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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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お題を自ら作ることで、だらけがちな己の心を奮い立たせ、何とかクラニオっぽいことを書こうとするシリーズその1です。まずはクラニオセイクラル・バイオダイナミクスにおける「ふれる」について。あくまで、「クラニオセイクラル・バイオダイナミクスで良しとされている触れ方」です。
◆5グラムタッチというのがあるらしいが
クラニオは、その流儀を問わず、一般には相手の方の身体に触れておこなう技法体系でありますからして、「触れ方」はそれなりに重要とされています。この至極大雑把なブログより、かなりちゃんとしていると思われる諸々のクラニオ関連ホームページの説明を読むと「「5グラムタッチ」とも呼ばれる繊細な触れ方をする」と書いてあったりするかもしれません。これは、私が学ぶバイオダイナミクス派だけでなく、バイオダイナミクスよりは手順に能動性をともなうと思われる「クラニオセイクラルセラピー」や「バイオメカニクス」系のクラニオでも同様とされているようです(私はそれらについて十分には知らないので、誤解もあるかもですが)。どっちにしろ、繊細なわけです。
5グラムタッチというのは文字通り、相手に触れた時に、その圧が5グラム程度しかないように、つまり極力相手に圧を加えないように触れる、というような意味です。5グラムというのは、ほとんど触れてるんだか触れてないんだか、というくらいの圧です。試しにはかりに自分の指を載せて、5グラムになるよう触れ方を調整してみると、あまりに手応えがないので驚くと思います。…驚かないかも知れませんが。
◆実はあんまり意識してない?
…と、書いてはみたものの、実のところ、今の私がそんなに接触点圧をグラム単位で細かく気にしているのかというと、実はあまり気にしてません。5グラムタッチという表現も、ここに書こうとして思いだしたくらいです…。私も最初の頃は気にしてましたが、「軽く触れよう」とすると、かえって自分の身体が緊張してしまうのですな。相手に触れている指先だけがもの凄く繊細でも、それを維持するために腕が緊張でプルプルしているようでは、結局は受け手の方に負担を強いることになってしまいます(やってる人の緊張はダイレクトに受け手の方に伝わりますので)。まあ、私も一応、ある程度クラニオをやってきて、軽い触れ方がなんとなく身についているので気にしなくなった、という部分はあるとは思いますが、「姿勢なども含めたトータルとして相手の方に負荷を加えない」というのがより重要なのであって、「5グラム」に無闇にこだわる必要はないとも思います。「相手のかたにあった触れ方」というのができれば一番いいですね。そういう点では私もまだ色々改善の余地があるというものです。
もちろん、相手の頭をボールよろしくがっしり掴むようにしたりとか、適当に触れるのは駄目です。クラニオは頭部などの繊細な部位に触れることがしばしばな上、極めて細かい身体の層に働きかけが及ぶこともあるので、もちろん、触れ方には他のワーク以上に気をつける必要があります。自分の言葉であえてまとめると、クラニオでよろしくない触れ方は、「相手に圧迫感を与える触れ方(+姿勢)」や「相手の皮膚や頭などを引っ張ってるとか、押してるとか、相手の身体に動きの方向性を与える触れ方(+姿勢)」といったほうが良いかも知れません。
◆圧迫感はだめ
このうち、前者の「圧迫感を与える触れ方」は、「5グラム」にも関わる部分ですね。要するに、受ける人にとって、なんか押されているようだとか締め付けられているとか苦しいとかそういう感じがある触れ方はだめってことですね。もちろん、がっしりと掴むように触れればそういうふうに感じますから、5グラムのように軽く触れろというわけです。もっとも、本当に5グラムの圧で触れていても、受け手の方の身体に無闇に意識を向けたり、これまで触れていた手をパッと離した程度でも、受ける側は容易に締め付けられた感じになったり、もの凄く気持ち悪くなったりします。私も受ける役に回った時に何度か体験しております…。
