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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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久々に投稿したかと思えば、またもクラニオとは直接関係ない内容です。今回は「平均化訓練」という本を読んで感動を覚えたので、その雑感です。
なお、私は「平均化訓練」は数年前に1度講座で体験した程度で、勘違いや底の浅い理解をしている可能性は多々あるため、以下の内容はあくまで部外者の個人的感想&解釈と考えてもらえればと思います。


平均化訓練の書籍や活動について詳しく知りたい方は以下を参照ください。平均化訓練は個人的には大変興味深い体験だったので、本を読んで興味がわいた方は公式サイトの講習会情報を参考に体験してみるのもおすすめです。


・書籍「平均化訓練」出版社サイト → http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-71412-6/
・平均化訓練 公式サイト → http://heikinka-kunren.com/


■平均化訓練
「平均化訓練」は「野口整体」の創始者として有名な野口晴哉先生の孫にあたる野口晴胤先生が開発した体操法で、私の理解で非常に大雑把に言うと、身体の中で普段使われていない筋肉をいくつかの型や相互運動から成る独自の体操のなかで見出し、その使われていない筋肉が使えるよう(力が入れられるよう)学習するものです。


人は日常生活でも意識的な運動でも、無意識のうちに優先的に使う筋肉があり、結果、その部位に疲労が集中的に蓄積。それによって定期的に同じようなパターンの心身の偏り・不調が発生しがちなため、平均化訓練の中で普段使われていない筋肉を意識し、さらに日常で働かせることで偏りの少ない心身のあり方をめざすことが主な意義の1つ…だと思います。


■自分の「平均化訓練」の体験から
ちなみに、本書にもあるように、「普段使われていない筋肉の発見」と言っても、普段右手より左手を使ってないので左手で物を持ちましょうといった大雑把な区分けではなく、かなり細かいというか、自力では早々気づきそうもない、奇妙なエリアが訓練の中で見出されるようです。また、人によってその箇所は全く違うようです。


私が過去に体験したときも、体操で導かれる中で「右足親指から足裏~背中中央を通って左肩付近まで伸びるライン」が「使われていない筋肉」として現れ、何故こんな妙な箇所が…と不思議に思った覚えがあります。しかし、実際にそこに力を入れることは確かに難しく、一方でそこに力を入れようとしながら過ごしていると、普段と違う疲れ方をしつつも、それだけで比較的姿勢が安定する感覚がありました。

また、その「弱い筋が表れた時の格好」が当時、自分が中国武術の対人練習の中でよく崩されるときの格好と似ていたこともあり、押されても踏ん張りがききにくい要因になっている箇所…とでも言うべき、「普段使われていない弱い筋肉」の存在にかなり納得したのを覚えています。


当時はどうやって、この格好に導かれたのか良く分からず、リードには熟練の技が必要なのかと思っていましたが、今回、本書を読んで何となくやり方の理屈が理解でき、ここ数年来の小さな疑問が少し氷解しました。


■伝統武術の型稽古と平均化
習っている者として少々ひいき目な見解もあるかと思いますが、この本の中で、著者も伝統芸能や武術の型稽古の意義に少し触れていたように、私が習っている中国伝統武術の型稽古の中にも(おそらく世界各国の伝統武術の中にも)平均化訓練的な要素があるのでは、という感想も改めて持ちました。


私自身、習い始めの頃は非常にやりづらかった姿勢や動作が、自分の身体の状態を十分意識して動いたり、先生に細かい部分まで直してもらう中で少しずつ癖が改善されたり、整ってくる…という過程を体験してきましたが、これは武術稽古(主に型稽古)の攻防技術習得以外の恩恵と思うところです。特に格闘的に強いわけでもない私の場合は、メインの恩恵と言えるかもしれません(笑)。即効性はないとしても、年単位で見ると、そういえば最近は前より重心がすっきり落ちていい姿勢になったな、と稽古仲間を見て思う瞬間もあります。


なお、この恩恵は雑に稽古しているとおそらく十分な獲得が難しいと思われます。本文でもあったように、身体の筋肉の使い方の癖は個人ごとの無意識のもので、同道の熟練者からの指摘や平均化訓練での自覚といった何らかのきっかけがない限り、本人の意識には全く上らないので、自力のみでの発見・改善は困難だと思います。
よって、映像だけ見て自己流で練習したり、そうでなくても稽古中の自分の姿勢や動作の違和感に意識を向けず惰性で稽古していると、自分の生来の(無意識的な)認識や身体の使い方の癖まで切り込むことができず、普段よく使う筋肉を用いたやりやすい運動ばかりしてしまい、結果「筋肉の使い方の偏りが強化される」という、むしろマイナスの結果が生じてしまう可能性もあるかと思います。


