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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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クラニオを私が学び始める直前(数年前)にクラニオ・バイオダイナミクスの大家ジム・ジェラス氏の講演を聴いたと少し前に書きましたが、探していたら、その時のメモらしき物(講演に行ったが書くものを持っていなかったらしく、ホテルの地図の裏に無造作に書いてある)が出てきたので、感想や若干の引用など。

結論から言うと、クラニオ・バイオダイナミクスについて、ごく常識的かつ、重要なことを氏なりの言葉で分かりやすく話そうとしているのだな、という印象です。今の私ならついて行ける内容ですが、はっきり言って、当時の私には「何か深いことを言っている」という以上のことは分からなかったと思います。更に言えば、当時の私には本当に相手に何も手を加えなくてもなにかが起きるなんて事があると想像すらできなかったと思うので、そもそも言っている事の意味が分からず、おそらく当時の自分に理解できる知識や世界観に勝手に変換の上、明後日の方向に勘違いして理解していたと思われます。


なお、前述の通り、ジム・ジェラス氏はクラニオ・バイオダイナミクスの大家として知られる人物ですが、実質的にはクラニオ創始者のサザーランド氏からオステオパシーの一部としてクラニオを直接学んだ「正統な伝承者」的ポジションの方です。
私自身はクラニオを学ぶと言っても、「(オステオパシーの難しい部分と医療的権限はカットした)クラニオ・バイオダイナミクスに特化した民間向けプログラム」に参加しているわけで、お医者さんとほぼ同等の権限と知識を持っているオステオパスでもあるジェラス氏と立場的にも知識レベルも全く異なっているといえます。

なので、同じクラニオ・バイオダイナミクスを学んでいることになっていても、彼の思想や実際の技法は私の理解と色々違うのかも知れませんが、このメモを見る限り、クラニオ・バイオダイナミクスの根本思想自体は私が学んだ内容や、今の私の実感とほとんど変わらないようには見えす。
…ここで落ち着いて考えてみると、私が学んでいる先生の旦那さん(その方もクラニオの先生をしている)がジェラス氏から現在直々に教わっているそうなので、その学びの成果が間接的に私が学ぶ講座内容にも何か影響を及ぼした可能性もゼロではない…のかもしれないです。


で、メモの内容に移りますが、クラニオを行う基本的態度としては以下のようなことが書いてあります。「病を取り除くのではなく、相手の中に起こっているもともとある自然な性質とコミュニケーションをとる」「例えば、ねんざの人を前にしたときも、ねんざという部分ではなく相手の全体を見て、受け手の持つ整う力はどこにあるのか耳を澄ます(「整う力を送る」のではない)」「既に相手の身体の中に起こっている「その人を活かしている」働きにただついていく(追随する・強化するという意味ではなく見守るという意味だと思います)」。他にも「静けさを相手と共有する」「手を使って聴くのみ」という表現もあります。ほぼ私が習った内容そのものという印象です。

いかなる人の身体にも自らの内に「整う働き」があり、その働きを強化するでもなく、その働きを時に感じつつただ静かに傍にとどまることで、結果的にその「整う働き」が自ずから作用し「その人の身体に必要なこと」が起こる、というようなことだと思います。今記憶を掘り起こしてみると、当時の私は「クラニオは人が整う働きを強化する」ものだと勝手に理解した気がするので、やっぱりよくわからなかったんでしょう。


クラニオで重視されている「1次呼吸」については「生理学、解剖学的な意味で(サザーランド氏の時代には)これまで未発見だった人体の働き」「脳、経絡、マインド、いずれとも異なる」「自動的に働きつづけるものであり、コントロールは不可能である」などなどです。
コントロールは不可能であるというのは、以外と忘れているけれど、とても明確な特徴を現しているなとこれを見て思いました。「1次呼吸を重視」というのは、「1次呼吸をコントロールする」ことではない、ということを理解するのに私も時間がかかりました。なお、当時の私は「1次呼吸」ではなく、「一時呼吸」とことごとくメモしているので、この語自体が理解できなかったものと思われます。

