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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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◆今日の言い訳
先週くらいから、クラニオ論文の作成を開始しました。そして、予想通り、こちらのブログは若干更新が適当になりつつあります…。

このブログには当初はクラニオにまつわる「ためになる系」のことを書こうかと思ったんですけども、自分が気が向かない時に書いたものをあとで読み返してみると、無理やり感があったり、手抜きだったり、妙に「自信過小」だったりしていて、いつも真面目というのは、なかなか難しい。ただでさえ、シリアスな(そして、多分世の中の大勢の方には共感が困難な)内容を書こうとすると、適当なことを書いてはいかんと思い、しかも堅苦しい文体も嫌だと思うので半端に手抜き感溢れる文になり、妙な方向に気合いを入れて長文を書き疲労するというパターンに陥りがちなので、論文取り組み中(当分続きますが)は、もうすこし適当な方向で書こうと思っています。

普段やることがなく、だらけているような時期ならば、己に喝を入れるべく、真面目な内容を書く意欲も湧こうというものですが、さすがに論文を書いたりしていると「真面目成分」はそちらで十分満喫しているので、こっちまで真面目文は手が回りにくいというわけです。基本的に効率よく動いて、空き時間で怠けることを好む人ですので。

◆論文です
…というわけで、論文ですが、これは(前にも書いた気がしますが)、我が学ぶ団体「ICSB」のクラニオの正規プラクティショナー資格と国際資格を、来年セットで得るために必要なものでして、重要です。でも、論文といっても、大学院の修士論文とか学会の研究発表ほど厳密な構成や論理展開が必要というわけでもないです。ここまでクラニオを学んできた集大成として、ある程度の分量を論文の形式に則って書いてねと言う程度なので、まあ、この数年クラニオってきた(造語)自分を振り返るのにはちょうど良い機会という奴でしょう。

私は、武術稽古も好きなので、この機会に武術ネタを無理やりでもクラニオ論文に登場させてやろうという妙な意欲を燃やし、両者の合体が可能そうな「プラクティショナーニュートラル」というテーマを選びました。プラクティショナーニュートラルというのは、簡単に言えば、クラニオやる側の人にとって必須の、姿勢や意識の置き方によって生じる安定した身体感覚のことですね。これがきちんとしていると、セッションに必要な心身の静まりや安定感、状況把握力、強い同調感などのサポートが自然と得られます。これは(…あるていど)できていなければクラニオじゃない!、というくらい重要ですが、原理原則を習っても、初心の頃は、これが結構ぐらぐらしていたり、逆に身体が固まっていたり、明後日の方向に意識が飛んで自分だけ気持ちよくなったり、受ける相手のフィールドに突っ込んだりしがちなわけですが、それがどんな風に上手になっていくのかを自分の痛い経験(私も最初は前述の如き状態でしたし、今も完璧でない時はままあります…)も踏まえて偉そうに書いてみよう、というわけです。

なお、無理やり武術要素を投入する部分は、「稽古が進むにつれ自分の中のコアな身体感覚がどんな風に深まっていったか」を自分の稽古経験を交えて書くという形になる予定です。なんせ私はたいした技が出来ませんので、妙にうがった視点です。ここは屁理屈派として、もっともらしさ抜群の「猫の妙術」なども引用してやろうかとも思っています。で、両者(どっちも「身体感覚」つながりですので)の進展・深化過程を比べて、身体感覚といういかにも暗黙的で訳の分からない物が、熟練につれてどんな風に深化するのかが、2つの視点を通じて少し明示化できれば面白いかなと思っています。

で、論文を書き始めたところ、また妙に気合いが入ってしまったようで、前書きと、冒頭部分で「プラクティショナーニュートラルって何だ」と書くのだけに1万字くらいを使ってしまいました。まだぜんぜん本論に達してません。とりあえず、文章量は心配しなくて良さそうだと思いました。この辺の進捗は…書きたい時に書きます。書かないかも知れません。…とまあ、こんな風にダラダラ書くのが無駄に文が長くなる一因なんでしょうな。