一方、型稽古による自分の身体や動作の変化に向き合いつつ、ある程度丁寧に稽古した場合、伝統武術の型はあまり現代の日常動作になさそうな動きも多く、中国武術の場合はバリエーションも豊かなので、結果、普段意識されない全身の様々な筋肉を使う機会があると思われます。
また、先生の手を取っての指導といったガイドにより、自力では正確に実現しがたい姿勢(決してアクロバティックな姿勢ではないが、何故か非常にやりにくいものがあったりします)を体験・意識したり、その姿勢をキープしたまま動こうとする練習もあるので、稽古の中で弱い筋も少しずつですが鍛えられているのではと思っています。


実際、前述の平均化訓練体験で見出された、当時私が「中国武術の対人練習の中でよく崩された姿勢」では最近は崩れた覚えがないので(そういった姿勢と関係なく上手な方には良く崩されますが…)、当時の平均化訓練の体験やその後の稽古の中で、当時意識された弱い筋も多少は鍛えられたのでは、と思っています。


このように、武術などの型稽古によって自然と「平均化」される部分もあると思いますが、本書の、平均化訓練で弱い部位を意識したことでテニス選手のフォームが良くなった例に見られるように、平均化訓練で自分の弱い部位をあらかじめ知っておくと、通常の型稽古の恩恵にさらにプラスして効率的に稽古できる可能性はありそうです。


■興味深かった言葉1:喧嘩も同調の1つの形
本書には平均化訓練の概要だけでなく、示唆に富む言葉も多くありました。個人的には「喧嘩も同調の1つの形」「ある部位の緊張を取るために、使われていない他の部位を緊張させる」という言葉、考えに特にハッとさせられるものがありました。


まず「喧嘩も同調の1つの形」ですが、そもそも、このブログで扱っている(はずの)クラニオ・バイオダイナミクスもクライアントとの(結果的)「同調」が非常に重要なワーク体系といって良いと思います。ただ、その分、私は同調という概念に親しみや重要性を感じつつ、同時に静けさを伴う状態の共有など、ポジティブな意味として無意識に使ってきたので、「マイナス方向の同調」という言葉には新鮮さを感じました。


考えてみればもっともな話で、例えば、怒りを覚えている人のそばに行けば、平常心のまま近寄った人も心(と身体)がざわつくと思います。そして、実際は自分由来でないその感情に乗ってしまい、自分も怒りの中に巻き込まれることはまさに相手と同じ「怒りの身体感覚」を共有している点において「同調」であり、大概の喧嘩も両者が同じ負の感覚を共有した上で「関わりあう」「交流する」形として発生するものと言えそうです。


私自身、中国武術の対人練習の時も、相手の心理状態が少し攻撃的になったと思われる瞬間を機に(本来はこちらがそれにあおられて緊張せず、柔らかさをキープして対処すべきところ)喧嘩のような険悪さはないですが、力のぶつかり合いに近い状態になってしまうことがあります。これも軽度のマイナスの同調、と言えるかもしれません。


クラニオに結びつけて考えるなら、相手との「マイナスの同調状態」に巻き込まれつつあるとき、そこに引き込まれずにプラクティショナーニュートラルを保って同調状態から一度外れたり、静けさ等のリソースにつながり直すことで「マイナスの同調状態」をプラスに転換する努力をする(ニュートラルなのでプラスというよりゼロかもしれませんが)ことがポイントとなる…とも言えるかもしれません。


■興味深かった言葉2:緊張を取るために、使われていない他の部位を緊張させる
「緊張を取るために、使われていない他の部位を緊張させる(ことで緊張が軽減)」は、無理に緊張している部位を緩めようとするのでなく、ふだん使っていない筋肉を緊張させることで結果的に身体全体が整い、当初あった部位の緊張が軽減する…といった関係性を表すものと解釈しています。


これも一見「逆転の発想」のようでいて、かなり納得感のある言葉です。確かに緊張している箇所の力を意識して抜こうと思っても早々抜けるものではないし、私も普段の型稽古の中で少し似たことを体験している気がします。


