クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
|
Calendar |
Recent Entry |
Recent Comment |
Category |
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
しばらく前に書いた「ぶじゅつ(本)との出会い」が続編(?)を予告したまま止まっているので、つづき。
◆古武術の発見
ある時、八極拳の本を見つけて以来、私はなんとなく東洋の伝統武術に興味を持ったわけですが、当時の私は、人から長期にわたってものを習うことにもの凄く苦手意識があり(それがかなり克服されたのは結構最近です)、かつ、武術(このブログで使う「武術」は、東洋の伝統武術、もしくはその稽古体系を下敷きにした動作のワークというような意味です。)の道場はとても恐ろしい場所なんじゃないかと怖がっていたので、なかなか実際の活動を始めようという気分になれませんでした。そんな中、「武術的活動開始」のきっかけとなったのが「古武術の発見~日本人にとって「身体」とは何か」(養老孟司、甲野善紀著 光文社)という本でした。当時は書店の片隅に置かれている印象の本でしたが、その後文庫版も出たし、著者2名の知名度とも相まって、現在は割と有名かもしれませんね。
◆術理?
この本には「ナンバ歩き」といったユニークな概念の紹介や、昔の武術家の凄いエピソードなど、いろいろな話が載っていて面白かったのですが、当時の私が特に興味を持った内容は、武術にはどうやら「術理」というものがあって、「柔よく剛を制す」は精神論ではなく、明確な技術法則によって実現されているらしい、ということです。つまり、伝統武術というのは、身体で行う知的な文化活動みたいなものでもあり、どうやら普通の競技スポーツとも、殴り合いや叩き合いが多そうな現在武道とも方向性が違うみたいなので、「精神論」「体育会系のノリ」に尋常ならざる苦手感があった私も何とかやれるんじゃないかと思ったのでした。
私は武術で強くなりたいとは多分あまり思っていなかったので、なんでヨガ等でなく武術を選んだのか今でも疑問ですが、まあ、この本によって喚起させられたある種の知的好奇心によるところが大きかったんだろうと思います。甲野先生の本全般に見られることですが、この本では、達人の技は、「その人の天性に依存する偶然」ではなく、姿勢や身体の使い方といった「合理性」によって成り立っている(つまり達人技もある程度は伝達可能という意味合いですね)と捉えており、武術について神秘的な書き方をしていなかったのも好印象でした。当時の私は神秘的なものが苦手でしたので(その後、紆余曲折を経て、そっち方面にも結構精通した人になってしまうのですが)。あとは…ストレス発散や健康のために始めたと言えなくもないですかね。
◆フリー稽古会の衝撃
そして、この本を読んで、術理以上に興味が湧いたのが、甲野先生が訪れるという「恵比寿稽古会(のちに解散。現在は「半身動作研究会」という名前で、主宰者の中島章夫さんが恵比寿稽古会の雰囲気を引き継ぎつつ運営されています。)」という集まりの稽古方針です。そこでは、何故か「各人がそれぞれ独自の自主稽古的なもの(何かの型をやったり、人と組んで崩しあってみたり、木刀素振りしていたり、じっとしていたり、いろいろです。)」をしていて、甲野先生と他の稽古人の方々は、師弟関係ではなく、たまたま場を共有する共同研究者みたいなものらしいと。当時の私は武術というのは先生の指導もとい命令に新兵の如く服従して学ぶ以外の選択肢はないのだろうと思っていたので、こういったオープンな考えで運営されている稽古場があることに驚きました(今思えば凄いびびりようです。実は普通の伝統武術教室の多くも実は結構オープンな環境なのだと知るのはこの後何年か経ってからです)。
更に、恵比寿稽古会の稽古人は、段位や稽古年数で評価されることもなければ(逆に言えば、長くいるとか年上という理由で偉そうな顔はできないということでもありますね)、皆勤や時間厳守の義務もないという姿勢にも驚きました(この点に関しても、伝統武術教室の多くは比較的寛大であると後で知りました。皆勤必須だったらとても社会人は通えません…。)。要は余程問題でもおこさなければ、ある程度やる気のある人なら誰でも下手なりに置いてくれる場所という事です。人に教わることにびびるくらいですから、当時の私には、人と競えるような余裕なんてあるわけもなく、そこらに放置してもらって、一人でじっくり動きながら考え込めるようなこの環境はある意味理想的と感じられました。
当時の私にも、自主稽古だけでちゃんと武術の技らしきものがやれるようになるのかというのは疑問だったのですが、ともかく置いてくれそうではあったので、良く判らないなりに恵比寿稽古会に行ってみることにしました。そして、この恵比寿稽古会が私の「武術的稽古活動」のスタート地点になったわけですが、まあ、どちらにしろ私には、スタート地点として、この場所しか選択肢はなかったろうなと今も思います。
◆フリー稽古会の意味
もっとも、フリー稽古会を入り口に稽古を始めた私でも、今なら「もし人からものを習うことに抵抗がなく、武術の技や自分の心身を深めていきたいと思うなら、自分と合いそうな教室や先生、これはいいなと感じられる流派を時間をかけてじっくり探し、そこに最初から通ったほうが良い」と道場を探す人にはアドバイスすると思います。実際、甲野先生の稽古会で多くの方に出会いましたが、私も含め、大概の常連の方は、ここをスタート地点に、後に何がしかの伝統武術や身体技法を学ばれる(あるいは最初から専門分野を持っている)ことが多かったです。結局、自由な環境におかれることで、かえって制約や基本の重要性というか、そういうものに還る必要性を感じることになる方が少なからずいたのだろうと思います。もちろん、甲野先生が現れる稽古会という事で、前述の中島さんを始め、甲野先生自身の稽古の歩みについて研究しようという方もいました。最近はそういう方のほうが多いのかも知れません。そこは、自由な稽古会ですから、「研究テーマは人それぞれ」ということで良いんだと思います。
ただ、私みたいな「訳あり」の人がリハビリ的稽古活動を黙々と行ったり、やがて自分の道を見つけるまで、好きなように居させてくれる場所として、あるいは、様々なプロフィールを持つ方々が立場を忘れて自由に交流できる場所として(一般社会ではなかなか武術や身体ワーク分野のマニアックな会話ができないので、そういう話が普通にできる仲間がいるだけでも助かります。)、前述のような方針で運営されるフリー稽古会はとても意味があると思うし、今後も志ある方が続けていって欲しいなと思っています。こういった稽古会があったことには、個人的には本当に感謝しています。…恵比寿稽古会に行き始めた頃の私の迷走っぷりなどについては、気が向いた時にネタ的に書いてみようと思います。
◆古武術の発見
ある時、八極拳の本を見つけて以来、私はなんとなく東洋の伝統武術に興味を持ったわけですが、当時の私は、人から長期にわたってものを習うことにもの凄く苦手意識があり(それがかなり克服されたのは結構最近です)、かつ、武術(このブログで使う「武術」は、東洋の伝統武術、もしくはその稽古体系を下敷きにした動作のワークというような意味です。)の道場はとても恐ろしい場所なんじゃないかと怖がっていたので、なかなか実際の活動を始めようという気分になれませんでした。そんな中、「武術的活動開始」のきっかけとなったのが「古武術の発見~日本人にとって「身体」とは何か」(養老孟司、甲野善紀著 光文社)という本でした。当時は書店の片隅に置かれている印象の本でしたが、その後文庫版も出たし、著者2名の知名度とも相まって、現在は割と有名かもしれませんね。
◆術理?