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なぜか「邪気をもらって云々」といった表現をなんべんか見かけて気になり、私なりの見解を書こうと思いつつ2,3ヶ月過ぎたのを思い出したので、身体つながりの話題としてここに書いてみます。なじみのない方には「邪気をもらう」自体が何のことやらという感じだと思いますが、これは「ボディワークのセッションなど、術者が相手にじっくり触れるような行動をした後、セッションをした人自身が気分が悪くなってしまう状態」のことです。
 受けた側が気持ち良いのに、やった側が気持ち悪いというのは、色々と残念な状態と言えますが、それを相手の「邪気」の影響である、とする考えがあるようで、「邪気をもらう」という表現になっているようです。私は邪気という物が分からないので、とりあえず、ここでは邪気の存在そのものは脇に置いて、「相手にセッションをした後、術者自身が気持ち悪くなる」という状態と対応例について考えてみたいと思います。私はこれは、「相手の身体の不調な部分もしくは場に強く同調しすぎて、自分の身体が痛くなったり気持ち悪くなった状態」なのでは、と思っています。

◆同調に関する個人的見解
 同調というのは、個人的には相手の身体状態、もしくはある場のエネルギー波長を我が身にて共有している状態だと考えています。「相手からこちらがなにかもらう」という因果関係やタイムラグはなく、相手と同時に体感されるもののように思います。同調というのは特殊能力ではなく、人間誰にでも備わっている相互交流のための身体感覚の一つだと私は思っています。
 極論すると、この同調機能があるからこそ、怒っている身体状態の人の側に行くと、自分もいらいらしてきたり、喜んでいる身体状態の人の傍にいくと、自分も楽しくなってくる、といった事が起こりうるのではないかと思っています。ただ、余程相手にダイレクトに関わらない限り、同調といっても「傍にいる相手の身体状態に影響を少し受ける」程度で、「相手の身体そのもの」を体感するようなことにはならないと思います。

◆同調率アップ要因
 ところが、マッサージやボディワークなどを通じて、他社の身体と若干深いふれあいがあると、通常はそれほど高くない「同調率」が通常より深くなり、相手の身体状態に影響を受けやすくなるように思います。そして、誰だろうと少々不調な部分はあるので、深く同調したまま触れている相手の不調な側面(同調により感覚が共有されてるので、それは「触れた時に自分の身体の中で自分が不調と感じた部分」となります)を思いっきり意識してしまうと、自分の身体がとても痛くなったり気持ち悪くなるかも知れません。もっとも、ある程度深く同調したら何の影響も受けないことはないはずなので、少しは痛くなるかも知れませんが、それはそういうものだと思って気にしなければ、あまり影響はなく、やがて薄れていきます。これは、自分自身が同調によって感じた痛みに目を向けなくなったので、それに同調している相手の身体も不調以外に目を向けることができた、とも言えるかも知れません。

 相手に触れたあと気持ち悪くなりやすいのは、「自分がわざわざ自分や相手や場の不調・不快な部分を見ているから、自分自身の不調・不快が増幅される」ためではないか、とも言えます。私も昔から「同調」の影響は感じやすいタイプですが、セッションが終わった時に自分に不快感があったり、ダメージを受けていることは最近はまずありません。先日も医学的に見れば重病、といえる方にクラニオを行いましたが、セッション後も特に問題はありませんでした。もちろん、私でも、懸命に自分自身が気持ち悪いと感じる部位をずっと意識していたら気持ち悪くなると思います。意識の持ちようという所です。

 あとは、あまりにも自分の身体が「しっかりしてない状態」だと、更に同調の影響をダイレクトに受けやすいと思っています。「地に足が付いていない状態」「グラウンディングできいない状態」といった表現もできます。足腰にある程度重心が落ちていない、弱々しい姿勢だと相手の影響を受けやすい、というのは経験則なので、明確な理屈がある訳ではありませんが、まあ、なよなよした姿勢(外圧をどこ吹く風と受け流すような柔らかく強靭な姿勢という物もあると思うので、その質にもよりますが)は自分の心身の安定感をもたらしやすい状態ではないとは思います。