例えば、私が学ぶ中国武術にある静かに立ち続ける稽古では、「脱力」は部分的に少し意識することはあるものの、どちらかというと、意識して体の各部を張り伸ばす、拮抗を作る等を意識する比率の方が高い気がしており、そんなにゆるゆるしていません。むしろキツイです(特に足腰が…)。
しかしやっていると、仕事疲れ等で生じていた身体全体の細かな緊張が軽減してスッキリする感じがします。身体全体の構えを意識によって整える中で結果的に(主に上体の)無駄な緊張が抜けやすくなる…という感じですが、これは先の言葉とどことなく共通点を感じます。


また、これもクラニオセッションに結び付けて考えると、相手のある部位の緊張状態を取ろうとしてその箇所に触れるのでなく、「1次呼吸システムのサポートが出来そうな部位」に触れてワークを続けることで結果的に全体の緊張が軽減…といったことにも少し通じるかもしれません。クラニオだと緊張を意識するわけではないですが。


一方、私もそんなことを稽古やセッションで多少は意識しているはずでありながら、日常ふとした瞬間に緊張を感じると、「その部位の緊張」を抜こうと意識してしまうこともあります。「別の部位を緊張させる」は、そんな稽古や日常のちょっとした瞬間に対処するヒントになりそうな言葉です。


「喧嘩も同調の一つの形」「緊張を取るために、使われていない他の部位を緊張させる」…いずれも書き始めたら色々な考えが湧いてきましたが、まさに分野を超えて考えを展開できる深い言葉という感じです。予期せずクラニオの話題にも結び付いてしまいました。


■おわりに
本書を読んでいて、かつて体験した平均化訓練の不思議な感覚を思い出したり、当時分からなかったことが少し理解できたこともあり、ついうれしくなって長々書いてしまいましたが、本書には他にも筋肉の使い方のかたよりによる心理状態の変化など(これには、ソマテックエクスペリエンスが定義するトラウマ化の概念などにも通じると感じました)著者の野口整体への深い理解から生まれたと思われる言葉が色々あり、大変興味深かったです。


本の文体はシンプルな語り口ですが、その分、活用分野の幅を広げて考えられる余地があり、上記で私が取り留めなく書いてきたように、体を遣う芸事、習い事や手わざ系セラピーなどをされている方には特に探求のヒントを多く与えてくれそうな良い本と思います。


私も、本書を読んだことを機に、自分の武術稽古やクラニオ活動を改めてポジティブな新しい視点で見直すことができそうです。

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個人的に色々イベント続きで忙しかった1か月でしたが、それとは何ら関係なく、なんとなく学習をネタに書いてみます…。

<法則の再発見>

先月のクラニオアドバンス講座の途中、「フルイドフィールド」という液感のあるフィールドについての内容があったのですが、その時、同期の一人が、それについて聞いてから何年か経つが、実感がなく今一つ理解できない、と言われ、先生が他にも同じように思っている人はいるか、といわれたので、実はいまいち納得できていなかった私も手をあげました。
すると先生は、これに限らず、自分で体感して納得できるまでは疑っていてよいのですよ、先生が言うことだからといって、鵜呑みにする必要はない、という意味のことをいわれました。このことは、私としては学習を行うにあたって自然な態度と思いますが、先生にそう言ってもらえるととても心強く感じました。

これは、すでに先人によって法則がほぼ明らかになっている内容を教わった場合でも、その内容の理解には「自分自身による、既存の法則の再発見」「体感による理解」が必要ということですね。何かを学ぶとき、もちろん先生の言う通りにやってみるのですが、最初から答えが法則として先人に明かされている事柄も、学ぶ側にとっては大概は未知の世界であり、また、ある程度自分の技量や感覚が育たないと理解できない場合もあるため、自分で様々な試行錯誤を経て体感として理解を深め、その事柄の法則を「再発見」することで、初めて生きた智慧としてある程度使いこなせるようになるものだと思います。


