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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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これまでなんべんか書いているので、しつこい気もしますが、まとめの意味も含め、クラニオ・バイオダイナミクス(以下クラニオ)のセッション中の「距離感」について書いてみます。
◆クラニオの距離感
ここでいう「距離感」というのは、クラニオをやる人と受ける人の間にある、物理的・感覚的、両方の意味での「適切な距離」です。要は「お互いにとって心地よい距離」です。武術っぽく言えば、「適切な間合い」となりますかね。
一般のボディワークでは、「相手の方に触れた時にどうアクションするか」が主眼だと思うので、やる人と受ける人の距離感は、技法体系の中ではあまり重きを置かれていないかも知れないですが(違ったらすみません)、クラニオは能動的アクションがなく、どうやって相手を邪魔しないように居続けられるのかが重要なので、技法における距離感の重要度はかなり高いと思われます。
たとえば、セッションで受ける人の身体が変わろうとし始めても、やる人がその様子を近くでじろじろ見ていたら、受ける方は気になって、変化なんかできないか、警戒して変な風に変わってしまうかも知れません。かといって、やる人があまりに遠くにいて、受ける人がそこらに取り残されている感じだとしたら、やはり身体は気分良く変化する気にはなれないでしょう。
そんなわけで、「受ける人の身体にとって、放置されもせず、近すぎて負担にもならない距離」にやる側の人が居つづけること自体が、セッションの全般にわたって必要と考えられているわけです。むしろ、適切な距離感が分かること自体がクラニオの重要な技術の一部といえるでしょう。
◆適切な距離の発見
「適切な距離感」は、クラニオをやる側の人が、受ける人の身体に触れ、自分の上体の角度を変えたり、視線の位置、意識の置き所を変えたりなど、微妙に動く中で「自分にとって負担でなく、遠過ぎもしない位置」を感じとることによって見つけます。やる人にとって心地よい位置は、受ける人にとっても心地よい、という理屈です。
この「適切な距離感」はセッションの展開につれて微妙に変わってくることがあるので、必要な場合はセッション中に距離を調整することもあります。確か前も書きましたが、セッション中はほとんど意識の置き方のみで距離を調整します。例えば、やる人が自分の背中側や背面後方の空間を意識する、などです。意識の起き場所によって距離が離れた感じが出てくるのです。やる人がある程度慣れてくると、無闇にあっちこっちに意識を動かさずとも(ちょっとした視線や意識の置き方で)大丈夫になってきます。
頭に触れている場合は、触れている手を少し開き気味にするなどの「物理的に動く」対応をすることもありますが、あまり頻繁にばたばた動かしたりすると、受ける人はこれまた落ち着かず、更に急に動かされでもしたら、気分が悪くなることもあるので、通常はそう無闇に動かすものではありません。
◆距離感いろいろ
また、これはあくまで個人的な体感ですが、手を動かすなどの物理的な距離のコントロールが必要なのは、主に「物理的肉体そのもの」に向き合っている時で、「もっと大きな領域(…と書くと微妙にオカルトですが、「物理的肉体を含むその人全体」のような意味合いと思って頂ければ)」に向き合っている時は、あまり必要ないように感じています。
やる人が、受ける人の身体システムのどの「領域」に向き合っているかによって、「距離」の意味合いも変わってくるということなんでしょうね。なお、個人的に「バイオダイナミクスらしさ」を感じるのは「大きな領域」のほうに向き合っている時です。
距離感の話に戻ると、「適切な距離の調整」が始まっているのは、受ける方に触れる前からだったりします。クラニオのセッションでは、やる人は受ける人に実際に触れる前に、少し離れた場所でしばらく座って、落ち着くまで待つのですが、この時既に「適切な距離」を意識した位置に座っているわけです。
離れたところからスタートするのは、「やる人、受ける人双方が十分落ち着いてから触れる」という意味合いなのですが、「お互いが警戒せずにいられる遠くから徐々に距離を詰めて慣れていく」という距離感の配慮も含まれているものと思われます。東洋の伝統武術では、相手に触れる前から技が始まっているなどと言いますが、まあそんなようなもんでしょう。
◆人との関係性
「適切な距離感」は受ける人によっても異なります。相手に構って欲しいタイプの人やひとりでいることの不安が大きいような人はどうも近い距離を好むことが多いようです。私のように、基本的にほっといて欲しい人は割と遠目の距離が必要です(多分)。
そんなわけで、私が「構って欲しい人」にセッションをする時は、自分が「ふつう」だと思う位置よりも若干近づかないと、良い距離感が見つからなかったりします。このように、「お互いの関係性」によってもセッションや距離感は変わってくるわけです。
結局のところ「相手との適切な距離感」に対応し続けるということは「相手との適切な関係性を見つけていく」作業でもあるんでしょうね。
◆クラニオの距離感