◆結局どうすればいいのか
 つまり、「相手に触れてセッションをすると気持ち悪くなりやすい」状況への対応例としては、重心が下半身に落ちたしっかりした姿勢を取るなり、自分の足を意識したり呼吸でもするなりして自分の肉体を感じ「地に足を付け」「グラウンディング」した上で、更に自分の中の痛い部分や気持ち悪い部分に目を向けずになんとなく身体全体を眺めるようにしておけば、同調によってダメージをダイレクトに受けることは少ないと思います。また、一時的にどこか痛くなったりしても、落ち着いてやりすごしやすくなります。そんなことは無理だと思えるほど、どうしようもなくしんどいならば、逆に自分の身体の気持ちよい部分、もしくは自分の身体全体に意識を向けるといった手段もあります。

 まあ、理屈の上では、こういったことに熟練すれば、どんなに怒り狂っている人間を前にしても、自分の中の安定した部分につながって、怒りの影響をどこ吹く風と受け流すなどもできるはずではありますが、その実践がなかなか難しいことはご想像の通りです。まあ、この心得があればダメージは多少は減るかもしれません。個人的にも、何も身体について知らない時よりは、こういった意識の使い方を多少身に付けたことで生きやすくはなったかなと思っています。

◆適当な結論ですが
 そんなわけで、あらゆる状況に対応できる程ではないと思いますが、「セッションをすると気持ち悪くなってしまう」問題の多くは、自分や相手の身体のどこに意識を向けているかと、自分の身体の地に足が付いている度合いの問題と思うので、まずは自分の身体の安定や意識の置き所を変えてみた方がよいと思います。相手に触れることで生じる痛みや気持ち悪さを、「自分の身体の受け取り方の問題」とすれば、ある程度は自分で何とかできると思います。何にせよ、無闇に周囲の影響に振り回されないために、「自分の身体状態をしっかり把握する」「身体に無闇に負担のかからない、きちんとした姿勢を取る」というのは、身体のワークを専門にやらない人にとっても重要かもしれません。

追記:これはあくまで、相手との同調が原因でしんどい時の対応ですが、単純に自分の調子が宜しくない時の緊急対応としても一応は使用可能です。なお、相手との同調の影響以前に、自分自身が不調だからセッションがしんどい、という事ももちろんあると思いますので、その場合は無理にセッションをせず、休むなりしましょう…。

2013/10 言い回し修正

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しばらく前に書いた「ぶじゅつ(本)との出会い」が続編(?)を予告したまま止まっているので、つづき。

◆古武術の発見
 ある時、八極拳の本を見つけて以来、私はなんとなく東洋の伝統武術に興味を持ったわけですが、当時の私は、人から長期にわたってものを習うことにもの凄く苦手意識があり(それがかなり克服されたのは結構最近です)、かつ、武術(このブログで使う「武術」は、東洋の伝統武術、もしくはその稽古体系を下敷きにした動作のワークというような意味です。)の道場はとても恐ろしい場所なんじゃないかと怖がっていたので、なかなか実際の活動を始めようという気分になれませんでした。そんな中、「武術的活動開始」のきっかけとなったのが「古武術の発見~日本人にとって「身体」とは何か」(養老孟司、甲野善紀著 光文社)という本でした。当時は書店の片隅に置かれている印象の本でしたが、その後文庫版も出たし、著者2名の知名度とも相まって、現在は割と有名かもしれませんね。