この本には「ナンバ歩き」といったユニークな概念の紹介や、昔の武術家の凄いエピソードなど、いろいろな話が載っていて面白かったのですが、当時の私が特に興味を持った内容は、武術にはどうやら「術理」というものがあって、「柔よく剛を制す」は精神論ではなく、明確な技術法則によって実現されているらしい、ということです。つまり、伝統武術というのは、身体で行う知的な文化活動みたいなものでもあり、どうやら普通の競技スポーツとも、殴り合いや叩き合いが多そうな現在武道とも方向性が違うみたいなので、「精神論」「体育会系のノリ」に尋常ならざる苦手感があった私も何とかやれるんじゃないかと思ったのでした。
私は武術で強くなりたいとは多分あまり思っていなかったので、なんでヨガ等でなく武術を選んだのか今でも疑問ですが、まあ、この本によって喚起させられたある種の知的好奇心によるところが大きかったんだろうと思います。甲野先生の本全般に見られることですが、この本では、達人の技は、「その人の天性に依存する偶然」ではなく、姿勢や身体の使い方といった「合理性」によって成り立っている(つまり達人技もある程度は伝達可能という意味合いですね)と捉えており、武術について神秘的な書き方をしていなかったのも好印象でした。当時の私は神秘的なものが苦手でしたので(その後、紆余曲折を経て、そっち方面にも結構精通した人になってしまうのですが)。あとは…ストレス発散や健康のために始めたと言えなくもないですかね。
◆フリー稽古会の衝撃
そして、この本を読んで、術理以上に興味が湧いたのが、甲野先生が訪れるという「恵比寿稽古会(のちに解散。現在は「半身動作研究会」という名前で、主宰者の中島章夫さんが恵比寿稽古会の雰囲気を引き継ぎつつ運営されています。)」という集まりの稽古方針です。そこでは、何故か「各人がそれぞれ独自の自主稽古的なもの(何かの型をやったり、人と組んで崩しあってみたり、木刀素振りしていたり、じっとしていたり、いろいろです。)」をしていて、甲野先生と他の稽古人の方々は、師弟関係ではなく、たまたま場を共有する共同研究者みたいなものらしいと。当時の私は武術というのは先生の指導もとい命令に新兵の如く服従して学ぶ以外の選択肢はないのだろうと思っていたので、こういったオープンな考えで運営されている稽古場があることに驚きました(今思えば凄いびびりようです。実は普通の伝統武術教室の多くも実は結構オープンな環境なのだと知るのはこの後何年か経ってからです)。
更に、恵比寿稽古会の稽古人は、段位や稽古年数で評価されることもなければ(逆に言えば、長くいるとか年上という理由で偉そうな顔はできないということでもありますね)、皆勤や時間厳守の義務もないという姿勢にも驚きました(この点に関しても、伝統武術教室の多くは比較的寛大であると後で知りました。皆勤必須だったらとても社会人は通えません…。)。要は余程問題でもおこさなければ、ある程度やる気のある人なら誰でも下手なりに置いてくれる場所という事です。人に教わることにびびるくらいですから、当時の私には、人と競えるような余裕なんてあるわけもなく、そこらに放置してもらって、一人でじっくり動きながら考え込めるようなこの環境はある意味理想的と感じられました。
当時の私にも、自主稽古だけでちゃんと武術の技らしきものがやれるようになるのかというのは疑問だったのですが、ともかく置いてくれそうではあったので、良く判らないなりに恵比寿稽古会に行ってみることにしました。そして、この恵比寿稽古会が私の「武術的稽古活動」のスタート地点になったわけですが、まあ、どちらにしろ私には、スタート地点として、この場所しか選択肢はなかったろうなと今も思います。
◆フリー稽古会の意味
もっとも、フリー稽古会を入り口に稽古を始めた私でも、今なら「もし人からものを習うことに抵抗がなく、武術の技や自分の心身を深めていきたいと思うなら、自分と合いそうな教室や先生、これはいいなと感じられる流派を時間をかけてじっくり探し、そこに最初から通ったほうが良い」と道場を探す人にはアドバイスすると思います。実際、甲野先生の稽古会で多くの方に出会いましたが、私も含め、大概の常連の方は、ここをスタート地点に、後に何がしかの伝統武術や身体技法を学ばれる(あるいは最初から専門分野を持っている)ことが多かったです。結局、自由な環境におかれることで、かえって制約や基本の重要性というか、そういうものに還る必要性を感じることになる方が少なからずいたのだろうと思います。もちろん、甲野先生が現れる稽古会という事で、前述の中島さんを始め、甲野先生自身の稽古の歩みについて研究しようという方もいました。最近はそういう方のほうが多いのかも知れません。そこは、自由な稽古会ですから、「研究テーマは人それぞれ」ということで良いんだと思います。
ただ、私みたいな「訳あり」の人がリハビリ的稽古活動を黙々と行ったり、やがて自分の道を見つけるまで、好きなように居させてくれる場所として、あるいは、様々なプロフィールを持つ方々が立場を忘れて自由に交流できる場所として(一般社会ではなかなか武術や身体ワーク分野のマニアックな会話ができないので、そういう話が普通にできる仲間がいるだけでも助かります。)、前述のような方針で運営されるフリー稽古会はとても意味があると思うし、今後も志ある方が続けていって欲しいなと思っています。こういった稽古会があったことには、個人的には本当に感謝しています。…恵比寿稽古会に行き始めた頃の私の迷走っぷりなどについては、気が向いた時にネタ的に書いてみようと思います。
PR
◆「じっとしている=何もしていない」…ではない
クラニオ(今回語る「クラニオ」は特にクラニオ・バイオダイナミクスの話です)は、外見だけ眺めると、相手の方に尋常でなく静かに触れてじっとしている…という技法です。奇妙といえば奇妙な光景です。