ここでいう「距離感」というのは、クラニオをやる人と受ける人の間にある、物理的・感覚的、両方の意味での「適切な距離」です。要は「お互いにとって心地よい距離」です。武術っぽく言えば、「適切な間合い」となりますかね。
一般のボディワークでは、「相手の方に触れた時にどうアクションするか」が主眼だと思うので、やる人と受ける人の距離感は、技法体系の中ではあまり重きを置かれていないかも知れないですが(違ったらすみません)、クラニオは能動的アクションがなく、どうやって相手を邪魔しないように居続けられるのかが重要なので、技法における距離感の重要度はかなり高いと思われます。
たとえば、セッションで受ける人の身体が変わろうとし始めても、やる人がその様子を近くでじろじろ見ていたら、受ける方は気になって、変化なんかできないか、警戒して変な風に変わってしまうかも知れません。かといって、やる人があまりに遠くにいて、受ける人がそこらに取り残されている感じだとしたら、やはり身体は気分良く変化する気にはなれないでしょう。
そんなわけで、「受ける人の身体にとって、放置されもせず、近すぎて負担にもならない距離」にやる側の人が居つづけること自体が、セッションの全般にわたって必要と考えられているわけです。むしろ、適切な距離感が分かること自体がクラニオの重要な技術の一部といえるでしょう。
◆適切な距離の発見
「適切な距離感」は、クラニオをやる側の人が、受ける人の身体に触れ、自分の上体の角度を変えたり、視線の位置、意識の置き所を変えたりなど、微妙に動く中で「自分にとって負担でなく、遠過ぎもしない位置」を感じとることによって見つけます。やる人にとって心地よい位置は、受ける人にとっても心地よい、という理屈です。
この「適切な距離感」はセッションの展開につれて微妙に変わってくることがあるので、必要な場合はセッション中に距離を調整することもあります。確か前も書きましたが、セッション中はほとんど意識の置き方のみで距離を調整します。例えば、やる人が自分の背中側や背面後方の空間を意識する、などです。意識の起き場所によって距離が離れた感じが出てくるのです。やる人がある程度慣れてくると、無闇にあっちこっちに意識を動かさずとも(ちょっとした視線や意識の置き方で)大丈夫になってきます。
頭に触れている場合は、触れている手を少し開き気味にするなどの「物理的に動く」対応をすることもありますが、あまり頻繁にばたばた動かしたりすると、受ける人はこれまた落ち着かず、更に急に動かされでもしたら、気分が悪くなることもあるので、通常はそう無闇に動かすものではありません。
◆距離感いろいろ
また、これはあくまで個人的な体感ですが、手を動かすなどの物理的な距離のコントロールが必要なのは、主に「物理的肉体そのもの」に向き合っている時で、「もっと大きな領域(…と書くと微妙にオカルトですが、「物理的肉体を含むその人全体」のような意味合いと思って頂ければ)」に向き合っている時は、あまり必要ないように感じています。
やる人が、受ける人の身体システムのどの「領域」に向き合っているかによって、「距離」の意味合いも変わってくるということなんでしょうね。なお、個人的に「バイオダイナミクスらしさ」を感じるのは「大きな領域」のほうに向き合っている時です。
距離感の話に戻ると、「適切な距離の調整」が始まっているのは、受ける方に触れる前からだったりします。クラニオのセッションでは、やる人は受ける人に実際に触れる前に、少し離れた場所でしばらく座って、落ち着くまで待つのですが、この時既に「適切な距離」を意識した位置に座っているわけです。
離れたところからスタートするのは、「やる人、受ける人双方が十分落ち着いてから触れる」という意味合いなのですが、「お互いが警戒せずにいられる遠くから徐々に距離を詰めて慣れていく」という距離感の配慮も含まれているものと思われます。東洋の伝統武術では、相手に触れる前から技が始まっているなどと言いますが、まあそんなようなもんでしょう。
◆人との関係性
「適切な距離感」は受ける人によっても異なります。相手に構って欲しいタイプの人やひとりでいることの不安が大きいような人はどうも近い距離を好むことが多いようです。私のように、基本的にほっといて欲しい人は割と遠目の距離が必要です(多分)。
そんなわけで、私が「構って欲しい人」にセッションをする時は、自分が「ふつう」だと思う位置よりも若干近づかないと、良い距離感が見つからなかったりします。このように、「お互いの関係性」によってもセッションや距離感は変わってくるわけです。
結局のところ「相手との適切な距離感」に対応し続けるということは「相手との適切な関係性を見つけていく」作業でもあるんでしょうね。
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今回は微妙にクラニオ繋がりということで、番外編で…。
◆
先週末、クラニオ関係の用事で沖縄を訪問しました。用事が落ち着いた後、知人の案内で集落やお気に入りの場所を案内してもらいました。感想としては、この地は、世界観というか土地のエネルギーの質というか、そういったものが、「大和」とは根本的に異なる場所だということ。