この例だと、「フルイドフィールド」という概念を知識として知っているだけの状態を脱し、先生が言っているからにはそういう層が存在するのだろうが、本当にあるのだろうか?等と少し疑いつつも試行錯誤を繰り返し、それを自分の体感として把握して、セッションに活かせる状態にすることで、ようやく「フルイドフィールド」を(一応は)理解した、といえるでしょう。
ちなみに、私とその同期の方は、質問をした当日セッションで一緒に組んでみた結果、お互いの意識の使い方の共通点から、「フルイドフィールド」がいまいち分からないのは意識の使い方の問題だったらしい、という結論に達し、この経験から、お互いこのフィールドを意識する手がかりを得ることができました(試行錯誤と再発見ですね)。個人的には十分な理解とはまだ言えませんが、今回きっかけをつかんだので、今後の経験で理解が深まっていくだろうと思っています…。

少々極端な言い方ですが、「人から既存の体系を学ぶことは、何もかもお膳立てされたものを思考停止状態で丸暗記するようなもので、自由度や試行錯誤の余地はない」という前提の意見をごくまれに見かける気がしますが、実際は前述のようにクリエイティブな営みであると思います。まあ、文字や数字など、丸暗記が必要、もしくは方法論として効率的な事柄もあるとは思いますが、それはここでは置いておくとして。
先生はあくまでガイドであり、「これまでに発見された答え」や「応用例」を教えてくれますが、その「答え合わせ」や「更なる応用展開」は学習者自身で行う必要がある、とも言えると思います。本当に当たり前のことなので、書くまでもない気がしてきましたが、クラニオだけでなく、身体を使う学習の多くで言えそうな気もします。


<学習とまね>

私は先生の紹介するハンドポジションやクラニオの原理に概ね忠実なつもりでセッションを実施していますが、必ずしもその表現が先生と同じというわけでもなく、考えてみれば、別に先生の真似をしているつもりはないし、先生のことはもちろん尊敬していますが、先生と同じようになりたいとか、同じ技を使うことを目標に掲げているわけではないな、と最近ふと思いました。(もちろん、先生と同レベルの技能が使えたら素晴らしいと思いますが、直接的な「目標」として意識していないということです。)。例えば職人さんの技であるとかも含め、身体を使う学習は「先生の所作をまねて上達」と説明されることもある気がしますが、真似といっても単なる猿真似とは違うのではないか、と何となく思っています。

身体を使う学習では、しばしば先生のお手本を見て同じ格好や動作をしたりするので、形式としては「真似」なのかもしれませんが、実際は先生の真似をしようとしているというより、先に書いたように、先人から伝わってきた学習方法・学習素材(型とか、原理とか)に取り組み、試行錯誤しながら先人の発見を自らの身体で再発見・再構成することが主な学習内容であって、先生から無意識に影響を受ける部分は多々あると思いますが、先生と自らを「意図的に同一化」することはあまりない気もします。ある学習体系を学んでいると、学習体系の奥に潜むその流儀のエッセンス的なものが身についてきて、本人にそのつもりはないが、結果的に先生や先人と似てくる部分がある…というようなものだと思います。


これは私が習っている中国武術でも最近思うところで、たとえば、私は急ぐときなど、道で独特のちょこちょこした歩き方(早歩き?)を無意識にしていることがあるのですが、この歩き方は教室で見かける先生や先輩方の動きの一部と雰囲気がどことなく似ている気がします(もちろん動きの質には差がありますが)。これに関しては、いつの間にどうやって自分が身に着けたのかあまり記憶になく、単に普通に稽古していただけで、先生と同じような動きをしようと意図的に真似したり、「そのように歩くための稽古」を特にした覚えもないのですが、いつの間にかそうなっていたようです。

人はそれぞれ体型や身体の癖、価値観などが違うのだから、同じものを学んでも学習者ごとに動きの表現が微妙に違ってくるのは自然と思います。それと同時に、先人から伝わってきたものか、それと同じ方針の稽古方法を練習していれば、技量の巧みさなどの差はあるにせよ、師匠にほどほどに似て、それでいて自分にとっても無理のない技能や動作の運用法が自然と身に付いてくるのでは、と思います。

学んだ流儀に何か問題を感じ、別の流派を立ち上げる場合ですら、身に着いたもの(身に着いたものに対する批判的意識や問題意識も含め)をベースに行う限りにおいては、表現にその人独特の部分が多くなっただけで、魂・エッセンス的な部分ではもともと学んだものと実はあまり変わらないのかもしれない、とも思います。何も習っていない人が自由に動けと言われて動いた場合ですら、実は過去の経験をもとに動いている部分が多くのかもしれません。