逆に、かなりしっかりと触れていても、触れられて心地よい時もあります。また、受ける人によっても、どう感じるかは大分違います。たとえば、ある人の身体の停滞している部位に触れたりすると、他の大概の人が平気な程度の触れ方でも、かなりの負荷を感じることもありますし(結果的に、ほとんど手を離したような感じで触れたりする)、軽く触れると不安がられる時もあります(そういう時はしっかり触れたりする)。要は、触れ方にはある程度の基準はあるものの、結局は圧の感じ方は受ける相手によりけりなので、いつも5グラムだからいいって訳でもないということですね。…なんかさっきから5グラム否定派みたいな発言を繰り返してますな…。もちろん、触れ方が重要なのは確かなので、慣れていない初心の頃は5グラムを意識して悪戦苦闘してみる過程も必要だろうとも思ってます。また、私自身ももっとセッションが安定してきたら、結局は「5グラム」に戻るということになるのかも知れません。
◆誘導も駄目
後者の、引っ張ったりするというのは、例えば、ベッドに寝ている人の頭上に坐り、両側頭部に両手で触れ、頭頂に向かって軽く引っ張るような意識を持ちつつ触れるとか、そういうのですね。もちろん、そういう方法で効果を出しているワークも色々あると思うので、それ自体が悪いというわけではありません。ただ、クラニオ・バイオダイナミクスは、受け手の方の身体に様々な変化の選択肢を与えるべく、術者が色々な意味において、極力「ニュートラル(中庸)」であることを重視する流儀なので、そういった「方向性のある触れ方」は、相手の方の身体の「自由な変化」を妨げることになり、あんまりよろしくないと見なしています(相手をガイドするような技法もあることはありますが)。受ける人は左に行きたいかも知れないのに、最初から「上方向に行けばいいんじゃね?」とか言って迷わせちゃ駄目って事ですね。
初心の頃は、軽く触れろというので、びびってしまって、触れている部位から手を離し気味に触れてしまいがち(私はもろにそうでした…)ですが、実はそれがかえって受け手の方に「手を離そうとしている(結果的に牽引に近い働きが生じる)」という思わぬ方向性を与えていたりする、というわけですな。途中に出てきた「距離感」や「ニュートラル」についてはもう少し突っ込んで書くこともあるかと思います。
◆余計なことせず、触れるって事です
で、これら「だめな触れ方2つ」を更にまとめると、前者の「圧を加える」は「相手の方の内側に押し込むような意図や働きを加える」、後者の「相手の方の垂直方向に導くように意図や働きを加える」ともいえるかも知れません。要するに、どっちも、受け手の方の身体にとって違和感や妨害になりうる「なんらかの方向性」を与えているから駄目なわけですな。
そう捉えると、さきほどの「「ニュートラル」というクラニオ・バイオダイナミクスの原則に反する触れ方だから駄目」という説明は我ながら的を射ていたようです。逆に言えば、「相手の方の身体に余計な方向性を加えず、ニュートラルであり続けるように触れる」のがオッケーということですね。かっこよくいえば、「相手の方をどうこうしようとせず、ただ触れる」ってところですかね。まあ、それはぼんやり適当に触れるということでもなく、相手の方にフィットしている必要もあり、口で言うほど単純でもないので、「触れ方」は、クラニオ技法として身につける価値が大いにあるって事ですな。
…という感じですね。なんかきれいにまとまりました。よかったよかった。
◆5グラムタッチというのがあるらしいが
クラニオは、その流儀を問わず、一般には相手の方の身体に触れておこなう技法体系でありますからして、「触れ方」はそれなりに重要とされています。この至極大雑把なブログより、かなりちゃんとしていると思われる諸々のクラニオ関連ホームページの説明を読むと「「5グラムタッチ」とも呼ばれる繊細な触れ方をする」と書いてあったりするかもしれません。これは、私が学ぶバイオダイナミクス派だけでなく、バイオダイナミクスよりは手順に能動性をともなうと思われる「クラニオセイクラルセラピー」や「バイオメカニクス」系のクラニオでも同様とされているようです(私はそれらについて十分には知らないので、誤解もあるかもですが)。どっちにしろ、繊細なわけです。
5グラムタッチというのは文字通り、相手に触れた時に、その圧が5グラム程度しかないように、つまり極力相手に圧を加えないように触れる、というような意味です。5グラムというのは、ほとんど触れてるんだか触れてないんだか、というくらいの圧です。試しにはかりに自分の指を載せて、5グラムになるよう触れ方を調整してみると、あまりに手応えがないので驚くと思います。…驚かないかも知れませんが。
◆実はあんまり意識してない?