でも、触れてじっとしているからといって、「なにもしない(放置)」わけではありません。何をしているのか、と問われれば、「相手の方に入力(刺激ともいえる)を与えずに静かに触れている」とでもなりましょうか。そして、「入力を与えない」ことを続けるには結構な努力が必要なわけです。クラニオでは、これまでも(たしか)書いてきたように、相手の方の肉体を押したり引っ張ったりしないことはもちろん、エネルギーを送ってみたり、心の中で話しかけてみたり、祈ったりもしませんし、受け手の方の身体状態を無闇に観察してみたり、この骨は動くべきだといった意図も持たないようにします。「入力」というのは、これら一連の「押したり引っ張ったり~」の「相手に対して何かしよう」「相手の身体はこうなるべきだ」といった行動(意思の働き含め)全てですね。つまり、見た目が似ていても、気功やエネルギーワークとはやっていることが異なるわけです。一見何事もおこらなそうな「触れているが刺激を加えないようにしている(でも放ってはおかない)」ことが、受け手の方の身体に必要な働きを引き出す…という独特の方法論がクラニオにはあるためです。何かを治そうとか、何とかしてあげたいといった意志もクラニオのセッション中は障害となります。「可能な限り中立に、ただそこにある」ことがより重要とされます。
前述の表現をもう少し詳しくすると、「自分の姿勢を正しながらリラックスして相手に触れ、相手の中でおきていることを見守りながらも、相手への入力を与えないようにし続ける」とでもなりますかね。つまり、入力を与えないといっても、同じ状態でただ石像のように止まっていればよいというわけでもありません。相手の方を放置しないように、変動していく身体の状態が分かっている必要もありますし、自分の姿勢がぐらぐらすると、相手の方の動きに自分が引っ張られてしまい、セッションが成り立たなくなりかねないので、ちゃんと姿勢を正して座っている必要もあります。
◆実はやることが多い
更に、受け手の方の身体が変化(例えば、固まって動かなくなっていた部位が開いてきた場合など)してきたら、やる側もその変化にあわせた対応をしばしば行います。例えば、やる側が最初と同じ状態のままだと、受け手の方の広がりつつある身体を結果的に締め付けてしまうことがあるので、相手の方の身体が微妙に広がった分(外見に現れない程度ですが)、手を柔らかくしたり意識を引いたりして、外見に現れない範囲でごく微細に間合いを調整するなどです。相手にあわせるといっても、「相手の変化を助長させる」わけでもありません(そういうスキルもあるので、必要だと思ったらやるかもしれませんが)。受け手の方の動きを過不足なく把握し、必要がある時だけ、外見に現れない程度に動く感じです。もちろん、息はしてますし、時計を見たり、たまに深呼吸したり、ちょっと足を動かしたりのくらいの「見える動き」はしています…。これをやる側の人は自分の意識や姿勢が大きく乱れぬ程度にリアルタイムで行っています。
セッションには色々な展開があるので、距離感の調整は必ずやっているわけではありませんが、適切な距離感が分かること自体は快適なクラニオセッションの実施にほとんど必須と思います。どなたでも案外距離感には敏感だったりするものです。
…というわけで、クラニオをやる人は、実は止まっているようでいて、以外に色々な事をしており、受け手の方の変化にも対応しているわけです。これは、知識として分かっていてもなかなか実行は難しいものがあります。意識を広げるなどの対応は外からは全く見えないので、自分で把握するほかなく、十数分同じ姿勢のまま(あまり)動かないことが普通ですので、伝統武術で要求されるほどでないにせよ、しっかりと地に足が付きつつもリラックスした姿勢がある程度できている必要もあります。クラニオの教程の修了に長い時間がかかるのも、この「姿勢」や「相手に入力を与えないようにし続けるための細かな技術」をある程度でも身につけるのに相当な時間がかかるからだと思っています。触れ方だけなら数日の講座でも身につくと思いますが、それはクラニオの「外形」であり、「中身」は先生や先輩のアドバイスや、自分が受けた時の体感なども参考にしつつ、実践にて自得し、何年もかけて深めていかねばならないという事ですね。実に武術稽古的ですね(違うか)。
◆結局謎なわけですが
何故「外部からの入力(刺激)がない(でもひとりぼっちでもない)」が、受け手の方に何らかの恩恵をもたらしうるかは厳密な意味では謎です。ただ、「入力なし」状態での接触を続けることで、より静かな場が構築されると、受け手の方の身体(主に中枢神経系)システムは深いリラックス状態に入り、骨や体液や膜のシステムが身体深層から再構成するといった恩恵もしばしば得られるらしい…という先人たちの発見があった(そして後に続く我々もどうやらそれを感じている)だけです。そして、その「入力しない」かつ「相手の方の変化に適切に対応する」技法の精度を高めていく方向で、クラニオ(バイオダイナミクス)独特のセッション技術は発展してきたのだろうと思っています。ちなみに、念のためいうと、クラニオがそういった働きを起こさせるわけではなく、クラニオ技法はもともと身体が持っている、環境に適応しようとする(あるいは自ずから整おうとする)働きを邪魔しないようにするというだけです。身体の再構成などは身体自身がやっています。
もっとも、そう語ったところで、上記が理屈としては正体不明であることは変わりなく、私としても「「入力しない」こそ絶対の方法論だ!」とか「クラニオは史上最強の万能技術なのだ!」とか言い張る気は全然ありません。実際、ほとんどの身体技法では、様々な「入力」の手段が身体に快適さをもたらす例が多々あり、クラニオ全体を見ても、多少の入力を加えることで問題解決をしようとする方法もあるので、これらの方法論に「正しい答え」はないし、それでいいのだろうと思っています。このように、技法それぞれに独特の身体・生命観が存在する身体ワーク世界においては、「見た目上派手に効くことが正しい」「理屈で説明できれば正しい」わけでもないと思うので、最終的に、どれを自分がやるか、受けるかは、セッションの体感や技法の世界観の好みの問題、あとは縁としかいいようもない気もします。