◆術理?
 この本には「ナンバ歩き」といったユニークな概念の紹介や、昔の武術家の凄いエピソードなど、いろいろな話が載っていて面白かったのですが、当時の私が特に興味を持った内容は、武術にはどうやら「術理」というものがあって、「柔よく剛を制す」は精神論ではなく、明確な技術法則によって実現されているらしい、ということです。つまり、伝統武術というのは、身体で行う知的な文化活動みたいなものでもあり、どうやら普通の競技スポーツとも、殴り合いや叩き合いが多そうな現在武道とも方向性が違うみたいなので、「精神論」「体育会系のノリ」に尋常ならざる苦手感があった私も何とかやれるんじゃないかと思ったのでした。
 私は武術で強くなりたいとは多分あまり思っていなかったので、なんでヨガ等でなく武術を選んだのか今でも疑問ですが、まあ、この本によって喚起させられたある種の知的好奇心によるところが大きかったんだろうと思います。甲野先生の本全般に見られることですが、この本では、達人の技は、「その人の天性に依存する偶然」ではなく、姿勢や身体の使い方といった「合理性」によって成り立っている(つまり達人技もある程度は伝達可能という意味合いですね)と捉えており、武術について神秘的な書き方をしていなかったのも好印象でした。当時の私は神秘的なものが苦手でしたので(その後、紆余曲折を経て、そっち方面にも結構精通した人になってしまうのですが)。あとは…ストレス発散や健康のために始めたと言えなくもないですかね。

◆フリー稽古会の衝撃
 そして、この本を読んで、術理以上に興味が湧いたのが、甲野先生が訪れるという「恵比寿稽古会(のちに解散。現在は「半身動作研究会」という名前で、主宰者の中島章夫さんが恵比寿稽古会の雰囲気を引き継ぎつつ運営されています。)」という集まりの稽古方針です。そこでは、何故か「各人がそれぞれ独自の自主稽古的なもの(何かの型をやったり、人と組んで崩しあってみたり、木刀素振りしていたり、じっとしていたり、いろいろです。)」をしていて、甲野先生と他の稽古人の方々は、師弟関係ではなく、たまたま場を共有する共同研究者みたいなものらしいと。当時の私は武術というのは先生の指導もとい命令に新兵の如く服従して学ぶ以外の選択肢はないのだろうと思っていたので、こういったオープンな考えで運営されている稽古場があることに驚きました(今思えば凄いびびりようです。実は普通の伝統武術教室の多くも実は結構オープンな環境なのだと知るのはこの後何年か経ってからです)。

 更に、恵比寿稽古会の稽古人は、段位や稽古年数で評価されることもなければ(逆に言えば、長くいるとか年上という理由で偉そうな顔はできないということでもありますね)、皆勤や時間厳守の義務もないという姿勢にも驚きました(この点に関しても、伝統武術教室の多くは比較的寛大であると後で知りました。皆勤必須だったらとても社会人は通えません…。)。要は余程問題でもおこさなければ、ある程度やる気のある人なら誰でも下手なりに置いてくれる場所という事です。人に教わることにびびるくらいですから、当時の私には、人と競えるような余裕なんてあるわけもなく、そこらに放置してもらって、一人でじっくり動きながら考え込めるようなこの環境はある意味理想的と感じられました。
 当時の私にも、自主稽古だけでちゃんと武術の技らしきものがやれるようになるのかというのは疑問だったのですが、ともかく置いてくれそうではあったので、良く判らないなりに恵比寿稽古会に行ってみることにしました。そして、この恵比寿稽古会が私の「武術的稽古活動」のスタート地点になったわけですが、まあ、どちらにしろ私には、スタート地点として、この場所しか選択肢はなかったろうなと今も思います。

◆フリー稽古会の意味
 もっとも、フリー稽古会を入り口に稽古を始めた私でも、今なら「もし人からものを習うことに抵抗がなく、武術の技や自分の心身を深めていきたいと思うなら、自分と合いそうな教室や先生、これはいいなと感じられる流派を時間をかけてじっくり探し、そこに最初から通ったほうが良い」と道場を探す人にはアドバイスすると思います。実際、甲野先生の稽古会で多くの方に出会いましたが、私も含め、大概の常連の方は、ここをスタート地点に、後に何がしかの伝統武術や身体技法を学ばれる(あるいは最初から専門分野を持っている)ことが多かったです。結局、自由な環境におかれることで、かえって制約や基本の重要性というか、そういうものに還る必要性を感じることになる方が少なからずいたのだろうと思います。もちろん、甲野先生が現れる稽古会という事で、前述の中島さんを始め、甲野先生自身の稽古の歩みについて研究しようという方もいました。最近はそういう方のほうが多いのかも知れません。そこは、自由な稽古会ですから、「研究テーマは人それぞれ」ということで良いんだと思います。