まあ、日本(大和)国内でも、東北と関西は食べ物や言葉遣い、風習といった文化は違うわけですが、日本は日本だな、という思いはあります。宗教なども変わらないし、多分、基本的な世界観はほとんど同じではないかと思う。あるいは、もともとが大きく違っていても、ほぼ陸続きだから「同じになってしまった」のかもしれないですが。
◆
でも、今回の訪問では、なにか根本的な部分で、「大和」と「琉球」の非常に大きな隔たりを感じた気がしたわけです。那覇などの市街地はそうでもないが、今回歩いたような集落や、森のような場所の雰囲気には非常に異質なものを感じた。自分が明らかに異邦の民であることを意識させられるような何かがあった。
まあ、何をもってそんなことを言うのかといわれると、良く分からんのですが、「その地に立つことで、身体が感じる違和感」が尋常でなく大きかったためというのが、理由と言えば理由です。それをあえて言葉にしてみると、集落なら「大地にがっしりと根付いているような、深く、密度のある空気感」、森ならば、「大和のあっさりとしたそれに比べると遥かに重厚で、傍に寄ると吸い込まれるような雰囲気」とでもいう感じ。
ある国の文化は、その地の身体観に基づくものだ、というような話をかつて身体教育研究所という場所で聞きましたが、ここで感じた違和感も、なにかそういうレベルの違いをである気がします。違和感と言っても、それはあくまで体感のことで、目に映るのは澄み渡った空や海、穏やかな静けさに包まれ、人々が自然に交流している集落、というような美しい風景だし、別に自分が拒絶されている感じがあるのでもない。ただ、「どうしようもないくらい違う」ということだけはなぜか感じたという。
今回知人からちらっと聞いたところでは、琉球のお墓は大和のお墓とはかなり格好が違い、弔いかたも大分違うらしいこと(歌ったり踊ったり)。また、魔を祓うための集落の構造上の工夫(海から来る魔は直進しかできないらしい)があること、習うスピリチュアルではなく、天然の霊能とでもいうべきものを身につける人が案外多いこと(おかしくなる人も多いらしいが)…などが、何かこの違和感と関係しているような気もしますが、具体的には何とも言い難い。
◆
大和と風習が違うと言えばそれまでだが、それは形だけのことで、私の感じた違和感に繋がるなにかは、琉球の人々の身体観であるとか、死生観であるとか、もっと深いところにあって、それは聞いたり読んだりして分かるような物でもないんだろうと思う。
とりあえず、国の編成上、日本の一部になっても、やはり、琉球は琉球なんだろうな、というのが、根拠もなく、しかし、非常な確信を持って言える今回の感想でした。
◆
先週末、クラニオ関係の用事で沖縄を訪問しました。用事が落ち着いた後、知人の案内で集落やお気に入りの場所を案内してもらいました。感想としては、この地は、世界観というか土地のエネルギーの質というか、そういったものが、「大和」とは根本的に異なる場所だということ。
まあ、日本(大和)国内でも、東北と関西は食べ物や言葉遣い、風習といった文化は違うわけですが、日本は日本だな、という思いはあります。宗教なども変わらないし、多分、基本的な世界観はほとんど同じではないかと思う。あるいは、もともとが大きく違っていても、ほぼ陸続きだから「同じになってしまった」のかもしれないですが。
◆
でも、今回の訪問では、なにか根本的な部分で、「大和」と「琉球」の非常に大きな隔たりを感じた気がしたわけです。那覇などの市街地はそうでもないが、今回歩いたような集落や、森のような場所の雰囲気には非常に異質なものを感じた。自分が明らかに異邦の民であることを意識させられるような何かがあった。
まあ、何をもってそんなことを言うのかといわれると、良く分からんのですが、「その地に立つことで、身体が感じる違和感」が尋常でなく大きかったためというのが、理由と言えば理由です。それをあえて言葉にしてみると、集落なら「大地にがっしりと根付いているような、深く、密度のある空気感」、森ならば、「大和のあっさりとしたそれに比べると遥かに重厚で、傍に寄ると吸い込まれるような雰囲気」とでもいう感じ。
ある国の文化は、その地の身体観に基づくものだ、というような話をかつて身体教育研究所という場所で聞きましたが、ここで感じた違和感も、なにかそういうレベルの違いをである気がします。違和感と言っても、それはあくまで体感のことで、目に映るのは澄み渡った空や海、穏やかな静けさに包まれ、人々が自然に交流している集落、というような美しい風景だし、別に自分が拒絶されている感じがあるのでもない。ただ、「どうしようもないくらい違う」ということだけはなぜか感じたという。
今回知人からちらっと聞いたところでは、琉球のお墓は大和のお墓とはかなり格好が違い、弔いかたも大分違うらしいこと(歌ったり踊ったり)。また、魔を祓うための集落の構造上の工夫(海から来る魔は直進しかできないらしい)があること、習うスピリチュアルではなく、天然の霊能とでもいうべきものを身につける人が案外多いこと(おかしくなる人も多いらしいが)…などが、何かこの違和感と関係しているような気もしますが、具体的には何とも言い難い。
◆
大和と風習が違うと言えばそれまでだが、それは形だけのことで、私の感じた違和感に繋がるなにかは、琉球の人々の身体観であるとか、死生観であるとか、もっと深いところにあって、それは聞いたり読んだりして分かるような物でもないんだろうと思う。