…と、書いてはみたものの、実のところ、今の私がそんなに接触点圧をグラム単位で細かく気にしているのかというと、実はあまり気にしてません。5グラムタッチという表現も、ここに書こうとして思いだしたくらいです…。私も最初の頃は気にしてましたが、「軽く触れよう」とすると、かえって自分の身体が緊張してしまうのですな。相手に触れている指先だけがもの凄く繊細でも、それを維持するために腕が緊張でプルプルしているようでは、結局は受け手の方に負担を強いることになってしまいます(やってる人の緊張はダイレクトに受け手の方に伝わりますので)。まあ、私も一応、ある程度クラニオをやってきて、軽い触れ方がなんとなく身についているので気にしなくなった、という部分はあるとは思いますが、「姿勢なども含めたトータルとして相手の方に負荷を加えない」というのがより重要なのであって、「5グラム」に無闇にこだわる必要はないとも思います。「相手のかたにあった触れ方」というのができれば一番いいですね。そういう点では私もまだ色々改善の余地があるというものです。
もちろん、相手の頭をボールよろしくがっしり掴むようにしたりとか、適当に触れるのは駄目です。クラニオは頭部などの繊細な部位に触れることがしばしばな上、極めて細かい身体の層に働きかけが及ぶこともあるので、もちろん、触れ方には他のワーク以上に気をつける必要があります。自分の言葉であえてまとめると、クラニオでよろしくない触れ方は、「相手に圧迫感を与える触れ方(+姿勢)」や「相手の皮膚や頭などを引っ張ってるとか、押してるとか、相手の身体に動きの方向性を与える触れ方(+姿勢)」といったほうが良いかも知れません。
◆圧迫感はだめ
このうち、前者の「圧迫感を与える触れ方」は、「5グラム」にも関わる部分ですね。要するに、受ける人にとって、なんか押されているようだとか締め付けられているとか苦しいとかそういう感じがある触れ方はだめってことですね。もちろん、がっしりと掴むように触れればそういうふうに感じますから、5グラムのように軽く触れろというわけです。もっとも、本当に5グラムの圧で触れていても、受け手の方の身体に無闇に意識を向けたり、これまで触れていた手をパッと離した程度でも、受ける側は容易に締め付けられた感じになったり、もの凄く気持ち悪くなったりします。私も受ける役に回った時に何度か体験しております…。
逆に、かなりしっかりと触れていても、触れられて心地よい時もあります。また、受ける人によっても、どう感じるかは大分違います。たとえば、ある人の身体の停滞している部位に触れたりすると、他の大概の人が平気な程度の触れ方でも、かなりの負荷を感じることもありますし(結果的に、ほとんど手を離したような感じで触れたりする)、軽く触れると不安がられる時もあります(そういう時はしっかり触れたりする)。要は、触れ方にはある程度の基準はあるものの、結局は圧の感じ方は受ける相手によりけりなので、いつも5グラムだからいいって訳でもないということですね。…なんかさっきから5グラム否定派みたいな発言を繰り返してますな…。もちろん、触れ方が重要なのは確かなので、慣れていない初心の頃は5グラムを意識して悪戦苦闘してみる過程も必要だろうとも思ってます。また、私自身ももっとセッションが安定してきたら、結局は「5グラム」に戻るということになるのかも知れません。
◆誘導も駄目
後者の、引っ張ったりするというのは、例えば、ベッドに寝ている人の頭上に坐り、両側頭部に両手で触れ、頭頂に向かって軽く引っ張るような意識を持ちつつ触れるとか、そういうのですね。もちろん、そういう方法で効果を出しているワークも色々あると思うので、それ自体が悪いというわけではありません。ただ、クラニオ・バイオダイナミクスは、受け手の方の身体に様々な変化の選択肢を与えるべく、術者が色々な意味において、極力「ニュートラル(中庸)」であることを重視する流儀なので、そういった「方向性のある触れ方」は、相手の方の身体の「自由な変化」を妨げることになり、あんまりよろしくないと見なしています(相手をガイドするような技法もあることはありますが)。受ける人は左に行きたいかも知れないのに、最初から「上方向に行けばいいんじゃね?」とか言って迷わせちゃ駄目って事ですね。
初心の頃は、軽く触れろというので、びびってしまって、触れている部位から手を離し気味に触れてしまいがち(私はもろにそうでした…)ですが、実はそれがかえって受け手の方に「手を離そうとしている(結果的に牽引に近い働きが生じる)」という思わぬ方向性を与えていたりする、というわけですな。途中に出てきた「距離感」や「ニュートラル」についてはもう少し突っ込んで書くこともあるかと思います。
◆余計なことせず、触れるって事です
