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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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5/21に書いた日記の後半。たぶん長いので分割しました。
おもむろに自分の稽古し始めのころを振り返ってみる。


過去の私自身は、クラニオを学び始めたり、中国武術の教室に来る前は勝手気ままに稽古らしきことをしていても何とかなると思って実行していた口で、そういう取り組みもそれなりの面白さがあることは理解しているので、何も習わずに自分で色々試すことや、色々な技術のつまみ食いをすることを特に否定するわけではないです。ただ、振り返ってみると、それらの選択肢ではどうしてもわかることには限界がある、もしくはあんまり効率が良くないというのも個人的実感です。

初期状態では全くの無知かつ運動不足ですから、そういう方法でもしばらくは何がしかの変化は見られるわけですが、私の場合はある程度それを続けていたら、だんだんむなしくなってきたわけです。何か自分の活動に「核」「魂」が欠けているというか、エゴの命じるまま自分勝手なことをしているような罪悪感にさいなまれるというか…。私よりもクリエイティブで才能ある方々は自分だけでもできるのかもしれませんけども、私自身は気力的にできそうに思えなかったので、結果、クラニオや中国武術を学んでいるわけですが、その選択ができてよかったと思っています。

私は身体に関する学びに興味を持ちはじめた時期は精神的に結構疲れてしまっていて(だから興味を持ったってこともあるんでしょうけど)、人から素直にものを習うことが非常にしんどい状態だったため、色々なところを回りながらも、なかなかこれを学ぼう!と思うものを見つけることができず、現在の状態まで来るのに随分遠回りしました。

その時体験した色々な苦労や複雑な思い、獲得した知識が今の学習の支えになっているという意味では、無駄な経験ではなかったと思いますが、最初から素直に人に学べるような健全な方に殊更に勧めたい選択肢ではないです。研究ならメイン分野を少し学んでからでもいくらでもできますし、一見地味と見える既存の体系を学んでいく道のりも、試行錯誤の機会や日々の発見はたくさんあります。


もっとも、歩く道は人それぞれであり、私が遠回りせざるを得なかったように、それぞれの方の歩く道にそれぞれの意味があるのだろうとも思っています。「3年かけて良師を探せ」なんて言葉もありますけれど(私自身はクラニオに出会うまでに明らかに3年以上かかってます…)、自分自身の中で学習の準備ができるまでの期間や、ある分野について理解を深める期間も時にたくさん必要であり、人によってはいろいろな場所をうろついたり、無謀な取り組みをして痛い目に遭ったりする事も必要なんでしょう。

まあ、それらの放浪や迷走は「自分にあった選択肢を見つけ出すまでの見えざる天の試練」みたいなもので、自分が学ぶ条件が整わないと、そうそうスムーズに自分に合う場所には辿りつかないものなのかもしれません。…まあ、私自身の武術への取り組みは上記のようにアバウトなものですから、あんまり偉そうなことをいうのもなんですが、いろいろな体験をした結果、それなりに思う所もあったというところですかね。


書いていて、あまり意識していなかったけれど、これはクラニオでも同じことだなと思いました。クラニオは表面的な手順そのものは難しくないかもしれないけれど、やはりそれなりの技術が体に身につくにはまとまった年月が必要と思いますし、時々くたびれたりしながらもカリキュラムで学びつづける中で段階的に分かってきたことはたくさんあります。

私は私なりのクラニオ観を持っていますが、これも体系立った学習を通じて先人の価値観に触れた体験があるから、原型を壊さない程度にそこに何かを積み上げたり、自分自身が持つ世界観と折り合いがつく地点を模索したりできるのだろうと思っています。…と、いうわけで、何となく最後にクラニオにつながったところで終了です。

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今日はクラニオのことを書く気力が湧いてこないので、
日記風に稽古っぽいことなど書きます。


2か月くらい前から、通っている中国武術教室で大極剣を習い始めました。武術を稽古されている方には説明するまでもないですが、中国武術では(というか世界中の多くの伝統武術では)拳術と武器術がセットになっており、太極拳にも「太極剣」が併設されている流派が多くあります。

中国武術の「剣」というのは細身の両刃の片手剣で、日本刀のような両手剣とはだいぶ様子が異なります。私が学ぶ太極拳流派の併設武器は剣のみですが、「大極刀(これも日本刀と違って片手で振る刀です。青竜刀みたいな感じです)」やその他私がまったく知らない武器を併設する門派もあるみたいです。

拳術と武器術がセットになっているのは、大雑把にいうと両者の技術に共通点があるからです。そのため、拳術をある程度学んで身体を作り、多少動けるようになってから武器術に進むのが一般的なようです。私自身は中国武術に関してはほとんど素人ですから、ようやく武器を習ってもよい段階に来たというところです。私は過去に若干の武術経験はありますが、新しい流派を習い始めたらやはりゼロからスタートということです。