とりあえず、国の編成上、日本の一部になっても、やはり、琉球は琉球なんだろうな、というのが、根拠もなく、しかし、非常な確信を持って言える今回の感想でした。
前回は書いているうちに眠くなって半端に終わったので続き…といきたいところだが、実はクラニオの姿勢については、そんなに厳密なものがあるわけではなかったりします。
とりあえず、前回書いた、ベッドや椅子の高さを十分調整し、腕が長時間同じ場所にあっても疲れないように、クッションやまくら等を使って、十分リラックスできるような状態を整える…という部分が姿勢に関わる第1段階。
◆まっすぐ
で、姿勢関連の第2段階は、そのリラックス状態を保ったまま、自分の姿勢をまっすぐにして、受ける人との距離感を適切に調整する、という感じ。まっすぐといっても、身体を練る(鍛える)ための姿勢ではないから、自分が十分リラックスして心地よいことが優先。まっすぐでリラックスしていることが必要な理由としては、「まっすぐの姿勢の方が結果的に自分が楽だ」ということと、「まっすぐの姿勢の方が今起きていることの情報が自然と受け取りやすい」ということが主に挙げられる。
自分がまっすぐかどうか確認するのには、ミッドライン(背骨とほぼ並行して走る、身体の中心にあるライン。おおよそ「正中線」のようなもの。詳細はいつか書くかも知れない。)という指標を用いることもあるが、あまり自分の体内やイメージの類に意識を向けると自分の身体が緊張するし、ミッドラインの感知よりは受ける方との距離感の方が重要なので、極端には気にしない。ぼんやりクラニオセッションをしていると、相手の方の方向に引き込まれやすいこともあり、いつの間にか身体が傾いて、受ける人の方に微妙に寄ってしまっていることもあるので、そういう時に、「まっすぐ」がどこか大体分かるミッドラインのような指標があると便利、というくらい。
◆距離感
受ける方との距離感の調整はほとんど勘のみの世界だが、かといって、そんなに超能力的な素養が必要なわけでもなく、気をつけていれば、誰でもわかるようになるものと思う(まあ、駅などで歩いていると、日本の街中の人々の多くはあまりにも他者との距離感に無頓着にも見えるが…)。距離感といっても、物理的に身体を大きく動かして数十センチ単位で距離を調整するわけではなく、意識を若干背中側に置くとか、視野を広く取るとかいった程度の方法で、ほとんど自分の意識のみで距離を取る(あるいは距離を取ったつもりになると言った方が良いかも)。つまり、距離感を調整する時も、見た目はあまり動いていない事が多い。
実際、やる側の人が、自分の腹側に主に意識をおいているか、背中側に意識を置いているかだけでも、受ける側の印象は大分変わる。やる側が物理的に動いて距離を取ろうとすると、あまりにも遠くなりすぎたり、相手に触れている場合は受ける人の身体を引っ張るような方向性を与えてしまうこともあるので、もし実際に大きく動く場合は一度受ける人に触れている手を離してから動くのが一般的。
他に、自分の背面・後方を意識する軸として、自分の後頭部からまっすぐ斜め後方に、地面に向かって延びている線をイメージし、それによりかかるようにする、というものも教えられるが、これは最初から意識するのはかなり難しいし、いつもやらなくてはならないものでもない。それを意識して変に緊張するくらいなら、初心の頃は背中を何となく感じるくらいで十分だろうと個人的には思っている。
◆重心
やる人の重心は落ちていた方がいい。受ける側の人は、やる側の人の身体状態や、やる人の存在そのものを道標のように用いつつ、自分の身体システムを整えていくようなので、受ける側の姿勢があまりフラフラしていると、受ける側のシステムも迷わせることになってしまう。クラニオはセッションが順当に進行すると、やる側も結構気持ちよいので、ついぼんやりしすぎてしまうことがあるが、その時には、自分の足(つまり地面や自分の重心)を意識するなどして、意識を飛ばしすぎないように気をつける。
変な例ですが、仮にクラニオをやる人が武術稽古も併習しているならば、嫌でもある程度重心は落ちていると思うのだが、クラニオの教程自体は、重心が落ちるのに役立つ何かを特別にすることがあまりないようなので(クラニオを受けていれば身体が変わるかもというのはおいといて)、まったく自分の身体を遣う習慣のないクラニオプラクティショナーの方は、どこかで自分の身体を遣う稽古(武術に限らず、ヨガとかフェルデンクライスなど、自分の身体を動かし、理解するワークならなんでも。)もした方がいいのかもしれぬとも個人的には思う。意識せずとも、ある程度重心が落ちていると、セッション中、突発的な事態(受ける人によっては、寝ていたと思いきや、いきなり飛び起きるなど、色々な事が起きることがあります。)にあってもあまり動揺せず、落ち着いて対応できるし、受ける人の身体システムがかなり興奮状態にあっても、それに引っ張られて自分も相手も一緒に興奮してしまうようなことも少なくて済む。やる側の人は「道標」なのだから、受ける人がどんな状態でも、それに一方的に引っ張られるのは駄目なわけですね。
◆
…まあ、やる側の人の姿勢に関してはおおよそこんな感じでしょうかね。結局、クラニオでは姿勢に関してはあまり具体的な決まりは多くなく、個人の裁量によるところが大きいといえそうです。同時に、ある程度まかされる部分だけに、この姿勢の充足度によって、プラクティショナーごとのセッションの安定度が違ってくる、ということは結構ありそうですね。