 ただ、私みたいな「訳あり」の人がリハビリ的稽古活動を黙々と行ったり、やがて自分の道を見つけるまで、好きなように居させてくれる場所として、あるいは、様々なプロフィールを持つ方々が立場を忘れて自由に交流できる場所として(一般社会ではなかなか武術や身体ワーク分野のマニアックな会話ができないので、そういう話が普通にできる仲間がいるだけでも助かります。)、前述のような方針で運営されるフリー稽古会はとても意味があると思うし、今後も志ある方が続けていって欲しいなと思っています。こういった稽古会があったことには、個人的には本当に感謝しています。…恵比寿稽古会に行き始めた頃の私の迷走っぷりなどについては、気が向いた時にネタ的に書いてみようと思います。

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◆「じっとしている=何もしていない」…ではない
クラニオ(今回語る「クラニオ」は特にクラニオ・バイオダイナミクスの話です)は、外見だけ眺めると、相手の方に尋常でなく静かに触れてじっとしている…という技法です。奇妙といえば奇妙な光景です。
でも、触れてじっとしているからといって、「なにもしない(放置)」わけではありません。何をしているのか、と問われれば、「相手の方に入力(刺激ともいえる)を与えずに静かに触れている」とでもなりましょうか。そして、「入力を与えない」ことを続けるには結構な努力が必要なわけです。クラニオでは、これまでも(たしか)書いてきたように、相手の方の肉体を押したり引っ張ったりしないことはもちろん、エネルギーを送ってみたり、心の中で話しかけてみたり、祈ったりもしませんし、受け手の方の身体状態を無闇に観察してみたり、この骨は動くべきだといった意図も持たないようにします。「入力」というのは、これら一連の「押したり引っ張ったり~」の「相手に対して何かしよう」「相手の身体はこうなるべきだ」といった行動(意思の働き含め)全てですね。つまり、見た目が似ていても、気功やエネルギーワークとはやっていることが異なるわけです。一見何事もおこらなそうな「触れているが刺激を加えないようにしている(でも放ってはおかない)」ことが、受け手の方の身体に必要な働きを引き出す…という独特の方法論がクラニオにはあるためです。何かを治そうとか、何とかしてあげたいといった意志もクラニオのセッション中は障害となります。「可能な限り中立に、ただそこにある」ことがより重要とされます。

前述の表現をもう少し詳しくすると、「自分の姿勢を正しながらリラックスして相手に触れ、相手の中でおきていることを見守りながらも、相手への入力を与えないようにし続ける」とでもなりますかね。つまり、入力を与えないといっても、同じ状態でただ石像のように止まっていればよいというわけでもありません。相手の方を放置しないように、変動していく身体の状態が分かっている必要もありますし、自分の姿勢がぐらぐらすると、相手の方の動きに自分が引っ張られてしまい、セッションが成り立たなくなりかねないので、ちゃんと姿勢を正して座っている必要もあります。

◆実はやることが多い
更に、受け手の方の身体が変化(例えば、固まって動かなくなっていた部位が開いてきた場合など)してきたら、やる側もその変化にあわせた対応をしばしば行います。例えば、やる側が最初と同じ状態のままだと、受け手の方の広がりつつある身体を結果的に締め付けてしまうことがあるので、相手の方の身体が微妙に広がった分(外見に現れない程度ですが)、手を柔らかくしたり意識を引いたりして、外見に現れない範囲でごく微細に間合いを調整するなどです。相手にあわせるといっても、「相手の変化を助長させる」わけでもありません(そういうスキルもあるので、必要だと思ったらやるかもしれませんが)。受け手の方の動きを過不足なく把握し、必要がある時だけ、外見に現れない程度に動く感じです。もちろん、息はしてますし、時計を見たり、たまに深呼吸したり、ちょっと足を動かしたりのくらいの「見える動き」はしています…。これをやる側の人は自分の意識や姿勢が大きく乱れぬ程度にリアルタイムで行っています。
セッションには色々な展開があるので、距離感の調整は必ずやっているわけではありませんが、適切な距離感が分かること自体は快適なクラニオセッションの実施にほとんど必須と思います。どなたでも案外距離感には敏感だったりするものです。