まあ、今回書いたようなことは「そういうこともあるのかもしれないな。」と受け入れられる余地のある方が受け入れてくださればよいかなとも思っています。「目に見えない」部分が多い技法というのは、クラニオに限らず、謎や分かりづらさがつきまとう部分もありますが、私としては、このクラニオ・バイオダイナミクスの「謎やわかりづらさ」の部分をこそ大切にしていきたいとも思うのでした。
※2013/10 言い回し修正。
クラニオ(今回語る「クラニオ」は特にクラニオ・バイオダイナミクスの話です)は、外見だけ眺めると、相手の方に尋常でなく静かに触れてじっとしている…という技法です。奇妙といえば奇妙な光景です。
でも、触れてじっとしているからといって、「なにもしない(放置)」わけではありません。何をしているのか、と問われれば、「相手の方に入力(刺激ともいえる)を与えずに静かに触れている」とでもなりましょうか。そして、「入力を与えない」ことを続けるには結構な努力が必要なわけです。クラニオでは、これまでも(たしか)書いてきたように、相手の方の肉体を押したり引っ張ったりしないことはもちろん、エネルギーを送ってみたり、心の中で話しかけてみたり、祈ったりもしませんし、受け手の方の身体状態を無闇に観察してみたり、この骨は動くべきだといった意図も持たないようにします。「入力」というのは、これら一連の「押したり引っ張ったり~」の「相手に対して何かしよう」「相手の身体はこうなるべきだ」といった行動(意思の働き含め)全てですね。つまり、見た目が似ていても、気功やエネルギーワークとはやっていることが異なるわけです。一見何事もおこらなそうな「触れているが刺激を加えないようにしている(でも放ってはおかない)」ことが、受け手の方の身体に必要な働きを引き出す…という独特の方法論がクラニオにはあるためです。何かを治そうとか、何とかしてあげたいといった意志もクラニオのセッション中は障害となります。「可能な限り中立に、ただそこにある」ことがより重要とされます。
前述の表現をもう少し詳しくすると、「自分の姿勢を正しながらリラックスして相手に触れ、相手の中でおきていることを見守りながらも、相手への入力を与えないようにし続ける」とでもなりますかね。つまり、入力を与えないといっても、同じ状態でただ石像のように止まっていればよいというわけでもありません。相手の方を放置しないように、変動していく身体の状態が分かっている必要もありますし、自分の姿勢がぐらぐらすると、相手の方の動きに自分が引っ張られてしまい、セッションが成り立たなくなりかねないので、ちゃんと姿勢を正して座っている必要もあります。
◆実はやることが多い
更に、受け手の方の身体が変化(例えば、固まって動かなくなっていた部位が開いてきた場合など)してきたら、やる側もその変化にあわせた対応をしばしば行います。例えば、やる側が最初と同じ状態のままだと、受け手の方の広がりつつある身体を結果的に締め付けてしまうことがあるので、相手の方の身体が微妙に広がった分(外見に現れない程度ですが)、手を柔らかくしたり意識を引いたりして、外見に現れない範囲でごく微細に間合いを調整するなどです。相手にあわせるといっても、「相手の変化を助長させる」わけでもありません(そういうスキルもあるので、必要だと思ったらやるかもしれませんが)。受け手の方の動きを過不足なく把握し、必要がある時だけ、外見に現れない程度に動く感じです。もちろん、息はしてますし、時計を見たり、たまに深呼吸したり、ちょっと足を動かしたりのくらいの「見える動き」はしています…。これをやる側の人は自分の意識や姿勢が大きく乱れぬ程度にリアルタイムで行っています。
セッションには色々な展開があるので、距離感の調整は必ずやっているわけではありませんが、適切な距離感が分かること自体は快適なクラニオセッションの実施にほとんど必須と思います。どなたでも案外距離感には敏感だったりするものです。
…というわけで、クラニオをやる人は、実は止まっているようでいて、以外に色々な事をしており、受け手の方の変化にも対応しているわけです。これは、知識として分かっていてもなかなか実行は難しいものがあります。意識を広げるなどの対応は外からは全く見えないので、自分で把握するほかなく、十数分同じ姿勢のまま(あまり)動かないことが普通ですので、伝統武術で要求されるほどでないにせよ、しっかりと地に足が付きつつもリラックスした姿勢がある程度できている必要もあります。クラニオの教程の修了に長い時間がかかるのも、この「姿勢」や「相手に入力を与えないようにし続けるための細かな技術」をある程度でも身につけるのに相当な時間がかかるからだと思っています。触れ方だけなら数日の講座でも身につくと思いますが、それはクラニオの「外形」であり、「中身」は先生や先輩のアドバイスや、自分が受けた時の体感なども参考にしつつ、実践にて自得し、何年もかけて深めていかねばならないという事ですね。実に武術稽古的ですね(違うか)。
◆結局謎なわけですが