とりあえず、前回書いた、ベッドや椅子の高さを十分調整し、腕が長時間同じ場所にあっても疲れないように、クッションやまくら等を使って、十分リラックスできるような状態を整える…という部分が姿勢に関わる第1段階。
◆まっすぐ
で、姿勢関連の第2段階は、そのリラックス状態を保ったまま、自分の姿勢をまっすぐにして、受ける人との距離感を適切に調整する、という感じ。まっすぐといっても、身体を練る(鍛える)ための姿勢ではないから、自分が十分リラックスして心地よいことが優先。まっすぐでリラックスしていることが必要な理由としては、「まっすぐの姿勢の方が結果的に自分が楽だ」ということと、「まっすぐの姿勢の方が今起きていることの情報が自然と受け取りやすい」ということが主に挙げられる。
自分がまっすぐかどうか確認するのには、ミッドライン(背骨とほぼ並行して走る、身体の中心にあるライン。おおよそ「正中線」のようなもの。詳細はいつか書くかも知れない。)という指標を用いることもあるが、あまり自分の体内やイメージの類に意識を向けると自分の身体が緊張するし、ミッドラインの感知よりは受ける方との距離感の方が重要なので、極端には気にしない。ぼんやりクラニオセッションをしていると、相手の方の方向に引き込まれやすいこともあり、いつの間にか身体が傾いて、受ける人の方に微妙に寄ってしまっていることもあるので、そういう時に、「まっすぐ」がどこか大体分かるミッドラインのような指標があると便利、というくらい。
◆距離感
受ける方との距離感の調整はほとんど勘のみの世界だが、かといって、そんなに超能力的な素養が必要なわけでもなく、気をつけていれば、誰でもわかるようになるものと思う(まあ、駅などで歩いていると、日本の街中の人々の多くはあまりにも他者との距離感に無頓着にも見えるが…)。距離感といっても、物理的に身体を大きく動かして数十センチ単位で距離を調整するわけではなく、意識を若干背中側に置くとか、視野を広く取るとかいった程度の方法で、ほとんど自分の意識のみで距離を取る(あるいは距離を取ったつもりになると言った方が良いかも)。つまり、距離感を調整する時も、見た目はあまり動いていない事が多い。
実際、やる側の人が、自分の腹側に主に意識をおいているか、背中側に意識を置いているかだけでも、受ける側の印象は大分変わる。やる側が物理的に動いて距離を取ろうとすると、あまりにも遠くなりすぎたり、相手に触れている場合は受ける人の身体を引っ張るような方向性を与えてしまうこともあるので、もし実際に大きく動く場合は一度受ける人に触れている手を離してから動くのが一般的。
他に、自分の背面・後方を意識する軸として、自分の後頭部からまっすぐ斜め後方に、地面に向かって延びている線をイメージし、それによりかかるようにする、というものも教えられるが、これは最初から意識するのはかなり難しいし、いつもやらなくてはならないものでもない。それを意識して変に緊張するくらいなら、初心の頃は背中を何となく感じるくらいで十分だろうと個人的には思っている。
◆重心
やる人の重心は落ちていた方がいい。受ける側の人は、やる側の人の身体状態や、やる人の存在そのものを道標のように用いつつ、自分の身体システムを整えていくようなので、受ける側の姿勢があまりフラフラしていると、受ける側のシステムも迷わせることになってしまう。クラニオはセッションが順当に進行すると、やる側も結構気持ちよいので、ついぼんやりしすぎてしまうことがあるが、その時には、自分の足(つまり地面や自分の重心)を意識するなどして、意識を飛ばしすぎないように気をつける。
変な例ですが、仮にクラニオをやる人が武術稽古も併習しているならば、嫌でもある程度重心は落ちていると思うのだが、クラニオの教程自体は、重心が落ちるのに役立つ何かを特別にすることがあまりないようなので(クラニオを受けていれば身体が変わるかもというのはおいといて)、まったく自分の身体を遣う習慣のないクラニオプラクティショナーの方は、どこかで自分の身体を遣う稽古(武術に限らず、ヨガとかフェルデンクライスなど、自分の身体を動かし、理解するワークならなんでも。)もした方がいいのかもしれぬとも個人的には思う。意識せずとも、ある程度重心が落ちていると、セッション中、突発的な事態(受ける人によっては、寝ていたと思いきや、いきなり飛び起きるなど、色々な事が起きることがあります。)にあってもあまり動揺せず、落ち着いて対応できるし、受ける人の身体システムがかなり興奮状態にあっても、それに引っ張られて自分も相手も一緒に興奮してしまうようなことも少なくて済む。やる側の人は「道標」なのだから、受ける人がどんな状態でも、それに一方的に引っ張られるのは駄目なわけですね。
◆
…まあ、やる側の人の姿勢に関してはおおよそこんな感じでしょうかね。結局、クラニオでは姿勢に関してはあまり具体的な決まりは多くなく、個人の裁量によるところが大きいといえそうです。同時に、ある程度まかされる部分だけに、この姿勢の充足度によって、プラクティショナーごとのセッションの安定度が違ってくる、ということは結構ありそうですね。
クラニオ(バイオダイナミクス)のセッション中の姿勢について大雑把に書いてみます。
◆
