際的にクラニオ・バイオダイナミクスのプラクティショナーと名乗れる資格」というなかなかありがたいものがもらえます。私が特別なわけではなく、たまたま選んだ教程が一定水準の教程内容を持っていたため、その資格が出せる国際的な団体に何年か前に加盟することになり、単にぶらさがっていた私はある意味運が良かっただけなのですが、素直にありがたいことです。
これまでの教程の学びで興味を持ったテーマに沿った論文を書くことが、基礎教程の講座内容が一通り終了した昨年末に出された課題のひとつで、最終プレゼンではその論文を要約したものを発表するのです。


論文自体は幸いにして日本語で書けば良かったので、長い文を書きなれている私は、それほど大変さを覚えたわけではないですが、A4用紙十数枚くらい書けばよいと言われたところを調子に乗ってA4用紙に80ページくらい書いてしまったので、自分で収拾をつけるのが大変になりました。例えば、ある部分を直すと、それと連動した他の部分も整合性を取らねばならなくなるわけですが、それがどのあたりにあるかを探すのが面倒だったりしました。まあ、自業自得というやつです。そんな状況で進めたので、「1版」を一通り書き上げたのは今年の初めでしたが、結局、状況や考え方の変化に応じて内容をちまちまと何度も直していたら1年経ってしまいました。

論文には、「クラニオではどのように技術を身につけていくのか(上達していくのか)」というようなことを書きました。書いた内容そのものはおおよそこのブログで日々言っているようなこととそんなに変わりません。
ただ、作成に当たり、なんとか私のもうひとつのメイン学び対象である武術方面と少しでも内容を関係させたいという極めて個人的なこだわりを発揮したため、理解不十分にもかかわらず、突然「拳意術真(私が学ぶ流派の開祖である孫禄堂老師が中国武術の学習過程や有名な達人の語録や練習の秘訣などについてまとめた本)」の記述を取り出してクラニオの学習過程と比較してみたりと無謀というか、得体の知れない展開をしています。その辺は「一応身体を扱うガクモン」つながりで、勘弁してくれるものと期待しています。


なお、このプレゼン会場もいつもと同じ大阪です。最後だからと言って贅沢な場所ということもありません。国内でもごく少ない関係者向けなので、プレゼンといっても、大ホールなどが用意されるわけでもなく、ビルのやや大きめの会議室内で淡々と行われる見込みです。まあ、そんなもんでしょう。

順当に行けば、来週の今頃はプレゼンが全て終了して家についているころでしょうか。いったいどんな心境になっているんでしょうかね。まあ、今とあんまり変わらないんじゃないかという気もしますが、とりあえずこれで一区切りということで、粛々と実行してこようと思います。

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ある身体技法体系を一通り学ぶのに時間がかかるのは、練習を重ねるうちに、技法の奥底に流れるエッセンスのようなものを体得していくのに時間がかかるというのがあるかも、と前の記事では述べてみましたが、「術者自身がその技術を使いこなすために自分自身を整え、自分の土台を作るのに年月がかかるため」という点もありそうに思いました。
きっかけは以下のエネルギーワーカーの方のブログを読んだことです。

●「セラピストの自己メンテナンスの重要性」
http://angel.ap.teacup.com/yukoji/1085.html
主にエネルギーワーカーの方向けの表現になっているようですが、本文中で使われている言葉をいくつか変えれば、ボディワークの類でも、場合によっては武術などにも当てはまるかもしれないと思いました。

これを「癒し」といった言葉を使わずに自分なりに述べるならば、「相手に何らかの技術を持って対するのにあたっては、まずは自分自身がしっかりとした土台を持たねばならず、その土台ができるにはある程度の時間がかかる」というところでしょうか。
他で余程の経験を積んだ人の場合や、身近な人に手軽に使う目的で学ぶ分にはそこまできっちりする必要はないかもしれませんが、ある技法の看板を背負って不特定多数の方に対人技法を行うに当たっては、やはりそういった土台があることが望ましいとは私も思います(私自身の「土台」の軟弱さには反省の念を覚えますが、それはとりあえずここでは置いておくとして)。まあ、どう学ぼうと個人の自由ではあるのですが、そういった土台があったほうが対応力も増すだろうし、何より自分自身が安全だろうと思います。
要は、他人のために何かを学ぶという思いがあったとしても(私自身はそんなに立派な動機はないです)、その手段を得るには「自分自身のための学び」をきっちり行う必要があるということでしょうか。