剣の独特の使い勝手にはなかなか慣れませんでしたが、毎日のように振っていたら、なんとなく振れるような気にはなってきました。中国武術の剣は大変精妙な武器で、相手を両断するような使い方には向かないものの、剣先を相手の筋肉の隙間に滑り込ませるようなテクニカルな使い方を想定した恐ろしい武器とのことです。

そのため、技術が十分ならばあまり腕力がない(脱力しているという意味ではなく)人でも相手を無力化できる反面、熟練には長い修練(30年くらい)が必要とのこと。納得です。まあ、使う機会は一生ないだろうし、あったら困りますけど、現代における武術はそういうものでしょうし、のんびり取り組みたいところです。


凄く当たり前なことなんですが、剣を習い始めて、何かの技術をある程度以上身に着けるにはしかるべき技術を伝えている方にちゃんと体系立てて教えてもらう機会がないとやはり駄目だなということを改めて実感しています。私が本か何か読んで自分で剣を懸命に振ってみたところで、剣は基本的にはこんな風に使うのだと先生に数分説明を受けたことを実感するだけで何年もかかってしまいそうです。

もちろん、練習して身に着けるのは自分自身ですから、教えてもらえる立場であっても、漫然と先生のいうことを聞くだけでは足りず、習得にあたっては自分なりの探求・試行錯誤・たくさんの自主稽古が必要といえます。しかし、もともと完成している体系の模範解答を最初から紹介されて努力するのと、知らないで取り組もうとする道のりには大きな違いがある気がします。

過去の私自身そうでしたが、そもそも、多少は身体や動きを見る目を持っているつもりでも、実際に教わってみると、事前に同流派の映像を見たことでは全く分からない点が非常に多かったです。自分にとって未知の世界なのですから、自分の既存の価値観・視点で判断することが至難なのは至極当然でありますが。

また、うまく言葉で言い表せませんが、何かの技術体系を学ぶことは、手の形とか腰構えみたいな単発のこつをたくさん身に着けることではなく、「それらの部分的注意全てを含む動きの雰囲気丸ごと全体」や「その流儀が持つ空気感・世界観」といった、先人が受け継いできた「パッケージ化されたその技術体系全体」を肌で丸ごと体験し続けることに意味がある気がします。連綿と受け継がれてきた智慧に触れることに意義があるとでも言いますか。まあ、対人稽古で強さを発揮するといった部分まで追求すると、そういう部分だけで満足していてはいけないのかもしれませんが、個人的には現状の割と緩い取り組みでもお腹一杯です。


…後半に続く。

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このブログには「ぶじゅつ関連」というカテゴリが一応用意されているのですが、ほとんど使われてない気がするので、たまにはそちらの話題でも。


私は中国武術を習っています。現時点で習っているのは、太極拳と形意拳という拳種です。格闘技や競技ではなく、主に伝統的な套路(型)をひっそり学んで楽しむものです。私は以前他の武術をかじってきた経験はありますが、これらに関してはまだ習い始めて1.5年くらいなので、ほぼ初心者です。なお、これら2つは正確には「孫家拳(孫禄堂先生という達人が創始したため、孫さんの家に伝わる拳術というような意味で孫家拳です)」という流派の体系に含まれているものです。孫家拳には他に八卦掌という拳種も併設されていますが、私はまだ習っていないのでここでは省略です。

太極拳はともかく、形意拳は中国武術が好きな方でない限り、あまり知られていない拳種だと思います。多分誤解を招くだろうと思いつつ見た目だけ言うと、拳で突いたりしながら、若干変わった動きで直線を黙々と往復して稽古する、地道な雰囲気の流派です。対人の型や武器術もあります。いずれもやはり黙々と往復している感はあります。
動作の見た目はシンプルですが、その中に人の合理的動作のエッセンスが内包されているようで(これは他の武術も同じと思いますが)、近代に多くの有名な名人を輩出した流派として(習ってる人の間では)有名です。なお、興味があるかたは教室のホームページに行けば流派の詳細がありますので、私の適当な説明は忘れて、そちらをどうぞ。⇒ 教室のHP


で、その形意拳(孫家拳ではどの拳種から始めても習いますが)には「三体式站椿」と呼ばれる基本の鍛錬法があるのですが、これがやたらきつい代物なのです。片足に重心をかけつつリラックスしてまっすぐ立つのですが(他にも色々な要点はありますが、私の理解が至っていないので省略します)、見た目は単純そうなのになかなか言われたとおりの形にならず、しかも、軸足にかかる負荷が尋常ではなく、はじめは数十秒も立っていられません。足が痛くなったら軸足を逆の足に替えて立つ、を繰り返しますので、倒れたりはしませんが。