で、これら「だめな触れ方2つ」を更にまとめると、前者の「圧を加える」は「相手の方の内側に押し込むような意図や働きを加える」、後者の「相手の方の垂直方向に導くように意図や働きを加える」ともいえるかも知れません。要するに、どっちも、受け手の方の身体にとって違和感や妨害になりうる「なんらかの方向性」を与えているから駄目なわけですな。
そう捉えると、さきほどの「「ニュートラル」というクラニオ・バイオダイナミクスの原則に反する触れ方だから駄目」という説明は我ながら的を射ていたようです。逆に言えば、「相手の方の身体に余計な方向性を加えず、ニュートラルであり続けるように触れる」のがオッケーということですね。かっこよくいえば、「相手の方をどうこうしようとせず、ただ触れる」ってところですかね。まあ、それはぼんやり適当に触れるということでもなく、相手の方にフィットしている必要もあり、口で言うほど単純でもないので、「触れ方」は、クラニオ技法として身につける価値が大いにあるって事ですな。
…という感じですね。なんかきれいにまとまりました。よかったよかった。
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身体に関するワークにしろ、武術の稽古にしろ、「自分の心身にとっての基準点」を、色々な形で身体に理解させる面があるのかなと、最近何となく思っています。ここでいう基準点というのは、自分にとっての心身の中心がどの辺にあるかが分かる「なんかの基準」です。捉え方も、種類も多分非常に色々ありますので、かなり大雑把な表現をしてます。
身体の状態にしろ、思想にしろ、感情などにしろ(個人的にはこれら全て身体の状態と繋がりがあると思っていますが)、ふとしたきっかけで、誰しも、いつの間にか妙な方向に向かったり、行き過ぎちゃうことがあるかもしれない。私もそうです。いつまでも同じ事を根に持っていたとか、自分の身体の左右の動作に凄いぶれがあったとか…(別にそれらが悪いって意図ではないです)。
そういった時に「基準点」を身体が覚えていれば、なにかで行き過ぎてしまっても「おお、いかんいかん」と、割とすぐに、無理のない状態に戻りやすくなるかもしれない、と思うわけです。特に何もしなくても、人は中立的な状態に戻る力をある程度持っていると思いますが、そういった基準点が稽古やワークを通じてより明確になっていけば、「中心に戻ってきたつもりが思いきり明後日の方向にいた」といった状況も減って、楽に過ごしやすいんじゃないかなと。クラニオの役割もそういった「戻る場所」を受けた人の身体に考えさせる部分が大きいのかもしれない。
武術の型やそれに類する質の高い鍛錬法などは、「基準」としてのはたらきが分かりやすいかもしれない。それらの形は変わらないから、適切に取り組むことで、現在の自分の姿勢や動作にどの程度癖があるか、今日の自分の状態はどんな風になっているかを把握することもできるのではと思います。同時に、それらをやっているうちに、型をやっていない時でも、自分の身体の基準点が前よりはっきりわかるようになってきて(例えば、正中線や重心の落ち具合、呼吸の状態、意識の場所など、色々あると思います)、自分の身体のぶれ、ひいては、自分全体のぶれが小さくなっていく、ということもあると思います。まあ、漫然とやっていると分からないかも知れないので、丁寧に取り組む必要はあると思いますが。
クラニオの場合は、受け手の方にセッション中に触れてもらう「1次呼吸のリズム」や「ニュートラルな身体状態(身体が尋常でなく落ち着いた状態とでも思えばいいです)」といったものが「基準」になりますかね。それらの普段あまり接しない基準点を理解した上で、受け手の方の身体に、どう変わっていけばいいか、どの方向に行けばいいかを選んでもらう、というところですかね。相変わらず抽象的ですが…。
そう考えると、相手の方に働きかける能動的なワークは「基準点にいる状態」をいきなり体験させて、身体にヒントを与えるような物、クラニオのような受動的なワークは「ある基準点の位置を示して、そこまで歩いてもらおうとするもの」などともいえるかもしれないですね。他にも色々な区分があると思います。ただ、おそらく、この「基準点」というのは、分野ごとに内実も違うだろうし、同じ事やっても人それぞれで結構違うだろうけども、勝手な想像で「作り出す」ものではなく、もともと自分の内に秘められており、それを「探し出す」性質を持つという点では、ほとんどの分野で共通なんじゃないかなとも思っています。
なお、クラニオをやる人の「基準点」は「プラクティショナーニュートラル」という言葉で表現されることがあり(他にもクラニオでいう「ニュートラル」には、いくつかの種類があります)、それが今作成中の私のクラニオ論文テーマであったりするのですが、最近はそういった「基準点」について考えさせられているわけでした。