少し視点を変えて、メンテナンスという言葉から考えると、ある技法体系を学ぶ時に、自分で技術経験を積み重ねるのみならず、自分がほかの人の技法を「受ける」体験が大きな役割を果たしていそうです。
実際、私が学ぶ講座でも、講座や講座の合間には、同期との「交換セッション」で自分自身が「受ける側」になったり、また、すでに活躍している先輩のプラクティショナーからも規定数のセッションを受けることが修了条件として課せられています。それらの体験によって、先輩方の手順を学んだり、セッションそのものの恩恵を受けられるとともに、自分自身の疲労しやすい部位などについて(ひいては自分の日常の行動パターンについても)理解を深められる部分もあり、それが結果的に「相手に対するための土台」の一部になっていくのかもしれません。
セッションを受けてみると、結構疲れていたんだなとか、平気だと思っていたが実は煮詰まっていたようだ、など、色々感じるところはありますが、やはり1回や2回受けただけだと、気持ちよいとか手順がどうだというレベルで終わってしまいそうであり、何年も(私の場合は必要性を必ずしも感じずに受けるのでなおのこと)受ける立場になることで見えてくるもの、身体で学ぶものもあるのだろうと思います。


もっとも、クラニオの場合、セッションの恩恵といっても、私自身に関して言うならば、確かに「長期的に見ると前の自分と何かが違う」感じは明らかにするのですが、私は自身にめだった体調不良や病気や大変な悩みがあったわけではないので、具体的に何が変わったのかはなかなか表現し難いものがあるのは困りものです。
しいていえば、会社づとめなどをしていて、前よりも「色々対応できるようになった」「安定した」という実感はありますかね。まあ、これは単純に仕事に慣れたとか、武術の稽古の影響とか、その他の要因もあるに違いなく、クラニオが全面的に影響しているわけでもないでしょうが、「私が今の私になる」ためにクラニオの学び(やる側としても、受ける側としても)が重要な役割を果たしてくれたのは間違いないと思っています。仮に私が今後クラニオをやらなくなったとしても、その思いはなくならないと思います。


なんだかまとまりがない話になりましたが、何かの技法体系の学びがしばしば長期に及ぶのは、技術を身につけるのみならず、「それを使うにふさわしい自分自身」へと自分を整えていく過程を着実に踏んでいくため、という説明は、理由のひとつとして納得のいくところです。

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クラニオ・バイオダイナミクスの学習体系に、ここまでしばしば紹介した、「身体に積極的に働きかける色々な技」も含まれているのはなぜだろうと思っていましたが、理由のひとつとして、クラニオ学習者の技の質をスムースに「形あるものから形なきものへ」移行させる手助けの意味合いがあるのでは、と先日ふと思いました。あくまで私の勝手な解釈で、違うかもしれませんが。


「形あるものから形なきものへ」というのは、身体を遣う技術が上達するにつれ、その姿がどのように変わっていくか、という話です。学び始めは型などの姿勢や手順がしっかりした「形のある」ものを繰り返しますが、熟練するにつれ、その型のエッセンスが深く体得され、殊更に手順や形を意識しなくても、状況に応じた動作や対応が自然と現れてくる「形がない」ものへと変わるというような意味合いです。最初は形として目に見えた技術が、熟練するにつれてその人自体と一体化していき、やがて同じ技術を使っていても、それを使っている(というか意図して「使っている」意識が最早ない)ことが外見からは分かりにくくなる、という感じです。有名な言葉だと「守破離」みたいなものでしょうか。

もちろん、「形がない」を体感した状態でも、それは終わりではなく、「形がない」の段階に至った時点でまた「形に戻る」と、さらに上位の「形がない」状態に至るヒントがあったりするものだろうとも思います。とりあえずここでは「技とは形がある状態と形がない状態を往復する」もののような気がする、ということです。