「「治る」かどうかは問題ではないし、部分を「治し」ても相手のためにならないかもしれない」などの大胆発言もあります。私みたいな医療と関係のない立場なら「私はお医者さんではないので、医療行為は行わない」で済みますが、この方の立場で堂々と言えるのは凄いことです。

大家だけにセッション経験は膨大で、服役囚(だったと思う)にセッションをしたこともあるという話も出ました。その時はさすがの氏も心中複雑であったようですが、「法律上ではいかなる悪党だろうと「整う」働きは等しくその人を生かし続けている」「どんな相手がクライアントでもこの働きを信頼し、敬意を払う」態度で問題なくセッションを行えたようです。人は色んな事をするし、色々な個性を持っていますが、こういった部分を見れば同じ人間であり、その働きに耳を澄ますという態度の前には、その人が背負う一切のものは、その瞬間だけでも無となるのかも知れませんね。


他にはクラニオセッションの中で出会うことがある「ダイナミック・スティルネス」の状態についての解説もあります。正直、今このメモの記述「スティルネスは静けさの中にバイブレーションがかすかにある感じだが、ダイナミックスティルネスには本当に何にもない」を見て「スティルネス」と「ダイナミック・スティルネス」の体感としての違いがやや明確になった感じです。

「ダイナミック・スティルネス」の状態については、「星々の間の空の色」「出来事が起こる前の状態」「「無極」とはこういうものかもしれない」などとも書いてあります。これは体験しないと全く分からない世界であって、当時の私に理解を求めるのは酷な内容です。クラニオ・バイオダイナミクスを始めた人がこのワークを続けるのは、この「星々の間の空の色(人によって表現は違うと思いますが、これは納得感のある表現です)」が忘れられないからかも知れません。これは出会いたくても出会えないことの方が多い、秘境や蜃気楼のごとき状態といえましょうか。
人の中に時として、このような無限とも言える世界が広がっているように見えるのは、本当に不思議です。なお、この状態は単に不思議というだけではなくて、人が自ずから自らの内の何かを変えていく前の準備段階のようなもので、単なる神秘体験や気のせいではない、人体にとって意味のある現象です。


最後の方に、少しでもクラニオらしき体験ができれば、ということで、瞑想みたいなワークも体験させてくれたようです。やり方としては「自分の中の「何もない点」に目を向けて、思考を止める」「暖かい流れのようなものを感じたら、ただその流れに耳を傾ける」というもののようです。「とりあえず、深く落ち着いてみる。1次呼吸らしきはたらきが体験できたらもうけものかな」…といった意味合いで実施してくれたのだと思います。
当時の私が1次呼吸を感じたかは不明ですが、やたらと眠たくなって、帰りの電車でぼんやりして(寝ていたわけではないのだが)降りる駅を2つくらい通過してしまったというのは覚えています。


…という感じだったようです。当時の私にも、理解は十分できないまでも、なかなか有意義な体験だったみたいですね。そして、今になって見返すことで、自分のポジションに少し自信が持てた気もします。まあ、他の技法でもそうですが、同じ事を体験したり同じとされる技を使ったりしていても、熟練者と初心者ではその体験の質が全く違うのであって、当時の氏の話は現在の私にも十分理解できていない部分があるかもしれぬ、とも思いますが。
ただ、それを差し引いても、数年後になお影響を与えてくれるとは、ジェラス氏は(確か講演前に「滅多に人前でこうやって話をすることはないので、うまく話せるか分からないが…」と言われていたと記憶していますが)さすがのクラニオ達人であるといえましょう。

拍手[3回]

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現在、私は10月に提出用のクラニオ論文を書いており、作業も終盤に入りつつありますが、私の場合「技法」という言葉にこだわる構成となっています。クラニオ・バイオダイナミクスは、その思想や立ち位置からして、ある意味手順や形のない漠たる世界を扱う物であり、技術とか技法といった言葉で語らない方がよい部分もあるのかも知れぬとも思います。
実際、私自身、クラニオの技法としての優位性を語るつもりもなければ、積極的な勢力拡大を意図しているのでもなく、このブログでも世の中にはこういう技法もあるんですが…程度のノリでつぶやいているだけのことで、技法という言葉そのものにはそう極端な思い入れがあるわけではないです。