何故「外部からの入力(刺激)がない(でもひとりぼっちでもない)」が、受け手の方に何らかの恩恵をもたらしうるかは厳密な意味では謎です。ただ、「入力なし」状態での接触を続けることで、より静かな場が構築されると、受け手の方の身体(主に中枢神経系)システムは深いリラックス状態に入り、骨や体液や膜のシステムが身体深層から再構成するといった恩恵もしばしば得られるらしい…という先人たちの発見があった(そして後に続く我々もどうやらそれを感じている)だけです。そして、その「入力しない」かつ「相手の方の変化に適切に対応する」技法の精度を高めていく方向で、クラニオ(バイオダイナミクス)独特のセッション技術は発展してきたのだろうと思っています。ちなみに、念のためいうと、クラニオがそういった働きを起こさせるわけではなく、クラニオ技法はもともと身体が持っている、環境に適応しようとする(あるいは自ずから整おうとする)働きを邪魔しないようにするというだけです。身体の再構成などは身体自身がやっています。
もっとも、そう語ったところで、上記が理屈としては正体不明であることは変わりなく、私としても「「入力しない」こそ絶対の方法論だ!」とか「クラニオは史上最強の万能技術なのだ!」とか言い張る気は全然ありません。実際、ほとんどの身体技法では、様々な「入力」の手段が身体に快適さをもたらす例が多々あり、クラニオ全体を見ても、多少の入力を加えることで問題解決をしようとする方法もあるので、これらの方法論に「正しい答え」はないし、それでいいのだろうと思っています。このように、技法それぞれに独特の身体・生命観が存在する身体ワーク世界においては、「見た目上派手に効くことが正しい」「理屈で説明できれば正しい」わけでもないと思うので、最終的に、どれを自分がやるか、受けるかは、セッションの体感や技法の世界観の好みの問題、あとは縁としかいいようもない気もします。
まあ、今回書いたようなことは「そういうこともあるのかもしれないな。」と受け入れられる余地のある方が受け入れてくださればよいかなとも思っています。「目に見えない」部分が多い技法というのは、クラニオに限らず、謎や分かりづらさがつきまとう部分もありますが、私としては、このクラニオ・バイオダイナミクスの「謎やわかりづらさ」の部分をこそ大切にしていきたいとも思うのでした。
※2013/10 言い回し修正。
クラニオセミナー6から帰還しました。これで基礎教程は終了だけあって、今回は「ロングタイド(複数ある1次呼吸の種類ひとつ)」に焦点を合わせた、これまでとはひと味違う様々な技法や視点が紹介されましたが、ひとつ驚いたのが、クラニオバイオダイナミクスでも普通の呼吸(いつも書いている「1次呼吸」ではなく、「2次呼吸」にあたる普通の肺呼吸ですね)を用いた技法があったこと。先日この記事でクラニオ技法には呼吸はまるで関係ないと書きましたが、それは真っ赤な嘘だったことが判明したという…。なかなか世の中何が起きるか分からないものです。
やり方は具体的には書きませんが、この技法の概要は、受ける人にある(結構厳密な)タイミングで呼吸してもらうことにより、1次呼吸の「吐く」にあたる動きのリズムと2次呼吸(普通の呼吸)の「吐く」リズムを同期させるというもの。それによって、「点火」と呼ばれる、体内のエネルギーが活性化する状態が起きやすくなるようです。受けた感じをあえて説明すると、体全体が熱くなって、活力が湧いてくる感じとでもいいましょうか。
この「点火」の定義は複数あるようですが、胎内での受精時や心臓が発生した時、実際の誕生時といった人生最初期の重要スタート時点で、次なる活動に備えて肉体(…といっても、それらの機会の大半では生まれてさえいないわけですが…)の活力を高め、しっかり生きていけるように体が自然に起こす反応…が一般的定義のようです。そして、その時に何かの不都合で十分に「点火」ができずに大人になったとしても、このように、しっかり「点火」できるチャンスはあるという事ですね。
しかも、この技法をもちいて、受ける人にわざわざタイミングを測って意図的に呼吸してもらわなくても、どうやら体は(少なくとも健全さが十分な身体は)1次呼吸と2次呼吸を同期させるように自動的に呼吸しているらしく、練習中にも体の賢さを感じさせられました。ただ、「点火」効果があまり足りていなかった場合、意図的にこの技法を行うことで、大いに恩恵を得られる確率は高くなるのだろうと思います。もっとも、この技法は、よほどのことがない限り使うべきでないとのこと。基本的にクラニオ・バイオダイナミクスは、「受ける人の体が自然な形で今やれることを尊重する」技法と思うので、それはもっともです。個人的には仮にその制限がなくても、あまり使わないかもしれないですね。やはり受ける人に色々な動作を要求するのは、シャイでチキンハートな私には、いまいち馴染まないものがあります。
ただ、この技法の紹介によって、クラニオ・バイオダイナミクスのセッションでも、時には「受ける人が適切に参加することで、セッションの質が変わるかも知れない」というひとつの可能性が間接的に示されたようにも思います。受ける人が無闇に自分の状態を観察して緊張してしまったら本末転倒なので、受ける人は基本的に気持ちよく寝ていれば良いと思いますが、受ける人が無理のない程度に何らかの形で参加できたら、セッション前後の変化も実感できるかも知れないし、セッションをより楽しむことはできるかもな、ということは、頭の片隅に入れておこうかと思いました。
<2017追記>
「点火(イグニッションとも言われる)」について、上記のようにやたら能動的に誘導しないと発生しないものなのか!?と、この時は思っていましたが、そもそも、この現象が起きるのは受精時だけの話ではなく、どうやら日々、1次呼吸のタイミングの何回かの中で、自動的に起きているようです。「点火」はおおざっぱに言うと、「ポーテンシー(エネルギー)がフィールドから肉体に具現化・浸透する過程」というのがICSB教程での一応の説明のようです。セッション中、単にポーテンシーが調整のために現れることとも質が異なる印象です。