身体の状態にしろ、思想にしろ、感情などにしろ(個人的にはこれら全て身体の状態と繋がりがあると思っていますが)、ふとしたきっかけで、誰しも、いつの間にか妙な方向に向かったり、行き過ぎちゃうことがあるかもしれない。私もそうです。いつまでも同じ事を根に持っていたとか、自分の身体の左右の動作に凄いぶれがあったとか…(別にそれらが悪いって意図ではないです)。
そういった時に「基準点」を身体が覚えていれば、なにかで行き過ぎてしまっても「おお、いかんいかん」と、割とすぐに、無理のない状態に戻りやすくなるかもしれない、と思うわけです。特に何もしなくても、人は中立的な状態に戻る力をある程度持っていると思いますが、そういった基準点が稽古やワークを通じてより明確になっていけば、「中心に戻ってきたつもりが思いきり明後日の方向にいた」といった状況も減って、楽に過ごしやすいんじゃないかなと。クラニオの役割もそういった「戻る場所」を受けた人の身体に考えさせる部分が大きいのかもしれない。
武術の型やそれに類する質の高い鍛錬法などは、「基準」としてのはたらきが分かりやすいかもしれない。それらの形は変わらないから、適切に取り組むことで、現在の自分の姿勢や動作にどの程度癖があるか、今日の自分の状態はどんな風になっているかを把握することもできるのではと思います。同時に、それらをやっているうちに、型をやっていない時でも、自分の身体の基準点が前よりはっきりわかるようになってきて(例えば、正中線や重心の落ち具合、呼吸の状態、意識の場所など、色々あると思います)、自分の身体のぶれ、ひいては、自分全体のぶれが小さくなっていく、ということもあると思います。まあ、漫然とやっていると分からないかも知れないので、丁寧に取り組む必要はあると思いますが。
クラニオの場合は、受け手の方にセッション中に触れてもらう「1次呼吸のリズム」や「ニュートラルな身体状態(身体が尋常でなく落ち着いた状態とでも思えばいいです)」といったものが「基準」になりますかね。それらの普段あまり接しない基準点を理解した上で、受け手の方の身体に、どう変わっていけばいいか、どの方向に行けばいいかを選んでもらう、というところですかね。相変わらず抽象的ですが…。
そう考えると、相手の方に働きかける能動的なワークは「基準点にいる状態」をいきなり体験させて、身体にヒントを与えるような物、クラニオのような受動的なワークは「ある基準点の位置を示して、そこまで歩いてもらおうとするもの」などともいえるかもしれないですね。他にも色々な区分があると思います。ただ、おそらく、この「基準点」というのは、分野ごとに内実も違うだろうし、同じ事やっても人それぞれで結構違うだろうけども、勝手な想像で「作り出す」ものではなく、もともと自分の内に秘められており、それを「探し出す」性質を持つという点では、ほとんどの分野で共通なんじゃないかなとも思っています。
なお、クラニオをやる人の「基準点」は「プラクティショナーニュートラル」という言葉で表現されることがあり(他にもクラニオでいう「ニュートラル」には、いくつかの種類があります)、それが今作成中の私のクラニオ論文テーマであったりするのですが、最近はそういった「基準点」について考えさせられているわけでした。
あけましておめでとうございます。
クラニオ・バイオダイナミクス絡みの身体感覚系ブログということで、多分内容はたびたび迷走しますが、今年もおおよそ週1ペースくらいで地道に続けていこうと思います…。
今年の抱負というか目標は、今学んでいるクラニオ・バイオダイナミクスと中国武術稽古の質を着実に高めていくことでしょうかね。土台固めといいますか。たびたび書くように、私はこれまで随分色々な体系をうろうろしてきたので、いまひとつ「これが専門」というものがなく、根無し草感が強かったのですが、この2つには、大変地味なれど、伝えられるべき大きな可能性があるように感じられつつあるので、長い目で見てじっくり取り組んでいきたいと思います。放浪の果てにようやく自分の基盤になりそうな体系を見出したというところですかね。私生活面は具体的には書かないですが、「しばしば働きすぎな頭(煩悩)を黙らせ」つつ、「私生活の土台も少しずつ強固に」あたりをキーワードにしていこうかと思っています。
もっとも、クラニオは今年の論文提出でようやく1人前扱いになれる予定、中国武術は習い始めて1年しか経ってないので、焦らず、やれるところから着実に前進と行きたいものです。まだ、大いに広めるといったことを考える段階ではないでしょうが、いつか立つその時に備えて力を蓄える方向で…。あとは、これまで同様、他の技法を学ぶ方々との交流の場を大切にし、自身が学ぶ体系を、その理念や原理原則を壊さないようにしつつも、同時に自分の技法として手足の如く使いこなせるよう、ヒントを得ていきたいものとも思います。流儀や伝統の尊重は必然ですが、同時に、どこにいても学びの主人公として責任を負うのはおのれ自身。また、自流以外のあらゆる技法に相応の力と価値が宿っているとも思うので、偏りのない広い視野を心がけたいものとも思います。本年もよろしくお願いします。