それでも「技法的視点」にこだわるのは、クラニオについて「他者に客観的に語る」には、結局そのような目に見える部分を通じてしかないと思うからです(まあ、気の利いたネーミングやら詩的な表現などが私は極めて苦手だということもありますが…)。
神秘的または感動的な体感、人としてのあり方、無限やら自然やらといった色々な概念は、目に見える技法という「土台」を踏まえた上で自然と現れてくる「結果」を主観的に眺めたものであって、それらに関しては、自分の心の中にしまっておけばよいのではと個人的には思っています。
むしろそういった神秘的領域を理論化したりすると妙な方向に突貫しそうです。例えば、クラニオを扱うにあたって、「愛が重要」などと言われたら私はどうすればいいのか分からなくなってしまいますし、初心の方への伝達も困難かと思われるので、結局は武術などと同じく、どんな技法だろうと最初は形から入るしかないだろうとも思います。


もっとも、クラニオの目に見える部分といっても、ほとんど動いたり手を加えたりしないので、「姿勢」と「触れ方」と「いくらかの例外的手法」程度のもので、「今の身体感覚」「意識の置き所」などの見えるような見えないような部分が占める部分も比較的多い気がするので、なかなか表現は難しい物があります。あえて言うならば、地に足をしっかりとつけて、無理のない程度の緻密さでリラックスしたまっすぐな姿勢を構成し、意を全身にいきわたらせるか、その上でどのように相手に対するか…を深めていくこと、が「クラニオの技法」だといえるでしょうか。


個人的には、「技術・技法」という言葉は、しばしば連想されがちな、ハウツーでもテクニックでもない懐が広いものであると思っています。「なにかの形・手順によって他者に伝達が可能」で、「熟練による上達がある」もので、「上達に伴いおのれ自身の立ち位置も変わっていく」余地があるものであると見なしています。
結局のところ、技術も高まれば自然と「自分と一体化」し、「無形」に近づくものであって、武術の達人の逸話などに聞く「その人自身が技」のような領域について語られることもあるのでしょう。これは多分、伝統芸能でも、プログラマーなどでも、どんな技術でもあることなのだろうと思います。それと同時に、形や原理原則という目に見えるものがあるから、曖昧な状況に陥りがちな技法であっても、原点に還る道標にもなり得るのだろうとも思っています。

クラニオセッションでは色々な体験に出会いますが、セッション中に出会う未知の体験に埋没したり、その体験に妙な解釈を加えずに中庸に向き合うための備え(いうなれば、見えざる世界に対するための身の処し方)として「形として伝えられる技術的部分」が必要だとまとめられるのかも知れません。

拍手[1回]


前回はクラニオに触れる事になったきっかけについて書きましたが、今回は、そもそも私が「君にはクラニオが向いていると思う」と言われるような場所にいくようになったのかという、前回の記事より更に前の時点の話を簡単に書いてみようかと。

これも結論を言ってしまうと、私は「武術もしくは武術っぽい動きの公開講座をうろうろしているうちに、何故か「気みたいな体感」を色々感じるようになったので、それについて詳しそうな人々の講座を訪ねてみようと思ったから」です。ちょうど知人にそういうことに詳しい人がいたので、エネルギーワークというか、スピリチャル系といいますか、そちら方面の講座も当時うろつく対象に入ったわけです。そうこうしているうちに訪問した先が、先の記事で紹介した、クラニオについて知っている方だったというわけです。数年の放浪の果てにようやく腰を据えて学ぶものが見つかったということですね。ちなみに武術に私が何故興味を持ったのかは自分でもいまいち不明で、それ関連の講座で初めて訪問したのは甲野善紀先生が来られていた「恵比寿稽古会」であり、そこを最初の拠点として色々な身体動作関連の講座の放浪を始めたというのは以前書いたとおりです。