これをクラニオ学習体系に関して言うならば、クラニオ・バイオダイナミクスの最大の特徴と思われる「介入しない」「ただからだの声を聴く」を原理として初期段階から紹介しつつも、同時に時折「特定の骨に働きかけるけど全体も見る」「相手の身体に能動的に働きかけるが、最低限の介入ですむようにする」といった、「ゆるいけれども介入する方法」も体験させるという一見矛盾したことをしているといえます。しかし同時に、そうすることによって、「最低限のことのみを行う」「ただ相手の身体の声を聴く」態度の質を深めやすくなる部分もあるのではとも思います。
「微細に介入する」ことも知っていれば、「介入しない」がどういう状態か想像しやすいということもあるでしょうし、学習の初期段階では、介入しないといっても、そもそもどういうことか良く分からないので、同じような内容を、徐々に段階を踏んで教えてくれている部分もあるのだろうと思います。
いきなり最初から「何もしない」などと教えたら、多分初心者はあさっての方向に向かってしまいかねないので、まずは形がある部分、わかりやすい考えからしっかり教え、学習が進むに連れ、徐々に深い部分を体感してもらい、結果的に効率的に技術を深められる、ということではないかと。


ゆえに、クラニオ基礎教程で4年もかけてなにをするのか、といえば、別に特別な秘伝的な訓練があったりするわけではなく、クラニオとしては一般的な内容を丁寧に、数多く体験することで、学習開始当初は「放置」と同義かもしれない、「介入せず、ただ身体の声を聴く態度」の質を熟練により、「技術」と言ってよい領域にまで高めるというだけなのだろうと思います。実際、「見える部分」である相手への触れ方や手順自体は難しくないので、学習経験を通じていかに「見えない部分」を育めるかが重要であり、それには「一応一人前」といえる程度になるまででも、相応の年月がかかるということなのでしょう。

武術の例でいうならば、入門の最初に紹介されたただ前方に突きを打ちながら移動する(一見)シンプルな型が、長い稽古を経てその人の底力(中国武術に言う功夫)が高まることで、同じ動作でありながら、極めて強大な威力を有する動作に変わっていくようなものでしょうか。クラニオと突きを対比するのは微妙な気もしますが、「ある技の体得過程」という視点から見るならば、似た部分もありそうに思います。


実際、私自身もクラニオを学び始めて、まあなんとかやれなくもないかなという気になってきたのは3年目くらいからのような気がします。まあ、クラニオ教程に色々な内容が含まれていることの理由がこれなのかは良く分かりませんが、伝統武術でもボディワークでも、身体を使う技法・流儀には、上記の如き「形あるものから形なきものへ」や「テクニックの数を増やすというより、自分のコア部分を経験の積み重ねにより強化」する世界観を持つものが多いのでは、とは思っています。

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先日クラニオをやっている知人と交換セッションをしたのですが、こちらは最近のマイブームよろしく、ともかく馬鹿正直に「可能な限り余計なことをしない(最低限のことだけする)」をもっと追求してみようということで、その方針を実施しました。
結果、概ね良い感じになったわけですが、今回の発見としては「1次呼吸の動きを見ようとする」こと自体が既に余計なことだったのではないか、ということ。もちろん、その働きを「がんばって見ないようにする」のでもなく、「全体としての身体の色々な変動の中に1次呼吸もある状態」をただ感じている、という感じです。

これは、小難しく言えば、「方法Aにより、身体のある部位に意識を集めるとB状態(例えばゆるむ)になる」という「因果関係」でものを捉えようとしたり、「全体」の中に因果関係を探したり(作ったり?)するのではなく、「リアルタイムに変化する全体」をまるごとただ見つめるというようなことでしょうか。そうすることで、何か起こるべき事が起こっていくというような。


1次呼吸はクラニオでは重要な要素とされますが、クラニオ・バイオダイナミクスでは1次呼吸をコントロールするようなことはしません。これはたとえば、「1次呼吸の働きによって動いている体液の具体的な挙動を、のぞき込んで観察」したり、「エネルギーややや強い意識で体液の方向付けをするなどの操作」といったことですが、より厳密に行おうとすると、「1次呼吸の働きを特に見つめようとする」こと自体も、ある種の緊張になっているのではないか、と感じたわけです。

私は、1次呼吸によって動かされているものになんとなく注目している時に、結果的に自分自身の身体が緊張しているなと感じたわけですが、こういう深い状態でのセッションでは、「同調」によって、自分の緊張というのは相手に結構正確に伝わるものなので、それもないほうが良いのでは、と感じたわけです。まあ、これも要は「軽いのぞき込み」なのかもしれませんが、まだ相手に対して色々な事をしているのだなというのは感じられました。