また、上記のようにわざわざクライアントさんに息を合わせてもらったりしなくても、イグニッションが起こりやすい環境を用意できるセッションの進め方があることも、その後わかりました。そのため、上記の「息を合わせてもらう方法」はさらに使う意味がなくなりましたが、「点火」が手っ取り早くどんな感じなのか体験できる学習教材としては、多少操作的であっても、このような方法が必要になることもあるんでしょうね。
やり方は具体的には書きませんが、この技法の概要は、受ける人にある(結構厳密な)タイミングで呼吸してもらうことにより、1次呼吸の「吐く」にあたる動きのリズムと2次呼吸(普通の呼吸)の「吐く」リズムを同期させるというもの。それによって、「点火」と呼ばれる、体内のエネルギーが活性化する状態が起きやすくなるようです。受けた感じをあえて説明すると、体全体が熱くなって、活力が湧いてくる感じとでもいいましょうか。
この「点火」の定義は複数あるようですが、胎内での受精時や心臓が発生した時、実際の誕生時といった人生最初期の重要スタート時点で、次なる活動に備えて肉体(…といっても、それらの機会の大半では生まれてさえいないわけですが…)の活力を高め、しっかり生きていけるように体が自然に起こす反応…が一般的定義のようです。そして、その時に何かの不都合で十分に「点火」ができずに大人になったとしても、このように、しっかり「点火」できるチャンスはあるという事ですね。
しかも、この技法をもちいて、受ける人にわざわざタイミングを測って意図的に呼吸してもらわなくても、どうやら体は(少なくとも健全さが十分な身体は)1次呼吸と2次呼吸を同期させるように自動的に呼吸しているらしく、練習中にも体の賢さを感じさせられました。ただ、「点火」効果があまり足りていなかった場合、意図的にこの技法を行うことで、大いに恩恵を得られる確率は高くなるのだろうと思います。もっとも、この技法は、よほどのことがない限り使うべきでないとのこと。基本的にクラニオ・バイオダイナミクスは、「受ける人の体が自然な形で今やれることを尊重する」技法と思うので、それはもっともです。個人的には仮にその制限がなくても、あまり使わないかもしれないですね。やはり受ける人に色々な動作を要求するのは、シャイでチキンハートな私には、いまいち馴染まないものがあります。
ただ、この技法の紹介によって、クラニオ・バイオダイナミクスのセッションでも、時には「受ける人が適切に参加することで、セッションの質が変わるかも知れない」というひとつの可能性が間接的に示されたようにも思います。受ける人が無闇に自分の状態を観察して緊張してしまったら本末転倒なので、受ける人は基本的に気持ちよく寝ていれば良いと思いますが、受ける人が無理のない程度に何らかの形で参加できたら、セッション前後の変化も実感できるかも知れないし、セッションをより楽しむことはできるかもな、ということは、頭の片隅に入れておこうかと思いました。
<2017追記>
「点火(イグニッションとも言われる)」について、上記のようにやたら能動的に誘導しないと発生しないものなのか!?と、この時は思っていましたが、そもそも、この現象が起きるのは受精時だけの話ではなく、どうやら日々、1次呼吸のタイミングの何回かの中で、自動的に起きているようです。「点火」はおおざっぱに言うと、「ポーテンシー(エネルギー)がフィールドから肉体に具現化・浸透する過程」というのがICSB教程での一応の説明のようです。セッション中、単にポーテンシーが調整のために現れることとも質が異なる印象です。
また、上記のようにわざわざクライアントさんに息を合わせてもらったりしなくても、イグニッションが起こりやすい環境を用意できるセッションの進め方があることも、その後わかりました。そのため、上記の「息を合わせてもらう方法」はさらに使う意味がなくなりましたが、「点火」が手っ取り早くどんな感じなのか体験できる学習教材としては、多少操作的であっても、このような方法が必要になることもあるんでしょうね。
クラニオ合宿の前半だけ終わり、一時帰宅しました。流れ的には、その成果を報告!…すべきなのかもしれないが、トラウマのメカニズムであるとか、自律神経系の働きだとかの結構突っ込んだ話で、適当に書くだけでも自分の中でもう少しまとめが必要そうなので、いつの日か書くことにします…。
それとは全く関係なく、このブログには「ぶじゅつ関連」というカテゴリが何故か用意されているものの、まったく使われていないので、今回は少しそれっぽいことを書いてみます。とりあえずは私のぶじゅつっぽい活動のきっかけでも。
◆色々言い訳しますが
「ぶじゅつ」などとひらがなで書いているように、私のやっているのは概ね「武術のような活動」というところです。突然河原で六尺棒を振ってみたり、おもむろに站椿という(同じ姿勢のままじっとしている)鍛錬をやってみるなどの武術稽古っぽいことをたまにやると生き生きするので、しばしば稽古活動を実施するというだけです。まあ、今は一応、さる中国武術の教室にお世話になっておりますが、稽古時間にせよ態度にせよ、真面目な修行者の方とは比べるべくもありません。だらだらしています。鍛錬そのものとか、稽古中に色々感じる身体感覚自体が好きで、効率的な打撃や人の崩し方などについてあまり考えてこなかったので、強いとかいう以前にまともに格闘できるかすら怪しいレベルです。ただ、稽古の過程で、自分が痛くないように倒されたり、投げられるのは得意になりましたので、逃げ足だけならば、常人の何倍かあるかも知れません。
まあ、このように、私自身は自分でも全く格闘などに向いていないと思うのですが(しかも球技などもこの上なく苦手です)、そんな人が武術なるものに興味を持ったのは、この分野が「身体文化」として、なかなか奥が深いものがあり、しかも、根性論ではなく(きつい気がしなくもない稽古を自発的に楽しくやる程度のお気楽な根性は必要ですが)ある種の合理性やセンスを頼みに探求することもできるインテリジェンス溢れる分野だと認識することができたからです。要はスポーツ音痴の人でも、しかるべき路線で、やるべきことをちゃんとやっていれば、なにか得るものがある分野という事ですね。