クラニオ・バイオダイナミクス絡みの身体感覚系ブログということで、多分内容はたびたび迷走しますが、今年もおおよそ週1ペースくらいで地道に続けていこうと思います…。
今年の抱負というか目標は、今学んでいるクラニオ・バイオダイナミクスと中国武術稽古の質を着実に高めていくことでしょうかね。土台固めといいますか。たびたび書くように、私はこれまで随分色々な体系をうろうろしてきたので、いまひとつ「これが専門」というものがなく、根無し草感が強かったのですが、この2つには、大変地味なれど、伝えられるべき大きな可能性があるように感じられつつあるので、長い目で見てじっくり取り組んでいきたいと思います。放浪の果てにようやく自分の基盤になりそうな体系を見出したというところですかね。私生活面は具体的には書かないですが、「しばしば働きすぎな頭(煩悩)を黙らせ」つつ、「私生活の土台も少しずつ強固に」あたりをキーワードにしていこうかと思っています。
もっとも、クラニオは今年の論文提出でようやく1人前扱いになれる予定、中国武術は習い始めて1年しか経ってないので、焦らず、やれるところから着実に前進と行きたいものです。まだ、大いに広めるといったことを考える段階ではないでしょうが、いつか立つその時に備えて力を蓄える方向で…。あとは、これまで同様、他の技法を学ぶ方々との交流の場を大切にし、自身が学ぶ体系を、その理念や原理原則を壊さないようにしつつも、同時に自分の技法として手足の如く使いこなせるよう、ヒントを得ていきたいものとも思います。流儀や伝統の尊重は必然ですが、同時に、どこにいても学びの主人公として責任を負うのはおのれ自身。また、自流以外のあらゆる技法に相応の力と価値が宿っているとも思うので、偏りのない広い視野を心がけたいものとも思います。本年もよろしくお願いします。
クリスマスも終わり、2010年ももう終盤ですね。私には色々あったようななかったような1年でした。私の身体に関する学び関連では、クラニオと中国武術に特化した1年だったという印象です。
◆私の2010年(身体部門だけ)
数年続けてきたクラニオの基礎講座は、今年で講座部分は一通り終了、中国武術の教室には昨年12月に訪問、今年1月から本格的に行き始めた状態で、それぞれ転機を象徴するような動きだったかなと思っています。それまでの私は(クラニオ以外は)色々な身体関連の講座に首を突っ込んで…と繰り返しているところがあり、どうも落ち着きなかったですが、今年は大分落ち着いた感じがありました。まあ、それでも武術は他流派の講座に数回行きましたが、それでも大分減ったということで…。
◆クラニオ部門
クラニオ、武術領域で今年印象に残ったことを簡単にまとめてみると、クラニオに関しては、「待つ」「任せる」ことの重要性をより学んだというところでしょうか。クラニオ・バイオダイナミクスは、ここまで書いてきたように、身体はみずから環境に適応し、自らを調整する働きを常に発揮しており(人が不死身でないことから分かるように、やれる範囲には限界もありますが)、極力その「身体の内なる働き」に任せることを重視するため、クラニオでは「触れる」「そこに静かにいる」以外の能動的な行為(意識やエネルギーを送るなど)はしないわけです。ただ、これを適切に行うには、静かにしていると湧いてくる自分の煩悩や不安をどう扱うか、といった点に色々な壁があり、昨年の私なら、つい身体の変化の様子が気になってむやみに観察してみたり(それは相手に緊張をもたらし、受け手の人の身体が行うことを阻害しかねない)、自分自身の姿勢が気になって、自分が緊張してみたり(そして、その緊張は容易に受け手に伝わる)しがちでした。
今年は講座や日々の実践を通じて、そこから多少進み、「相手の方の身体の働きを信頼し、自身の身体と、自然に伝わってくる相手の身体の情報を受け取りながらひたすら待つ」という態度が少し理解できてきた気がします。まるで科学的ではないですが、クラニオ・バイオダイナミクスというのはそういうものであり、それで確かになにかが起きていく(…ように感じる)ので、私としては、来年も「無理なくそこにいる」ことの質をただ深めていこうと思っております。
◆武術部門
武術に関して印象に残ったこととしては、型の重要性が身体で理解できた点でしょうか。これまでの私は、本格的にどこかの教室に定期的に通って型を本格的に学んだことがなかったので、書籍などで型の重要性は認識していたつもりでしたが、要は内部感覚でカバーできればいいんだろうと思っていたところがありました。しかし、実際に型に取り組んでみると、先生が良しとする要件が守られた型・形には、独特の動的な働き(エネルギーやいわゆる気ではなく)が確かにおのずから生じることが認識でき、外形が似ていることと、手渡しの形はまったく違うのだということが良く分かりました。