とはいえ、「何もしない」を突き詰めて「相手を放置する」になってしまっては本末転倒(何も起こらなくなる)なので、どこまで最小限度の「やってよいこと」を私は行ってよいのか、そして、最低限のことを行うという条件のもとで、身体にとって「もっともしっくりくる」状態が生じるのはどの地点なのか、といった特性は今の私が「ちょっとやらなすぎ」である可能性も含め、少しずつ探求・把握したく思うわけです。
また、クラニオも対人技法のひとつでありますから、身体に任せる方針の技法とはいえ、受けた方に何らかの身体でのまなびや体感としての満足感を持ち帰ってもらえたらという気持ちは当然あるわけです。そんなわけで、自分の行動を「どこまでならカットしていいのか」ということが今後のテーマになっていきそうな気がしたセッションでした。


「何もしない」というと誤解を招きそうなので別の表現を借りてくると、クラニオ創始者のサザーランド博士は「静まりて聴くべし」という言葉を残されたそうです。「ただ相手の身体の声を聴く」というところでしょうか。このほうがロマンチックかつ、怠惰な響きがなくて良いかも知れません。つまりは「なにを、どの程度、どんな態度で、聴くか」あるいは、「聴く以外」のことはどの程度まで許可されうるのか、といったその辺りの細かい部分を探求しようとしているということです。これからは「何もしない」ではなくて「声を聴く」と言ったほうが良い気がしてきました。

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クラニオを私が学び始める直前(数年前)にクラニオ・バイオダイナミクスの大家ジム・ジェラス氏の講演を聴いたと少し前に書きましたが、探していたら、その時のメモらしき物(講演に行ったが書くものを持っていなかったらしく、ホテルの地図の裏に無造作に書いてある)が出てきたので、感想や若干の引用など。

結論から言うと、クラニオ・バイオダイナミクスについて、ごく常識的かつ、重要なことを氏なりの言葉で分かりやすく話そうとしているのだな、という印象です。今の私ならついて行ける内容ですが、はっきり言って、当時の私には「何か深いことを言っている」という以上のことは分からなかったと思います。更に言えば、当時の私には本当に相手に何も手を加えなくてもなにかが起きるなんて事があると想像すらできなかったと思うので、そもそも言っている事の意味が分からず、おそらく当時の自分に理解できる知識や世界観に勝手に変換の上、明後日の方向に勘違いして理解していたと思われます。


なお、前述の通り、ジム・ジェラス氏はクラニオ・バイオダイナミクスの大家として知られる人物ですが、実質的にはクラニオ創始者のサザーランド氏からオステオパシーの一部としてクラニオを直接学んだ「正統な伝承者」的ポジションの方です。
私自身はクラニオを学ぶと言っても、「(オステオパシーの難しい部分と医療的権限はカットした)クラニオ・バイオダイナミクスに特化した民間向けプログラム」に参加しているわけで、お医者さんとほぼ同等の権限と知識を持っているオステオパスでもあるジェラス氏と立場的にも知識レベルも全く異なっているといえます。

なので、同じクラニオ・バイオダイナミクスを学んでいることになっていても、彼の思想や実際の技法は私の理解と色々違うのかも知れませんが、このメモを見る限り、クラニオ・バイオダイナミクスの根本思想自体は私が学んだ内容や、今の私の実感とほとんど変わらないようには見えす。
…ここで落ち着いて考えてみると、私が学んでいる先生の旦那さん(その方もクラニオの先生をしている)がジェラス氏から現在直々に教わっているそうなので、その学びの成果が間接的に私が学ぶ講座内容にも何か影響を及ぼした可能性もゼロではない…のかもしれないです。


で、メモの内容に移りますが、クラニオを行う基本的態度としては以下のようなことが書いてあります。「病を取り除くのではなく、相手の中に起こっているもともとある自然な性質とコミュニケーションをとる」「例えば、ねんざの人を前にしたときも、ねんざという部分ではなく相手の全体を見て、受け手の持つ整う力はどこにあるのか耳を澄ます(「整う力を送る」のではない)」「既に相手の身体の中に起こっている「その人を活かしている」働きにただついていく(追随する・強化するという意味ではなく見守るという意味だと思います)」。他にも「静けさを相手と共有する」「手を使って聴くのみ」という表現もあります。ほぼ私が習った内容そのものという印象です。

いかなる人の身体にも自らの内に「整う働き」があり、その働きを強化するでもなく、その働きを時に感じつつただ静かに傍にとどまることで、結果的にその「整う働き」が自ずから作用し「その人の身体に必要なこと」が起こる、というようなことだと思います。今記憶を掘り起こしてみると、当時の私は「クラニオは人が整う働きを強化する」ものだと勝手に理解した気がするので、やっぱりよくわからなかったんでしょう。