そんなわけで、先生に似せようとしなくても、しかるべき稽古方法をしていれば何となく先生や創始者に無理なく似てきて、得るところもあると思うのですが、逆に誰かの見た目や言動のくせ、手順としての動きなどの表面的な部分だけ意図的に真似すると、その人が用いる体系のエッセンス的な部分はあまり身につかず、その人固有の駄目な癖とか文体とか妙な所を中心に似るような気もします。その人の「行動パターン」も技能を構成する一部ではあるでしょうが、技能そのものではないわけで。
例えば、独特の言動やファッションでテレビに出たりする、カリスマ性のある武術師範がいたとして、その言動を真似しても、技そのものが上手になる事はないと思います(当たり前のことですが…)。もしその師範のような動きを身に付けたくて何かを「真似」するならば、その方の個性的な言動や格好ではなく、「有名になっても失敗を恐れない姿勢」とか、「稽古内容」を真似するべき、というところでしょう。

まあ、人は自分以外の何物にもなれないですし、無意識に親や先生の影響も受けていると思うので、学習にあたっては、先生や目標とする対象に意図的に似ようとするのではなくて、その人々が使うのと同じ、もしくは類似の体系を無理なく学んでいたら自然と似ていた、という程度で十分なのではないかと思います。

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「野口整体」の話がこれまでの記事の中でたびたび出ていますが、私はクラニオを学ぶ前から野口整体には興味を持っていて、創始者の野口晴哉先生の著作もかなり持っています。

どのくらい持っているかというと、以下の「全生社」のサイトに紹介されている野口先生の本の大半を持っています(数えてみたら持っていないのは4冊でした)。
http://www.zensei.co.jp/books/store
これらの多くは普通の普通の書店ではほぼ流通しておらず、売っているのは「風邪の効用」「整体入門」くらいなので、健康法や神秘学やヨガの本を売っているような少し変わった本屋さんに行って少しずつ集めたものです。収集にはなかなか苦労しました。


野口整体を最初に知ったのは、たぶん10年くらい前です。私が身体に関する学問(私は軟弱稽古人なので、伝統武術やそれに近い活動もその中に入れてます。)に興味を持ってからしばらくして、武術研究家の甲野善紀先生の著作を通じて知りました。

都合が良いことに、興味を持ってから程なくして(2002年のようです)「整体入門」がちくま文庫から復刊され、普通の書店で買うことができました。「風邪は身体の調整作用である」という画期的だが自分には非常にしっくり来る内容や「体癖」のような身体(というか人そのもの)の捉え方に触れ、人間の身体はただそこにあるだけで本当に色々なことを表現しているんだなあ、人間って不思議だなあ、野口先生は良くそういうことが分かるなあ、と、感心することしきりでした。
その後、前述のように沢山本を集めて、一通り読みましたが、やはりそれぞれに感じるところがありました。これらの野口先生の著作が私の身体観やその後の人生の方向性に非常に大きな影響を及ぼしていることは間違いありません。


しかしどういうわけか、これほどまでに興味を持っていながら、私は野口晴哉先生のご子息である野口裕之先生の「身体教育研究所」の講座にはかつて何度か行ったものの、野口晴哉先生が創設した「整体協会」の講座そのものには参加したことがありません。何故かは自分でも良く分かりません。行きたいけど行けない、というものでもなく、何となく興味が湧かなかったとしか言いようもないのですが。
そして何故か野口整体とは関係ないクラニオに一目散に向かってしまったという。本当に人生、何がどうなるか良く分からないものです。野口晴哉先生がご存命なら即座に整体協会に行ったのではとも思うのですが、仮にそうだったとしても、実際どうしたかは分かりません。思想から大いに学ぶところがあったということと、その体系を学びたい思いは別ということなのか、ともかく、何を学ぶかは縁としか言いようもないのかもしれません。


クラニオの学びが一段落して、また先日、比較的派手に風邪を引いたりもしたので、持っている野口整体本を何となく開いたのですが、ちょっと読んでみて、本を買った当時の私はどうやら内容をほとんど理解できていなかったようだ、と気づいてしまいました。クラニオの資格も取ったし、もう野口整体とも縁が切れていくのかなあとか思っていたのですが、どうやらそんなことはないようです。
そんなわけで、これらの手持ちの本も、来年1年くらいかけてもう一度じっくり読んでみようかなと思っています。野口整体は習っていないので、100%理解できるわけではないでしょうが、クラニオを通じて人や人体についてある程度学んだ今ならより深いところまで読めそうです。また、どことなく野口整体とクラニオは身体観に似た部分がある気もするので、別の体系の視点からクラニオを見直すきっかけになるかも知れないと期待しつつ。