あとは、同じ型を繰り返していると、ある場所で妙に引っかかったり、しんどかったりするので、自分の姿勢や動きの癖がより分かりやすい気もします。型は変わらないが故に、自分を測るものさしのようなものでもあるんでしょうね。内部感覚を研ぎ澄ます中で、必然的に姿勢が整う方法もあると思うので、「型がないと駄目」とは思いませんが、確かに、「形から入らないと分かりがたいこともある」というのは非常に印象に残りました。
◆
…とまあ、少々抽象的ですが、こんな感じでしょうか。このブログも、クラニオ関連のみではネタが尽きてしまいがちなのと、私自身はクラニオを知ってはもらいたいが、ど派手に宣伝したいわけでもないのとで、どうなるやらという感じではありますが、来年もクラニオ・バイオダイナミクスの存在そのものの如く、細々と地味に続けていきたく思います。また、コメントを頂いた方々、ありがとうございました。拍手機能コメントには返信できないようなので、この場にて御礼申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。
◆私の2010年(身体部門だけ)
数年続けてきたクラニオの基礎講座は、今年で講座部分は一通り終了、中国武術の教室には昨年12月に訪問、今年1月から本格的に行き始めた状態で、それぞれ転機を象徴するような動きだったかなと思っています。それまでの私は(クラニオ以外は)色々な身体関連の講座に首を突っ込んで…と繰り返しているところがあり、どうも落ち着きなかったですが、今年は大分落ち着いた感じがありました。まあ、それでも武術は他流派の講座に数回行きましたが、それでも大分減ったということで…。
◆クラニオ部門
クラニオ、武術領域で今年印象に残ったことを簡単にまとめてみると、クラニオに関しては、「待つ」「任せる」ことの重要性をより学んだというところでしょうか。クラニオ・バイオダイナミクスは、ここまで書いてきたように、身体はみずから環境に適応し、自らを調整する働きを常に発揮しており(人が不死身でないことから分かるように、やれる範囲には限界もありますが)、極力その「身体の内なる働き」に任せることを重視するため、クラニオでは「触れる」「そこに静かにいる」以外の能動的な行為(意識やエネルギーを送るなど)はしないわけです。ただ、これを適切に行うには、静かにしていると湧いてくる自分の煩悩や不安をどう扱うか、といった点に色々な壁があり、昨年の私なら、つい身体の変化の様子が気になってむやみに観察してみたり(それは相手に緊張をもたらし、受け手の人の身体が行うことを阻害しかねない)、自分自身の姿勢が気になって、自分が緊張してみたり(そして、その緊張は容易に受け手に伝わる)しがちでした。
今年は講座や日々の実践を通じて、そこから多少進み、「相手の方の身体の働きを信頼し、自身の身体と、自然に伝わってくる相手の身体の情報を受け取りながらひたすら待つ」という態度が少し理解できてきた気がします。まるで科学的ではないですが、クラニオ・バイオダイナミクスというのはそういうものであり、それで確かになにかが起きていく(…ように感じる)ので、私としては、来年も「無理なくそこにいる」ことの質をただ深めていこうと思っております。
◆武術部門
武術に関して印象に残ったこととしては、型の重要性が身体で理解できた点でしょうか。これまでの私は、本格的にどこかの教室に定期的に通って型を本格的に学んだことがなかったので、書籍などで型の重要性は認識していたつもりでしたが、要は内部感覚でカバーできればいいんだろうと思っていたところがありました。しかし、実際に型に取り組んでみると、先生が良しとする要件が守られた型・形には、独特の動的な働き(エネルギーやいわゆる気ではなく)が確かにおのずから生じることが認識でき、外形が似ていることと、手渡しの形はまったく違うのだということが良く分かりました。
あとは、同じ型を繰り返していると、ある場所で妙に引っかかったり、しんどかったりするので、自分の姿勢や動きの癖がより分かりやすい気もします。型は変わらないが故に、自分を測るものさしのようなものでもあるんでしょうね。内部感覚を研ぎ澄ます中で、必然的に姿勢が整う方法もあると思うので、「型がないと駄目」とは思いませんが、確かに、「形から入らないと分かりがたいこともある」というのは非常に印象に残りました。
◆
…とまあ、少々抽象的ですが、こんな感じでしょうか。このブログも、クラニオ関連のみではネタが尽きてしまいがちなのと、私自身はクラニオを知ってはもらいたいが、ど派手に宣伝したいわけでもないのとで、どうなるやらという感じではありますが、来年もクラニオ・バイオダイナミクスの存在そのものの如く、細々と地味に続けていきたく思います。また、コメントを頂いた方々、ありがとうございました。拍手機能コメントには返信できないようなので、この場にて御礼申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。