武術稽古もどきの中で「気みたいな体感」を感じるようになった瞬間が、いつどんな風だったかは全く覚えていません。私が当時やっていたのは木刀の素振りとか合気上げみたいなことが主で(ほぼ自己流でしたが)、特別そういう訓練をしたわけではないです。多分ある日突然あまり感動することもなく何となく感じるようになったものと思われます。まあ、これは誰だって感じようと思えば感じられるわけですが(例えば両の掌を向かい合わせ、空気のボールを持っているとイメージするとか)、以前の私はそういうものが嫌だったので、意識的にやってみようと思ったことがなかったわけです。


ただ、嫌だったはずの気やエネルギーなるものに興味が向いたきっかけは確かにあります。それはある稽古会で西野流呼吸法を長年学んでいた方々(サンボなどの武術経験者でもあったため、やってこられたようです)と知り合ったことです。その方々は「気で人を飛ばす」みたいなことをしたのではなく(それをやろうとしたら私は遁走してしまったと思うので、そうならなくて幸いでした)、出会って早々に私の身体(命門)から「凄く気が出ている」みたいなことを言われただけだったのですが、妙にそれが気になってしまったのでした。

そんなことを言われ、この人々の脳内はそうとうやばいんじゃないかと当時の私は思ったものですが、とてもよい人々だったので、彼らの要望に応え、何ヶ月かの間、触れたり崩したりその他色々なことをしばらくしているうちに、どうも彼らの言うところの「気」なるものがおおよそどんな体感を指しているのかが何となく分かるようになったのだろうと思われます。

当時の私が彼らとの交流を経て勝手に理解したのは「気っぽいものは、一定の周波数のようなものを持っているらしい」「人間の肉体の周囲には振動を発するフィールドみたいなものがあって、それは人間の感情などの状態によって微妙に変化するらしい」「そのフィールドに何らか気っぽい感じで働きかけると身体にも影響があるらしい」「たいていの人間は動く寸前に意図のエネルギーみたいなものを発するらしい」といったことです。これはエーテル体の概念とか、エネルギーワークの基礎中の基礎みたいなものが、ちょっと分かったという程度のことで、別に凄い事ではないです。一般の人はそんなものにふだんは誰も注意を向ける気がないだけのことで、多少注意すれば誰でも分かるような内容です。

そういう感覚が面白くなって調子に乗った私は彼らとエネルギーワークごっこみたいなことをしてみたりと悪ノリを始めたので、その勢いでついうっかりエネルギーワーク方面に進出してしまったのだろうと思われます。そういった意味では彼らも私がクラニオに至る道を作ってくれた先生であるのかもしれないですね。


結局、私の主な興味はどちらかというと、エネルギーそのものというより、そういうものを周波数のように発しているらしい人間の精妙な身体や、それを細かに感じる身体感覚そのものだったようで、スピリチャル系講座をうろつく中でエネルギーの扱いを多少学んだり、色々な本を読んだりしたものの、それらに関してはある程自分の中で整理が着いたようで、クラニオを学びはじめて以降は、関連本を漁ることはたまにありますが、エネルギーに関する技術そのものへの興味はだいぶ薄らいだようです。

まあ、当時を振り返ると、その辺りをうろついていたときは、学ぶところもあったと同時に、ある意味自分にとって危機的な時期だったのかも知れないと思う所もあります(そういった世界を否定する意図はありませんが)。ただ、この体当たり体験によって、知識も増えたし、こういった世界を拒否するでも持ち上げるでもなく、おおよそどのように対したらよいかという自分なりの姿勢・立ち位置ができたのは良かったかなと思います。私の歩いてきた道は回り道だらけですが、多分今に至るまでに無駄な出来事はなかったのだろうとも思っています。

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そういえば、私がクラニオを学び始めたきっかけというものを書いたことがない気がしてきたので、今回はその辺を書いてみます。