クラニオで重視されている「1次呼吸」については「生理学、解剖学的な意味で(サザーランド氏の時代には)これまで未発見だった人体の働き」「脳、経絡、マインド、いずれとも異なる」「自動的に働きつづけるものであり、コントロールは不可能である」などなどです。
コントロールは不可能であるというのは、以外と忘れているけれど、とても明確な特徴を現しているなとこれを見て思いました。「1次呼吸を重視」というのは、「1次呼吸をコントロールする」ことではない、ということを理解するのに私も時間がかかりました。なお、当時の私は「1次呼吸」ではなく、「一時呼吸」とことごとくメモしているので、この語自体が理解できなかったものと思われます。

「「治る」かどうかは問題ではないし、部分を「治し」ても相手のためにならないかもしれない」などの大胆発言もあります。私みたいな医療と関係のない立場なら「私はお医者さんではないので、医療行為は行わない」で済みますが、この方の立場で堂々と言えるのは凄いことです。

大家だけにセッション経験は膨大で、服役囚(だったと思う)にセッションをしたこともあるという話も出ました。その時はさすがの氏も心中複雑であったようですが、「法律上ではいかなる悪党だろうと「整う」働きは等しくその人を生かし続けている」「どんな相手がクライアントでもこの働きを信頼し、敬意を払う」態度で問題なくセッションを行えたようです。人は色んな事をするし、色々な個性を持っていますが、こういった部分を見れば同じ人間であり、その働きに耳を澄ますという態度の前には、その人が背負う一切のものは、その瞬間だけでも無となるのかも知れませんね。


他にはクラニオセッションの中で出会うことがある「ダイナミック・スティルネス」の状態についての解説もあります。正直、今このメモの記述「スティルネスは静けさの中にバイブレーションがかすかにある感じだが、ダイナミックスティルネスには本当に何にもない」を見て「スティルネス」と「ダイナミック・スティルネス」の体感としての違いがやや明確になった感じです。

「ダイナミック・スティルネス」の状態については、「星々の間の空の色」「出来事が起こる前の状態」「「無極」とはこういうものかもしれない」などとも書いてあります。これは体験しないと全く分からない世界であって、当時の私に理解を求めるのは酷な内容です。クラニオ・バイオダイナミクスを始めた人がこのワークを続けるのは、この「星々の間の空の色(人によって表現は違うと思いますが、これは納得感のある表現です)」が忘れられないからかも知れません。これは出会いたくても出会えないことの方が多い、秘境や蜃気楼のごとき状態といえましょうか。
人の中に時として、このような無限とも言える世界が広がっているように見えるのは、本当に不思議です。なお、この状態は単に不思議というだけではなくて、人が自ずから自らの内の何かを変えていく前の準備段階のようなもので、単なる神秘体験や気のせいではない、人体にとって意味のある現象です。


最後の方に、少しでもクラニオらしき体験ができれば、ということで、瞑想みたいなワークも体験させてくれたようです。やり方としては「自分の中の「何もない点」に目を向けて、思考を止める」「暖かい流れのようなものを感じたら、ただその流れに耳を傾ける」というもののようです。「とりあえず、深く落ち着いてみる。1次呼吸らしきはたらきが体験できたらもうけものかな」…といった意味合いで実施してくれたのだと思います。
当時の私が1次呼吸を感じたかは不明ですが、やたらと眠たくなって、帰りの電車でぼんやりして(寝ていたわけではないのだが)降りる駅を2つくらい通過してしまったというのは覚えています。


…という感じだったようです。当時の私にも、理解は十分できないまでも、なかなか有意義な体験だったみたいですね。そして、今になって見返すことで、自分のポジションに少し自信が持てた気もします。まあ、他の技法でもそうですが、同じ事を体験したり同じとされる技を使ったりしていても、熟練者と初心者ではその体験の質が全く違うのであって、当時の氏の話は現在の私にも十分理解できていない部分があるかもしれぬ、とも思いますが。
ただ、それを差し引いても、数年後になお影響を与えてくれるとは、ジェラス氏は(確か講演前に「滅多に人前でこうやって話をすることはないので、うまく話せるか分からないが…」と言われていたと記憶していますが)さすがのクラニオ達人であるといえましょう。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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