ここまでの記事で何べんも書いてますが、クラニオはやる人が長時間じっとしている技法なので、姿勢は重要です。時に数十分もじっとしているので、リラックスできるような、心地よい姿勢である必要があります。まあ、しんどくなった場合は受ける方に言って姿勢を直せばいいんですが、初心の頃は気後れして言えなかったりするし、しんどくなるような姿勢になること自体はセッション開始前に予測されてしかるべきなので、セッション前に十分に安定できる姿勢を整えた方がいいのは言うまでもないです。
…と同時に、だらっとしている姿勢も良くないです。だらっとしていると、自分で勝手に気持ちよくなって、受ける側を無視してセッションが進んだり、受ける方の身体システムの状況が良く分からなかったりしますし、ある程度姿勢をまっすぐにして、きちんと座っている方が結果的に身体の局部に負荷がかかりにくく、楽でもあります。これはまあ、多分他の技法でも同じでしょう。
◆
クラニオセッションでは、受ける人にマッサージテーブル(大体高さ1メートル程度の、高さ調整ができる持ち運び用テーブル)の上に寝てもらい、やる人は椅子に座って、受ける方の身体に触れていきます。なので、まず楽な姿勢を取るために重要なのはベッドと椅子の高さです。やる人は実際に椅子に座ってみて、自分の身体に無駄な力が加わらない、適切な高さを確認し、ベッドの高さや椅子の高さを調整します。めんどくさいといえばめんどくさいのですが、この過程を無視して受ける方がベッドに乗ってしまうと、途中で簡単にベッドの高さ変更はできないので、自分に合わない高さのまま必死に姿勢を調整することになり、とても大変です。
後は、セッション途中で相手の方のベッドから多少高い位置(胸部など)に触れる時など、腕を上げる必要がある場合、何の対策もしないと腕が緊張してくるので、必要に応じてまくらやクッションなどを自分の肘の下に置いて高さを微妙に調整し、安定して触れ続けられるようにします。武術の鍛錬で、長時間腕を同じ格好で空中に固定していられるとかも可能性としてはなくもないですが、それも意識が緊張しますので、心地よさ重視で行きます。
◆
私の場合、クラニオを習いたての頃は、武術稽古の影響か、「しんどいはずの状況でも、できるだけ楽にできるように」などと考え、わざわざしんどそうな姿勢を選んだりしてましたが、クラニオの場合は、「自分が可能な限り楽な状況・姿勢」をちゃんと見つけて設定しないと、自分がしんどいくらいですから、相手の人も同じくらいしんどかったりします。そんなわけで、否応なく、心地よい姿勢というやつを探るわけですが、楽なことのはずなのに、逆に結構苦労しました。実際、自分に関して言えば、それまで「できるだけ心地よく」ということを考える機会はありそうでなかったものです。日本人の頑張る気質みたいなものはよい面もあるが、そういう心地よさの探求を苦手とする面にもつながってくる気もしますね。
…と、随分抽象的になりましたが、全体の姿勢方針はこんな感じで、(だらけない程度に)使うべき道具は遠慮なく使って、心地よさを重視するというところですかね。姿勢がまっすぐとかの実際の身体の姿勢についてはまた今度書きます。
◆
ここまでの記事で何べんも書いてますが、クラニオはやる人が長時間じっとしている技法なので、姿勢は重要です。時に数十分もじっとしているので、リラックスできるような、心地よい姿勢である必要があります。まあ、しんどくなった場合は受ける方に言って姿勢を直せばいいんですが、初心の頃は気後れして言えなかったりするし、しんどくなるような姿勢になること自体はセッション開始前に予測されてしかるべきなので、セッション前に十分に安定できる姿勢を整えた方がいいのは言うまでもないです。
…と同時に、だらっとしている姿勢も良くないです。だらっとしていると、自分で勝手に気持ちよくなって、受ける側を無視してセッションが進んだり、受ける方の身体システムの状況が良く分からなかったりしますし、ある程度姿勢をまっすぐにして、きちんと座っている方が結果的に身体の局部に負荷がかかりにくく、楽でもあります。これはまあ、多分他の技法でも同じでしょう。
◆
クラニオセッションでは、受ける人にマッサージテーブル(大体高さ1メートル程度の、高さ調整ができる持ち運び用テーブル)の上に寝てもらい、やる人は椅子に座って、受ける方の身体に触れていきます。なので、まず楽な姿勢を取るために重要なのはベッドと椅子の高さです。やる人は実際に椅子に座ってみて、自分の身体に無駄な力が加わらない、適切な高さを確認し、ベッドの高さや椅子の高さを調整します。めんどくさいといえばめんどくさいのですが、この過程を無視して受ける方がベッドに乗ってしまうと、途中で簡単にベッドの高さ変更はできないので、自分に合わない高さのまま必死に姿勢を調整することになり、とても大変です。
後は、セッション途中で相手の方のベッドから多少高い位置(胸部など)に触れる時など、腕を上げる必要がある場合、何の対策もしないと腕が緊張してくるので、必要に応じてまくらやクッションなどを自分の肘の下に置いて高さを微妙に調整し、安定して触れ続けられるようにします。武術の鍛錬で、長時間腕を同じ格好で空中に固定していられるとかも可能性としてはなくもないですが、それも意識が緊張しますので、心地よさ重視で行きます。
◆