ちなみに、整体協会の講座に行ったことはありませんが、会費さえ払えば整体協会の会員にはなれるので、名前だけは私も会員(正確には賛助会員)です。会員には、野口先生の講演録などが載っている小冊子「月刊全生」が毎月送られてるので、それの料金を払っていると思えば十分お得感があります。
今後はたまに、「月刊全生」で印象に残った言葉をここで紹介するのもよさそうだなと思っています。要は、気軽に書けるクラニオネタが尽きてきたので、新しいネタを必死に探しているということなのですが…。

※参考 「整体協会」公式HP: http://www.seitai.org/index.html

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眼精疲労で風邪引いた日記を書いたら、野口整体をされているmentosさんから、目の疲れの対応について情報をいただきました。

野口整体では、目の上に蒸しタオルを乗せる対応が一般的だそうですが、今は普通に薬局等で購入できる便利な商品もあるとのこと。詳細はmentosさんのブログからどうぞ ⇒「稽古の合間に」-「目の疲れ」


mentosさんの記事を読んでいて、私もクラニオ講座で目の疲れ向け対応法を習ったことがあると思い出しました。誰でもできて簡単なので手順を書きます。

1.自分の両掌をこすり合わせて温める。

2.自分の両目を1で暖めた両掌で覆う。できるだけ掌をぴったり付け、
  掌で覆った目を開けても外の光が入らない位になるとなお良いです。

3.目をつぶって数分(厳密には決まっていません)そのままでいます。
  手を置いている間、特に変わったことをする必要はありません。
  やっていて寝てしまったらそれはそれで問題ないです。

要は蒸しタオルの役割を自分の掌でやる方法です。やると確かに楽にはなります。なお、私自身は、めんどくさくてあんまり使ってません。今後は眼精疲労でダウンする前にもう少し有効活用せねば…。


なお、このやり方で、掌を他人の目の上に置いてあげることもできます。それだと受ける人は自分が緊張しないのでより楽です。しかし、やる側は寝ている人の顔の上に手を置く場合、余程慣れていない限りは覆い被さるようになったりして、多分いまいち安定しないので、結構めんどくさいです。
座っている人の背後から目隠しをするかのように実行した方が気軽にやれると思います。やる側の人は、自分の肘や前腕を、相手の肩なり、(受ける人が椅子に座っている場合は)椅子の背もたれなりに置けば楽です。

まあ、人によっては2人して数分じっとしていると空しくなってくるかも知れないので、この方法は家族なり気心の知れた人と変わったスキンシップが取りたい方向けになりそうな気もします。少なくとも1人なら、蒸しタオルなり便利商品の方が手っ取り早そうです。


要は「疲れ目はほどよく温めるのが良い」ってことですね。他にも色々手軽にできる方法がありそうです。眼精疲労も当然寝れば回復しますが、より効率的に回復を促す補助手段はいろいろありそうだ、ということで、選択肢のひとつとして頭の片隅にでも留めていただければと思います。

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眼精疲労が極限に達したらしく、先週末に風邪を引いてダウンしました。もっとも、私の場合は会社の日常業務でほぼ1日中パソコンを眺め、帰りの電車内で活字の細かい本を読み、家に帰ったらまたパソコンを眺め、気晴らしに漫画やら活字の細かい本やらを読み、更に時間があれば(場合によっては睡眠時間を削ってでも)ゲームもし、深夜アニメまで観るという素晴らしく目に悪い、残念な人を代表するような生活をしているので、まあ、当然の報いというやつではあります。
武術稽古などの目を積極的に使わない時間もなくはないですが、目を使う時間に比べるとほんの気休め程度に過ぎません…。蓄積しまくった目の疲れ(とその他の身体の疲れ)を強制的に軽減せねばならない状況に至ったので、ダウンするほどの風邪を引いた、というところでしょう。