結論から言ってしまえば「君はクラニオ向いていると思うよ!」と、あるセラピストの方に突然いわれたことがきっかけです。言われた場所はその方の主宰するエネルギーワークのミニワークショップか何かで、相手の周囲の空間(いわゆるエーテル体というやつですか)に触れるようなことをしていたときだったように思います。多分、私の触れ方がへろっとしていて、こいつはなんとなくクラニオのような消極的なワークをやるのに向いていると思ったのかも知れません。
これには、そのセラピストの方が、お会いする度に何か新しい技法を学んでおられる(ように見える)、好奇心と探求心が旺盛な方で、たぶんその時期に、「たまたまクラニオに特に興味があった」ことも影響していると思われます。その1年後くらいに同じ場面が展開した場合、なにか別の技法を紹介されたのではと思います。そういう意味では、本当に偶然としかいいようもない出会いでした。


当時の私もボディワークの名前については普通の人よりは詳しかったはずなのですが、それでも、クラニオという名前は聞いたこともなく、大いに困惑しました。当時の私の困惑を思い返すと、いまだクラニオが多くの方に知られていないことにも、その妙に覚えにくい名前を聞かされて困惑する姿にも、納得するものがあります…。
私は結構慎重もしくは疑り深いところもあるので、この機会にクラニオと出会わず、その後自分で調べてクラニオのことを知ったとしても、「頭に触れる」とか「脳脊髄液が整って云々」のような記述に警戒し、学びには行かなかったのではないか、とも思います。そう思わなかったにしても、有象無象のボディワークのひとつなんだな、で終わってしまったかも知れません。予期せぬタイミングで、「向いてると思う」などと自信満々にいわれてしまったので、私も警戒心を忘れてしまったわけですね。


どこで教えているのか、という私の質問に答えて、件のセラピストの方が紹介してくれたのは「クロニックスチューデンツ」と「てんらい」という団体でした。ボディワークに関わっている方には割と有名な団体だと思います。ちなみに、紹介してくれた方は、今私が所属する団体のことは全く知りませんでした。
そして、それらを紹介して頂いたほぼ直後に「クロニックスチューデンツ」主宰のジム・ジェラス氏(クラニオ・バイオダイナミクスの世界的権威です。当時の私は知るよしもありませんでしたが。)の講演会と、「てんらい」のクラニオ(「てんらい」では、「クレニオ」と呼んでいました。意味は同じです。)体験講座が、近い日付の中で連続してあり、思想と実技の両方の雰囲気を味わえる機会に恵まれたのでした。


向いてると思うといわれてもなお、微妙に警戒していた私にとっては、講演会開催が先だったのも良かったです。ジェラス氏の話はあまり簡単ではなかった気がするのですが(当時のメモが残っていればいいんですが。ちょっと探してみようと思います。)、クラニオは少なくとも深いものや不思議なところを持っている技法だという事はなんとなく理解できたので、多少安心したのだと思います。まあ、こうやって書いてみると、随分と良くできていた出会いだったのだなと感じます。

この辺りも書けばそれなりに長くなりそうなので、はじめてクラニオを体験したときの感想(あまり詳しく覚えていないかも知れないけれど)や、そもそも私は何故、クラニオとの出会いの発端となったエネルギーワークの講座に参加していたのか、といった前後の話などもまた書いてみようと思います。

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◆病院でのセッション
GW前のことですが、入院中の友人(今は元気になって本拠地に帰っていきました)にクラニオをやったことがありました。なかなか好評だったこともあり、この体験で、病院医療とクラニオは連携できる余地があるかもしれない、という少しばかりの自信を得ました。

以前も書いたと思いますが、基本的に病院などで用いられる西洋医療(以下、病院医療)と、クラニオ(バイオダイナミクス)のようなゆるい感じのボディワークやセラピーの類は、方法論だけでなく、基本となる世界観も、セッションの目的自体も異なるものであり、両者を同じ視線や基準で見ようとする限りは、理解が難しい物と思います。逆に、全く別の技法体系だからこそ、補い合える余地があるのではないか、というのが今回感じた個人的な思いです。漢方と西洋薬が共存できているようなもので。