◆はじめてのぶじゅつ本
そんな私がはじめて武術の本を手に取ったのは、大学生のころだったと思いますが、その武術本は、何故か張世忠老師の「八極拳」でした。温厚そうなおじいさん(その方が張世忠老師ですが…)が強烈に木や壁に体当たりしている写真などがあり、中国武術の一流派である八極拳は一打必倒の強烈な武術というような事が書いてあって、温厚そうなおじいさんの写真とのギャップにびっくりした覚えがあります。八極拳の存在は、当時なら「武術(うーしゅう)」「秘伝」などの武術雑誌か、(中国武術を学ぶ方には説明するまでもない程有名な)「拳児」という漫画を通じて知る方が多かったと思いますが、私はそれらを読んだこともなく、この本を手に取ったのは全くの偶然でした。何故武術の武の字も知らなかった私が、突然武術本コーナーに行き、よりによってこの本を手に取ったのか、未だに良く理解できません。この本は、その時購入して、今も持っています。
この本を読んで心に残ったのは、一撃で人が死にかねないような強烈な打撃を持つ(かもしれない)武術なのに「いくら上達しても、この武術の技は一生涯使わないことが幸せである」と書いてあったことで、「生涯、実用の機会がないことを半ば分かっているにもかかわらず、ただ黙々ときつそうな練習をしている人たちがいるとは…何てかっこいいんだ!まさにロマンの世界だ!」と、私の感覚がずれているのか、威力とか技の種類ではない妙なところに感動していました。
そして、その勢いのまま八極拳の教室の門を叩く!と、健全な方なら即座に行動するところでしょうが、ここでどういうわけか私は足踏みしまして、その時は何もしませんでした。まあ、当時の私はまだ武術をかなり怖がってもいたし、色々精神的にもあまり元気がなかったということもあるんでしょうね。
その代わりといいますか、せっかく買ってきたのだからと思い、本の説明を眺め、何度か馬歩站椿(きつそうな鍛錬法)の真似をしようとしてみましたが、お約束といいますか、ただの筋トレ以上のものにはならず、更に色々痛めそうになって断念しました。初心者の方は、特に站椿に関しては、見た目では何をしているのか分かりにくく、足の角度が少し違うだけで大きな怪我に繋がることもあるので、公開講座でもなんでも良いから、ともかくちゃんとした先生から直に1度は手を取って習うことが必要ですね!…というようなことを身をもって体験したわけでした(当時の私はその事すら理解していませんでしたが…)。そうこうしているうちに1年くらい経ち、身辺状況が変わって少し時間ができた私が次に出会ったのは、「古武術の発見」という本でした。…というところで次回に多分続く…。
ちなみに、その後、私はいくつかの武術の公開稽古会に参加したのですが、どういうわけか、八極拳は結局今まで一度も習ったことがありません。今の武術の流派を続ける限り、多分八極拳は今後もやらないだろうとも思います。不思議な縁と思わされます。
それとは全く関係なく、このブログには「ぶじゅつ関連」というカテゴリが何故か用意されているものの、まったく使われていないので、今回は少しそれっぽいことを書いてみます。とりあえずは私のぶじゅつっぽい活動のきっかけでも。
◆色々言い訳しますが
「ぶじゅつ」などとひらがなで書いているように、私のやっているのは概ね「武術のような活動」というところです。突然河原で六尺棒を振ってみたり、おもむろに站椿という(同じ姿勢のままじっとしている)鍛錬をやってみるなどの武術稽古っぽいことをたまにやると生き生きするので、しばしば稽古活動を実施するというだけです。まあ、今は一応、さる中国武術の教室にお世話になっておりますが、稽古時間にせよ態度にせよ、真面目な修行者の方とは比べるべくもありません。だらだらしています。鍛錬そのものとか、稽古中に色々感じる身体感覚自体が好きで、効率的な打撃や人の崩し方などについてあまり考えてこなかったので、強いとかいう以前にまともに格闘できるかすら怪しいレベルです。ただ、稽古の過程で、自分が痛くないように倒されたり、投げられるのは得意になりましたので、逃げ足だけならば、常人の何倍かあるかも知れません。
まあ、このように、私自身は自分でも全く格闘などに向いていないと思うのですが(しかも球技などもこの上なく苦手です)、そんな人が武術なるものに興味を持ったのは、この分野が「身体文化」として、なかなか奥が深いものがあり、しかも、根性論ではなく(きつい気がしなくもない稽古を自発的に楽しくやる程度のお気楽な根性は必要ですが)ある種の合理性やセンスを頼みに探求することもできるインテリジェンス溢れる分野だと認識することができたからです。要はスポーツ音痴の人でも、しかるべき路線で、やるべきことをちゃんとやっていれば、なにか得るものがある分野という事ですね。
◆はじめてのぶじゅつ本
そんな私がはじめて武術の本を手に取ったのは、大学生のころだったと思いますが、その武術本は、何故か張世忠老師の「八極拳」でした。温厚そうなおじいさん(その方が張世忠老師ですが…)が強烈に木や壁に体当たりしている写真などがあり、中国武術の一流派である八極拳は一打必倒の強烈な武術というような事が書いてあって、温厚そうなおじいさんの写真とのギャップにびっくりした覚えがあります。八極拳の存在は、当時なら「武術(うーしゅう)」「秘伝」などの武術雑誌か、(中国武術を学ぶ方には説明するまでもない程有名な)「拳児」という漫画を通じて知る方が多かったと思いますが、私はそれらを読んだこともなく、この本を手に取ったのは全くの偶然でした。何故武術の武の字も知らなかった私が、突然武術本コーナーに行き、よりによってこの本を手に取ったのか、未だに良く理解できません。この本は、その時購入して、今も持っています。