私の場合、クラニオを習いたての頃は、武術稽古の影響か、「しんどいはずの状況でも、できるだけ楽にできるように」などと考え、わざわざしんどそうな姿勢を選んだりしてましたが、クラニオの場合は、「自分が可能な限り楽な状況・姿勢」をちゃんと見つけて設定しないと、自分がしんどいくらいですから、相手の人も同じくらいしんどかったりします。そんなわけで、否応なく、心地よい姿勢というやつを探るわけですが、楽なことのはずなのに、逆に結構苦労しました。実際、自分に関して言えば、それまで「できるだけ心地よく」ということを考える機会はありそうでなかったものです。日本人の頑張る気質みたいなものはよい面もあるが、そういう心地よさの探求を苦手とする面にもつながってくる気もしますね。
…と、随分抽象的になりましたが、全体の姿勢方針はこんな感じで、(だらけない程度に)使うべき道具は遠慮なく使って、心地よさを重視するというところですかね。姿勢がまっすぐとかの実際の身体の姿勢についてはまた今度書きます。
前回はクラニオ・バイオダイナミクスの「タッチする」という意味での触れ方について書いてみましたが、今回は「どこに触れるか」というような意味合いでの触れ方「ハンドポジション」について書きます。といっても、種類がたくさんあるので、概略だけ書きます。
◆ハンドポジション
クラニオでは、多分先人が色々試行錯誤した結果まとまってきたと思われる、「ここに触れていくとだいたい展開がスムーズ」とされる触れる場所があり、その「基本的な触れ場所」が「ハンドポジション」と呼ばれます。実践性を持ち合わせた型みたいなものです。
全身の色々な個所に触れる可能性があるため(もちろん受ける方が抵抗を覚える部位、社会的に問題挙がるような部位には触れません)、色々ハンドポジションはありますが、触れる場所は自由に選んでいいので、無限にあるといえなくもないです。ただ、常識的に考ると触れる場所は比較的限られるし、教程で習ったり、市販の本に載っている代表的なポジションの多くはほぼ完成されていて、かなり使い勝手がいいのも確かです。そのため、今のところ、私がセッションを進める上では、習ったポジションと、それを微妙に変形したものくらいで事足りています。主に触れる場所としては、頭部、肩、胸の上部、横隔膜付近、背骨、仙骨、足などが一般的です。
◆頭への触れ方
「クラニオセイクラル」は直訳すると「頭蓋仙骨」となりますが、「頭蓋」と付くだけに、頭に触れるハンドポジションの種類は非常に多いです。骨1つ1つに対応する触れ方があります。篩骨や鋤骨など、頭の中央部にあって物理的に触れる事が困難な骨の場合は、別の骨との動きの連動などを通じて、対象の骨が感じられるような触れ方になります。しかし、頭部へのたくさん触れ方があるといっても、普段使うのは、受け手の人にあまり抵抗がなさそうな3,4種類というところです。技法名が頭蓋仙骨という名前である割に、セッションを通じて、頭に1度も触れないこともしばしばです。頭部はデリケートな部位なので、クラニオを受け慣れている人相手で、さらにそこに触れる必然性がなければ、特殊なポジションはそうそう使いませんし、相手の方に抵抗があることはしたくないものです。
◆触れる回数など
クラニオでは、だいたい45~60分程度の1セッションにつき、身体の2~4カ所くらいを順番に触れていきます。1カ所につき、だいたい10~20分程じっと触れている、を繰り返すワークです。「1セッションにつき、2~4個くらいのハンドポジションを使う」ともいえます。私自身は教程で主に紹介されている、「受ける人の身体システムが静まりやすそうな部位⇒気になる部位⇒落ち着いて現実に戻ってきやすそうな部位」の3カ所かそれ以上に順番に触れていくことが多いです。状況によっては最初のハンドポジションを40分くらいひたすらやって終わらせる時もあります。その一方で、1セッションで5カ所くらい触れる展開もあります。使うハンドポジションは受ける人の状態やセッションの展開によって決まるので、だいたいこうかな、というのはあるものの、ほとんど常にアドリブ展開です。
ハンドポジションは、頭部に触れる一部のものはかなり難しいですが、大抵のものは形だけならそう難しくありません。また、難しければ効果が高いかというとそんなこともありません。「必要な場所に適切な方法で触れる」ことが重要なので、基本的な数ポジションに熟練するだけでもセッションは一応できると思います。実際、代表的なハンドポジションの形だけを紹介するなら、数日の講習でも事足りるかも知れません。ただ、「形を知っても、それだけでは使えない」というのは武術などでも大変お約束なメッセージですが、クラニオもまた然りで、使いこなすまではそれなりに時間がかかるものです。まあ、クラニオの場合は「触れながらも余計な介入をしない」ことが大切なので、ある意味「使いこなす」とは逆ともいえますが。
◆部分ではなく全体を見る窓
なお、ハンドポジションで特定の部位、時には特定の1個の骨に触れるといっても、「その骨に注目してゆるませる・矯正する」といったことが主目的ではないのが(結果的にゆるんだりはしますが)、クラニオ・バイオダイナミクスの特性であり、なかなかやっていて難しくも興味深いところです。