◆症状を消すのではなく
病院でクラニオセッションをした時、友人はある臓器の摘出手術を受けたあとでした。つまり、この場でクラニオは「症状を止める」「病をなくす」ために行われたわけではありません。それはもう病院がやってくれているので、こちらの出番はありませんし、クラニオは普段もそういう「症状への直接的な対処」はしません。
では、病院でクラニオは友人の何の役に立ったのか、というと、それは「手術という体験で大きく変化した身体に新たなバランスと活力を取り戻す手助けをすること」といえるかと思います。若干文学的な表現だと「手術で少し混乱している自分の新たな身体を受け入れ、ともに歩んでいく準備を助けること」とも言い換えられるかも知れません。要は「手術後のアフターケア」です。もっとも、やる時は、アフターケアのためだとか、あまり難しいことは考えていませんが。

手術は手っ取り早く効率的に身体の問題を解決できますが、身体の各部はお互い何がしかの影響を与え合っているため、手術でひとつの臓器がなくなっただけでも、実際はその影響は全身に及ぶ可能性があります。人によっては症状が消えて退院できても、別の不安を感じたり、新たな身体に馴染むのにかなりの時間がかかる可能性もあるかもしれません(もちろん、術後に何の問題もない場合が大半だとは思います)。クラニオやゆるいボディワークはそこにうまくサポートを入れられるのでは、と思うわけです。


病院医療がすばやく症状をとり除いたり、とりあえず痛みをなくしたりすることを得意とするならば、クラニオはその人の身体に無理のない限りにおいてバランスや落ち着きを取り戻す手助けができる可能性があると思います。強い刺激も与えなければ、何かの症状を消そうとしているわけでもないので(医療行為と別のことをしているので)、ほとんどの人(「全ての人」ではないです)に対してもできる点もメリットです。

クラニオが重視するのは常に身体全体に影響を及ぼしている「1次呼吸」という身体の深層の微細な動きであり、その働きは身体がどんな状況でも消えることはない(とされている)からです。痛みがあっても、病気であっても、死の床にあっても、人にはそういった側面とはまた別の(1次呼吸という)「健全さ」を持っている、ということです。
これまでの記事でも書いているように、「からだがバランスを取る」というのは比喩ではなく、(触れている感触から推測する限り)実際に骨や筋肉、体液の流れ方など、病気の有無や状況に関わらず、身体はセッションを経て何がしかの変化をすることが大半です。

◆病院医療にしかできないこと
一方、クラニオ(他のボディワークもそうだと思いますが)は大事故にあった人や発作を起こして倒れた人への対応など、緊急性が必要な状況には向いていません。病院医療とクラニオは使うのに適した場面が違うのだから当然です。
クラニオは、ある程度状態が落ち着いた人にしかできない技術でもあるわけで、「医療を代替」なんてことはそもそもできないわけです。クラニオセッションの結果、体調が良くなったりするのは、セッションを通じてバランスや活力を取り戻した身体が、自分で自分を整えた「結果」ということで、やっていること自体が違うわけです。

そもそも、普通に考えて、クラニオの技法だけでは、手術前の友人の負担をある程度軽減はできたかもしれませんが、それだけで症状に対応することは難しかっただろうと思います。絶対不可能かは分かりませんが、少なくとも、最善の手段を真面目に考えるならば、病院医療に頼るのが自然、という状況だったと思います。
大事故にあって重症を負った人を高確率で助けられるのも、病院の外科手術だけでしょう。ボディワークや鍛え抜かれた身体の回復力だけではなんともならない状況が時にあるものです。

◆協力できる余地はありそうな気も
そんなわけで、手術後のサポート、ホスピスなどの終末ケアといった、強い刺激が与えがたい状況などでは、クラニオは病院医療に協力できる部分があるのではないかとも思いました。逆に、クラニオセッションに重症そうな人が来てしまった場合、関わりのある病院に相談したり(こちらは診断ができないので)、優先的に紹介するといった選択肢もありそうです。
今回のことは友人の依頼によるもので、病院と相談してやったわけでもなく、病院関係の方がこういった「科学的といいがたい」部分もあるボディワークに日本でどの程度理解を頂ける物かも分かりませんが(また、誰が依頼するのかや、病院内でボディワーク関係者をどう扱うのかなどの法律や事務手続き上の問題もありそうですが…)、もしいつの日か理解がある方と縁ができることがあれば、うまく協力しあえればいいなと思っています。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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