この本を読んで心に残ったのは、一撃で人が死にかねないような強烈な打撃を持つ(かもしれない)武術なのに「いくら上達しても、この武術の技は一生涯使わないことが幸せである」と書いてあったことで、「生涯、実用の機会がないことを半ば分かっているにもかかわらず、ただ黙々ときつそうな練習をしている人たちがいるとは…何てかっこいいんだ!まさにロマンの世界だ!」と、私の感覚がずれているのか、威力とか技の種類ではない妙なところに感動していました。
そして、その勢いのまま八極拳の教室の門を叩く!と、健全な方なら即座に行動するところでしょうが、ここでどういうわけか私は足踏みしまして、その時は何もしませんでした。まあ、当時の私はまだ武術をかなり怖がってもいたし、色々精神的にもあまり元気がなかったということもあるんでしょうね。
その代わりといいますか、せっかく買ってきたのだからと思い、本の説明を眺め、何度か馬歩站椿(きつそうな鍛錬法)の真似をしようとしてみましたが、お約束といいますか、ただの筋トレ以上のものにはならず、更に色々痛めそうになって断念しました。初心者の方は、特に站椿に関しては、見た目では何をしているのか分かりにくく、足の角度が少し違うだけで大きな怪我に繋がることもあるので、公開講座でもなんでも良いから、ともかくちゃんとした先生から直に1度は手を取って習うことが必要ですね!…というようなことを身をもって体験したわけでした(当時の私はその事すら理解していませんでしたが…)。そうこうしているうちに1年くらい経ち、身辺状況が変わって少し時間ができた私が次に出会ったのは、「古武術の発見」という本でした。…というところで次回に多分続く…。
ちなみに、その後、私はいくつかの武術の公開稽古会に参加したのですが、どういうわけか、八極拳は結局今まで一度も習ったことがありません。今の武術の流派を続ける限り、多分八極拳は今後もやらないだろうとも思います。不思議な縁と思わされます。
今週末から来月にかけてまたクラニオ合宿です。プロフィールや前の日記にも書いたように、私は普段は会社員で、前日までは普通に働くので、例によって実感があまりないです。多分、当日になって講座会場に入るまで実感はないと思われます…。会場もいつもの通り大阪なので、出張のような気分しかしません。せっかく関西方面に向かうのだから、時には日本庭園などを落ち着いて回りたい物ですが、京都は当然の如く素通りする対象でしかないわけでした。せめて講座の後半は1日くらい時間を取って、どこか観光でもしてから行こうと思っています…。
クラニオ講座は今回でようやく基礎教程が終わります。ここで学び始めてから4年半ばかり。クラニオと出会ってからは5年半くらい。長い道のりでした(まだ終わっていないけれど…)。途中、一体何で私はこんな事やってるんだろうなあ?と何遍も思いましたし、今もたまに思います。どちらかというと、これを身につけてこうしようという思いはあまりなくて、理屈を超えた何かに引っ張られるように否応なくやっている感じです。私自身が成長するためにやっているように思うこともあります。
そもそも、こうでもしなければ、もともとあまり人付き合いのよくない私は、深く人と関わったりすることもないでしょうからねえ。実際、クラニオをやり始めて以降、自分が人として前よりはましになったかなと思うこともありますが、クラニオを受けた影響というのも多少あるにせよ、基本的には、このような、相手がいないとやれないばかりか、他の方のデリケートな要素に時に関わらざるを得ないものだからこそ、困難に出会うこともあり、それを乗り越えることが自分の成長にも繋がっているのかなとも思ったりしています。
まあ、講座を修了しても資格を取っても、私自身も、やることもそうそう変わるわけもなく、結局は、縁のある方に今の自分にやれることを(それはクラニオに限らず、話を聞くとか、何か言ってみるとか、武術的な稽古をするなども含め)着実にやりつづける、というだけなのでしょうね。
クラニオ講座は今回でようやく基礎教程が終わります。ここで学び始めてから4年半ばかり。クラニオと出会ってからは5年半くらい。長い道のりでした(まだ終わっていないけれど…)。途中、一体何で私はこんな事やってるんだろうなあ?と何遍も思いましたし、今もたまに思います。どちらかというと、これを身につけてこうしようという思いはあまりなくて、理屈を超えた何かに引っ張られるように否応なくやっている感じです。私自身が成長するためにやっているように思うこともあります。
そもそも、こうでもしなければ、もともとあまり人付き合いのよくない私は、深く人と関わったりすることもないでしょうからねえ。実際、クラニオをやり始めて以降、自分が人として前よりはましになったかなと思うこともありますが、クラニオを受けた影響というのも多少あるにせよ、基本的には、このような、相手がいないとやれないばかりか、他の方のデリケートな要素に時に関わらざるを得ないものだからこそ、困難に出会うこともあり、それを乗り越えることが自分の成長にも繋がっているのかなとも思ったりしています。
まあ、講座を修了しても資格を取っても、私自身も、やることもそうそう変わるわけもなく、結局は、縁のある方に今の自分にやれることを(それはクラニオに限らず、話を聞くとか、何か言ってみるとか、武術的な稽古をするなども含め)着実にやりつづける、というだけなのでしょうね。
プロフィール
|
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
最新記事
|
(07/01)
(12/27)
(02/16)
(10/26)
(06/29)
最新コメント
|
日記カテゴリ
|
ブログ内検索
|