…というわけで、クラニオをやる人は、実は止まっているようでいて、以外に色々な事をしており、受け手の方の変化にも対応しているわけです。これは、知識として分かっていてもなかなか実行は難しいものがあります。意識を広げるなどの対応は外からは全く見えないので、自分で把握するほかなく、十数分同じ姿勢のまま(あまり)動かないことが普通ですので、伝統武術で要求されるほどでないにせよ、しっかりと地に足が付きつつもリラックスした姿勢がある程度できている必要もあります。クラニオの教程の修了に長い時間がかかるのも、この「姿勢」や「相手に入力を与えないようにし続けるための細かな技術」をある程度でも身につけるのに相当な時間がかかるからだと思っています。触れ方だけなら数日の講座でも身につくと思いますが、それはクラニオの「外形」であり、「中身」は先生や先輩のアドバイスや、自分が受けた時の体感なども参考にしつつ、実践にて自得し、何年もかけて深めていかねばならないという事ですね。実に武術稽古的ですね(違うか)。

◆結局謎なわけですが
何故「外部からの入力(刺激)がない(でもひとりぼっちでもない)」が、受け手の方に何らかの恩恵をもたらしうるかは厳密な意味では謎です。ただ、「入力なし」状態での接触を続けることで、より静かな場が構築されると、受け手の方の身体(主に中枢神経系)システムは深いリラックス状態に入り、骨や体液や膜のシステムが身体深層から再構成するといった恩恵もしばしば得られるらしい…という先人たちの発見があった(そして後に続く我々もどうやらそれを感じている)だけです。そして、その「入力しない」かつ「相手の方の変化に適切に対応する」技法の精度を高めていく方向で、クラニオ(バイオダイナミクス)独特のセッション技術は発展してきたのだろうと思っています。ちなみに、念のためいうと、クラニオがそういった働きを起こさせるわけではなく、クラニオ技法はもともと身体が持っている、環境に適応しようとする(あるいは自ずから整おうとする)働きを邪魔しないようにするというだけです。身体の再構成などは身体自身がやっています。

もっとも、そう語ったところで、上記が理屈としては正体不明であることは変わりなく、私としても「「入力しない」こそ絶対の方法論だ!」とか「クラニオは史上最強の万能技術なのだ!」とか言い張る気は全然ありません。実際、ほとんどの身体技法では、様々な「入力」の手段が身体に快適さをもたらす例が多々あり、クラニオ全体を見ても、多少の入力を加えることで問題解決をしようとする方法もあるので、これらの方法論に「正しい答え」はないし、それでいいのだろうと思っています。このように、技法それぞれに独特の身体・生命観が存在する身体ワーク世界においては、「見た目上派手に効くことが正しい」「理屈で説明できれば正しい」わけでもないと思うので、最終的に、どれを自分がやるか、受けるかは、セッションの体感や技法の世界観の好みの問題、あとは縁としかいいようもない気もします。

まあ、今回書いたようなことは「そういうこともあるのかもしれないな。」と受け入れられる余地のある方が受け入れてくださればよいかなとも思っています。「目に見えない」部分が多い技法というのは、クラニオに限らず、謎や分かりづらさがつきまとう部分もありますが、私としては、このクラニオ・バイオダイナミクスの「謎やわかりづらさ」の部分をこそ大切にしていきたいとも思うのでした。