「風邪は身体の調整作用である」という考えは「野口整体」が提唱する考えです。多分ここにも以前(もしかしたら複数回)書いたとおりで、大雑把に言うと「日頃生活しているうちに蓄積される身体の歪みや疲労がある程度以上に達すると人は風邪を引き身体を再調整する」「風邪を引くことで出る熱やら痛みやらの色々な症状(あまり嬉しくないものが多いですが)は身体の調整作用の表現である」といったところです。
子供の頃から風邪を引きまくってきた私としては、自分の体験と野口整体の書籍で風邪について述べられていることを照らし合わせると納得できる点が多いので、その考えにおおむね賛同しています。もっとも、それ以外の理由でも風邪を引く場合はある気もしますし、「完全に正しい」理屈かはわかりませんが、個人的にはだいたいあってれば十分です。

今回の私の場合は露骨に目が疲れやすくなったり、目に関連する部位が悉く痛くなったりしたため、この風邪は眼精疲労に特に関係ありそうという推測を行うのに十分すぎる状態でしたが、どこがメインの風邪だろうと「たくさん寝る」「水分多めに取る」「暖かくする」「全般的に無理しない」「食べたいものを食べる」といった基本的対応自体は同じだと思ってます。
その他の対応としては、「自分の身体の欲求」を聴くと(と書くと凄そうですが、要するに勘です。)、あれが食いたいとか、今日は○×したら絶対に駄目っぽいぞとか、何とはなしに思い浮かぶものがあるので、そいつに従うとよい場合が多い気がしています。


なお、今回の「身体の欲求」としては「しばらく目が疲れることをしてはいけない」という直観的判断が下されてしまったので、先週末は「パソコン・テレビ・ゲーム・読書全て原則禁止」を実行し、昨日もそれらの「ほぼ禁止」を実施しました。こうなると弱っているから稽古も満足に出来ないし、残念な生活をする私はほとんど寝転がるしかなくなってしまうのですが、身体の要求は最優先なので、粛々と従うのみなのであります。
それらの直観に従わないと、弱っている状態に更に負荷を積み重ねることになり、身体の調整がなかなか終わらず風邪が長引くことになるものと思われます。たぶんですが。

なお、別のタイプの風邪でも、風邪で寝込んでいる時に目を使いまくるのはこれまでの経験からして、あまり推奨できません。目を使うだけでも(テレビゲームは情報量が多いせいか、特に疲れます。)、身体全体に結構負荷がかかるものなので、ごろごろしている時ほどゲーム攻略を進めたくなる同志達の気持ちは嫌と言うほど分かりますが、風邪で寝込んでいる際は、それらの娯楽をできれば何日か休んだ方が風邪は早く経過すると思います。ある程度元気になってから2次元に遊びに行くと言うことで。


私自身は野口整体の考えに触れて以来、風邪に対しては、ああ調整の時期が来たか、とか、確かに無理したし仕方ないな、という感じの受け取り方をするようになり、風邪を殊更に嫌う気持ちはあまりないわけですが、結構派手に症状が出ることもあるので、これまでは、何か軽減するための手段を講じた方がいいのかなと思っていました。
しかし、今回「目を使うこと禁止令」を出して手持ちぶさたに横になっている時、殊更に軽減するための手段を行わなくても、風邪自体が調整の過程だとしたら、変に他の手段を弄しようとせず、むしろガッツリと今でている痛みやら症状に向き合ってみた方がいいんじゃないか、と何となく思いました。プロセスワークなどには「症状に向き合う」種類のワークがありますが、身体が普段とは違う状態になっているのだから、それに近い機会と捉えてみるというか。

今回はそうしてごろごろしていると、ずっと忘れていた過去の情景や出来事が思い浮かんできたりしました。風邪は心身の色々な側面の整理整頓を行っているのかもしれない、となんとなく感じました(心や記憶も肉体の状態とも関係あるわけですが)。とりあえず、私にとって、今回の風邪やら諸々の不調やらは、「そこに至るまでの自分自身」を見直すにあたって、いつも以上によい機会であったように思います。まあ、まだ咳などはしているので、いつもの調子でいくと、風邪が抜けるまでにあと何日かはかかりそうだな、とも思っているわけですが…。


なお、上記はあくまで私の考えで、風邪の時に自分がそう過ごしてみるのもありだな、と思っているだけなので、他の人に推奨する気はありません。基礎体力が落ちている人は風邪で熱が出ること自体や、調整の過程の痛み自体が大きな負担になることもあるかと思うので、薬を飲むなりして症状を軽減する手段を使った方が良いこともあると思います。また、どうしてもやらねばならん仕事がある場合はただ自分の状態を眺めて過ごすわけにもいかないでしょうし、その辺りは各人が判断する方がよいでしょう。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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