じゃあ、主な目的は何なのかというと、「触れている部位をやや意識しつつも、身体システム全体の働きを視野に入れる」ことです。つまり、常にワークの対象は「身体システム全体のバランス」であり、ハンドポジションで触れている部分は「身体システム全体を感じる窓口として適切」と感じられたがゆえに触れられている、といえます。ここから触れていくと、受けるひとのからだの「全体性」や「健全性」に繋がりやすいだろうと感じるから、あるハンドポジションを選んで触れていく、という感じです。
2013/10 言い回し修正
◆ハンドポジション
クラニオでは、多分先人が色々試行錯誤した結果まとまってきたと思われる、「ここに触れていくとだいたい展開がスムーズ」とされる触れる場所があり、その「基本的な触れ場所」が「ハンドポジション」と呼ばれます。実践性を持ち合わせた型みたいなものです。
全身の色々な個所に触れる可能性があるため(もちろん受ける方が抵抗を覚える部位、社会的に問題挙がるような部位には触れません)、色々ハンドポジションはありますが、触れる場所は自由に選んでいいので、無限にあるといえなくもないです。ただ、常識的に考ると触れる場所は比較的限られるし、教程で習ったり、市販の本に載っている代表的なポジションの多くはほぼ完成されていて、かなり使い勝手がいいのも確かです。そのため、今のところ、私がセッションを進める上では、習ったポジションと、それを微妙に変形したものくらいで事足りています。主に触れる場所としては、頭部、肩、胸の上部、横隔膜付近、背骨、仙骨、足などが一般的です。
◆頭への触れ方
「クラニオセイクラル」は直訳すると「頭蓋仙骨」となりますが、「頭蓋」と付くだけに、頭に触れるハンドポジションの種類は非常に多いです。骨1つ1つに対応する触れ方があります。篩骨や鋤骨など、頭の中央部にあって物理的に触れる事が困難な骨の場合は、別の骨との動きの連動などを通じて、対象の骨が感じられるような触れ方になります。しかし、頭部へのたくさん触れ方があるといっても、普段使うのは、受け手の人にあまり抵抗がなさそうな3,4種類というところです。技法名が頭蓋仙骨という名前である割に、セッションを通じて、頭に1度も触れないこともしばしばです。頭部はデリケートな部位なので、クラニオを受け慣れている人相手で、さらにそこに触れる必然性がなければ、特殊なポジションはそうそう使いませんし、相手の方に抵抗があることはしたくないものです。
◆触れる回数など
クラニオでは、だいたい45~60分程度の1セッションにつき、身体の2~4カ所くらいを順番に触れていきます。1カ所につき、だいたい10~20分程じっと触れている、を繰り返すワークです。「1セッションにつき、2~4個くらいのハンドポジションを使う」ともいえます。私自身は教程で主に紹介されている、「受ける人の身体システムが静まりやすそうな部位⇒気になる部位⇒落ち着いて現実に戻ってきやすそうな部位」の3カ所かそれ以上に順番に触れていくことが多いです。状況によっては最初のハンドポジションを40分くらいひたすらやって終わらせる時もあります。その一方で、1セッションで5カ所くらい触れる展開もあります。使うハンドポジションは受ける人の状態やセッションの展開によって決まるので、だいたいこうかな、というのはあるものの、ほとんど常にアドリブ展開です。
ハンドポジションは、頭部に触れる一部のものはかなり難しいですが、大抵のものは形だけならそう難しくありません。また、難しければ効果が高いかというとそんなこともありません。「必要な場所に適切な方法で触れる」ことが重要なので、基本的な数ポジションに熟練するだけでもセッションは一応できると思います。実際、代表的なハンドポジションの形だけを紹介するなら、数日の講習でも事足りるかも知れません。ただ、「形を知っても、それだけでは使えない」というのは武術などでも大変お約束なメッセージですが、クラニオもまた然りで、使いこなすまではそれなりに時間がかかるものです。まあ、クラニオの場合は「触れながらも余計な介入をしない」ことが大切なので、ある意味「使いこなす」とは逆ともいえますが。
◆部分ではなく全体を見る窓
なお、ハンドポジションで特定の部位、時には特定の1個の骨に触れるといっても、「その骨に注目してゆるませる・矯正する」といったことが主目的ではないのが(結果的にゆるんだりはしますが)、クラニオ・バイオダイナミクスの特性であり、なかなかやっていて難しくも興味深いところです。
じゃあ、主な目的は何なのかというと、「触れている部位をやや意識しつつも、身体システム全体の働きを視野に入れる」ことです。つまり、常にワークの対象は「身体システム全体のバランス」であり、ハンドポジションで触れている部分は「身体システム全体を感じる窓口として適切」と感じられたがゆえに触れられている、といえます。ここから触れていくと、受けるひとのからだの「全体性」や「健全性」に繋がりやすいだろうと感じるから、あるハンドポジションを選んで触れていく、という感じです。
2013/10 言い回し修正
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プロフィール
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HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
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