※2013/10 言い回し修正。

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クラニオセミナー6から帰還しました。これで基礎教程は終了だけあって、今回は「ロングタイド(複数ある1次呼吸の種類ひとつ)」に焦点を合わせた、これまでとはひと味違う様々な技法や視点が紹介されましたが、ひとつ驚いたのが、クラニオバイオダイナミクスでも普通の呼吸(いつも書いている「1次呼吸」ではなく、「2次呼吸」にあたる普通の肺呼吸ですね)を用いた技法があったこと。先日この記事でクラニオ技法には呼吸はまるで関係ないと書きましたが、それは真っ赤な嘘だったことが判明したという…。なかなか世の中何が起きるか分からないものです。

やり方は具体的には書きませんが、この技法の概要は、受ける人にある(結構厳密な)タイミングで呼吸してもらうことにより、1次呼吸の「吐く」にあたる動きのリズムと2次呼吸(普通の呼吸)の「吐く」リズムを同期させるというもの。それによって、「点火」と呼ばれる、体内のエネルギーが活性化する状態が起きやすくなるようです。受けた感じをあえて説明すると、体全体が熱くなって、活力が湧いてくる感じとでもいいましょうか。

この「点火」の定義は複数あるようですが、胎内での受精時や心臓が発生した時、実際の誕生時といった人生最初期の重要スタート時点で、次なる活動に備えて肉体(…といっても、それらの機会の大半では生まれてさえいないわけですが…)の活力を高め、しっかり生きていけるように体が自然に起こす反応…が一般的定義のようです。そして、その時に何かの不都合で十分に「点火」ができずに大人になったとしても、このように、しっかり「点火」できるチャンスはあるという事ですね。

しかも、この技法をもちいて、受ける人にわざわざタイミングを測って意図的に呼吸してもらわなくても、どうやら体は(少なくとも健全さが十分な身体は)1次呼吸と2次呼吸を同期させるように自動的に呼吸しているらしく、練習中にも体の賢さを感じさせられました。ただ、「点火」効果があまり足りていなかった場合、意図的にこの技法を行うことで、大いに恩恵を得られる確率は高くなるのだろうと思います。もっとも、この技法は、よほどのことがない限り使うべきでないとのこと。基本的にクラニオ・バイオダイナミクスは、「受ける人の体が自然な形で今やれることを尊重する」技法と思うので、それはもっともです。個人的には仮にその制限がなくても、あまり使わないかもしれないですね。やはり受ける人に色々な動作を要求するのは、シャイでチキンハートな私には、いまいち馴染まないものがあります。

ただ、この技法の紹介によって、クラニオ・バイオダイナミクスのセッションでも、時には「受ける人が適切に参加することで、セッションの質が変わるかも知れない」というひとつの可能性が間接的に示されたようにも思います。受ける人が無闇に自分の状態を観察して緊張してしまったら本末転倒なので、受ける人は基本的に気持ちよく寝ていれば良いと思いますが、受ける人が無理のない程度に何らかの形で参加できたら、セッション前後の変化も実感できるかも知れないし、セッションをより楽しむことはできるかもな、ということは、頭の片隅に入れておこうかと思いました。

<2017追記>
「点火(イグニッションとも言われる)」について、上記のようにやたら能動的に誘導しないと発生しないものなのか!?と、この時は思っていましたが、そもそも、この現象が起きるのは受精時だけの話ではなく、どうやら日々、1次呼吸のタイミングの何回かの中で、自動的に起きているようです。「点火」はおおざっぱに言うと、「ポーテンシー(エネルギー)がフィールドから肉体に具現化・浸透する過程」というのがICSB教程での一応の説明のようです。セッション中、単にポーテンシーが調整のために現れることとも質が異なる印象です。

また、上記のようにわざわざクライアントさんに息を合わせてもらったりしなくても、イグニッションが起こりやすい環境を用意できるセッションの進め方があることも、その後わかりました。そのため、上記の「息を合わせてもらう方法」はさらに使う意味がなくなりましたが、「点火」が手っ取り早くどんな感じなのか体験できる学習教材としては、多少操作的であっても、このような方法が必要になることもあるんでしょうね。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス(クラニオバイオ)」の施術者です。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在一時休止中です(2029年再開予定)。

私のプロフィール的なものはこちら
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