いくつか前の記事で書いたとおり、猫のいるお宅にセッションにうかがったとき、セッション中のいいタイミングに、その猫がベッドに登ってきた、ということがありました。そして先日、再びそのお宅を訪問したところ、その猫は最初からベッドの隅の方に待機していました。飼い主の方によると、私がその家を訪問する1分くらい前に突然ベッドに飛び乗ったとのこと。賢い猫です。動物は遠くからでも、個別の人の気配も分かるのでしょうね。思うに、野生動物が敵の姿を見た後でしか動くしかできなかったら危険なんか避けられないでしょうし、人間だって背後の攻撃の気配くらいは普通に分かるわけですから、動物が敏感なのはまあ、当たり前でしょうね。
今回、この猫は私がセッションをしている間中、ベッドの端でおとなしく座ったり、寝たりしており、セッション終了後は満足したようにベッドから降りていきました。原因はあいかわらず不明です。クラニオによって創られる場みたいなものがやっぱり気に入っているんだろうな、と思うのみです。他に気になる点としては、この猫は、クラニオが始まると、しばしばしきりに臭いをかいでいることがあります。クラニオセッションが始まると何か空気の臭いが変わるんでしょうか。クラニオは通常、およそ臭いとほど遠い技術ですが、セッションにより特別な臭いが立ち上るというよりは、猫はセッションの進行による何がしかの変化を鼻で感じようとしているのかも知れないとも思います。この体験ではほのぼのしたというくらいで、何が分かったということもなく、特にオチもないですが、まあ、こんな都会でも動物の野生(?)のようなものに触れていると嬉しいですね。
ちなみに動物といえば、前のwith猫セッション記事を書いた後、クラニオをやっている知人に、飼い犬にセッションをしたという話を聞くことができました。それによると、犬は受けるまでは抵抗を示していたものの、無理やりつかまえてやってしまった(?)ところ、眠り始めたそうです。もっとも、無理やりつかまえてやったのがまずかったのか、それ以降はやらせてくれなかったようです。クラニオをやっている別の方は、最初は飼い犬はクラニオをあまり好まなかったが、老犬になった最近は、かなりリラックスして眠りつつ受けているようだ、とのことでした。とりあえず、受けてさえくれれば、動物にも実感はあるみたいですね。まあ、私が10匹くらいの猫の前でクラニオをやったとして、10匹全てが寄ってくるわけでもあるまいし、結局は動物にも、ワーク自体や、それをやる人の好みがあるんでしょうね。
今回、この猫は私がセッションをしている間中、ベッドの端でおとなしく座ったり、寝たりしており、セッション終了後は満足したようにベッドから降りていきました。原因はあいかわらず不明です。クラニオによって創られる場みたいなものがやっぱり気に入っているんだろうな、と思うのみです。他に気になる点としては、この猫は、クラニオが始まると、しばしばしきりに臭いをかいでいることがあります。クラニオセッションが始まると何か空気の臭いが変わるんでしょうか。クラニオは通常、およそ臭いとほど遠い技術ですが、セッションにより特別な臭いが立ち上るというよりは、猫はセッションの進行による何がしかの変化を鼻で感じようとしているのかも知れないとも思います。この体験ではほのぼのしたというくらいで、何が分かったということもなく、特にオチもないですが、まあ、こんな都会でも動物の野生(?)のようなものに触れていると嬉しいですね。
ちなみに動物といえば、前のwith猫セッション記事を書いた後、クラニオをやっている知人に、飼い犬にセッションをしたという話を聞くことができました。それによると、犬は受けるまでは抵抗を示していたものの、無理やりつかまえてやってしまった(?)ところ、眠り始めたそうです。もっとも、無理やりつかまえてやったのがまずかったのか、それ以降はやらせてくれなかったようです。クラニオをやっている別の方は、最初は飼い犬はクラニオをあまり好まなかったが、老犬になった最近は、かなりリラックスして眠りつつ受けているようだ、とのことでした。とりあえず、受けてさえくれれば、動物にも実感はあるみたいですね。まあ、私が10匹くらいの猫の前でクラニオをやったとして、10匹全てが寄ってくるわけでもあるまいし、結局は動物にも、ワーク自体や、それをやる人の好みがあるんでしょうね。
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HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
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