このように、三体式站椿は教室の平和な雰囲気と裏腹に、ただ立っているだけなのに割と泣きそうな稽古なのですが、これが妙に癖になると言いますか、私も最近は仕事の帰りが遅かったりしても、これだけは毎日やらずにはおられなくなっております。というのも、これをやると身体が短時間に整うようで、1日の終わりに立っておくと、その時は多少しんどいですが、少々の肉体の緊張くらいならほとんどなくなる感じがあるのです。汗もだらだらとかきますが、同時に老廃物が抜け出ているような感じもします。足はきついですが、力んでいるわけではないので、筋肉痛にはなりません(やる時間が短いって事もあると思いますが)。


クラニオもやる側の人はじっとしていますが、この三体式站椿などの中国武術の静的鍛錬(三体式以外にもいろいろな「站椿」があります)はそれとはまったく質が異なるもので、身体に「ある理想的な姿勢」を体験させ、流派の戦術・動作を効率的に駆使しうる身体を作っていこうとすることが目的と思われます。
そんなわけで、やっていて身体が自然と整うだけでなく、ある程度の期間やっていると肉体が内側から作り替えられていく感じはあります。この稽古を始めた当初、私の姿勢はかなり猫背気味でしたが、1年半程度でもかなり姿勢が良くなり、視界も広がりました。「武術稽古による健身効果」という意味では分かりやすいものがあります。こういった話は他の流派でもしばしば聞きます。

姿勢と言っても、見た目が整っているだけではなく、概ね要求通りに立つと身体のエネルギーが自然と流れる感じがあるなど、色々な見えざる合理的要素が含まれているようでもあります。これを発案したかたは人間のいろいろな側面が深く分かっていたんでしょう。
このきつい稽古の醍醐味はクラニオとはまた異なるものですが、世界観の違うものを両方やっていて良かったと思うことは多いです。結局、学ぶ流派の紹介だけになってしまったようなので、考察などについてはまたいずれと言うことで。

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知っている人には当たり前すぎて物足りず、知らない人には意味が分からないというような、かなりどうしようもない記事を連発しつつある気もしますが、始めてしまった物は仕方ないので無理やりでも定期的に書いていこうということで…。


 最近、今書いてるクラニオ論文の材料にと思って、江戸時代の武術書である「天狗芸術論」(古文書ではなく「武道秘伝書」という題名だけ普通でない普通の本に載ってるものです)を読んだんですが、なかなか面白かった。そして、結構辛口でした。
 その中で「なるほどたしかに」と思ったのが、修行して生死を超越した境地に至った坊さんは剣を手にとっても自由自在に動けるものか?というくだり。天狗(この武術書は武術修行者と天狗の問答の形を取っている)がその問いに答えて言うには、悟りを開いた坊さんは、輪廻の世界を離れ、常に死したも同然の心境に達しているので、剣で切られようとも、己の死にあおうと動じずにいることは可能と思うが、それだけでは生命を守る役には立たないだろう、とのこと。
 この文を読んで共感し、私も常々思うのは、技術と真理の探究だとか悟り(私自身は「悟り」が何かは、あんまり興味がないので良く分かってません)みたいなものはきっちり分けた方がいいんじゃないかな、ということ。例えばクラニオをやっていると、時々神秘的といえそうな体験をすることもあるけれども、クラニオは対人ボディワーク、もしくは医療的でないセラピーの類、つまり、あくまで「技術」であり、神秘体験を得るためにやるものではあるまい…という感じですか。


 天狗芸術論のお坊さんの例に戻ると、「悟った坊さん(仮)」は身体状態が非常に安定し「融通無碍・自由自在」な心境に達しており、おそらく「危機状態でも既存の枠組みに囚われず自由に行動することが可能」に違いないが、だからといって、武術の技ができる訳じゃあるまい、ということなんでしょうね。まあ、相手に対し「いい対応」をして、斬りかかるつもりだった悪人を改心させたり、武術家に他分野からアドバイスすることはできるかも知れないですが、いざ斬られる段になって、剣を華麗に扱ったり、おもむろに相手を投げ飛ばしたりできるかはまた別の問題だろうと。武術には技術としての武術の鍛錬(技術というのは、テクニックを覚えるというよりは、武術の技を効率的に行使しうる身体を練ることや、敵対的な相手との関係性を理解するといった色んな要素を含むと思います)というものが必要だろうと私も思います。…もし対応できたとしたら、それはたぶん少林寺とか宝蔵院の「武術を修行した坊さん」もしくは「坊さんのコスプレをした武術家」だったんでしょう。逆に、自分が思うがままに自由自在に動き、その動きの全てが技となるような武術の達人がいたとして、その技の使い手が皆立派な人格を持っていたり、高い境地に到達しているのかというと、それもまた微妙な気がします…。


 もちろん、武術の技と身体状態(結果的に精神状態でもある)は全くの無関係ではなく、「武術稽古を通じて自分の身体が変化する=武術の技の質が高まる⇒からだが変わることによってものの見え方、ひととの関わり方も変わっていく⇒(繰り返し)」といったことは普通にあり、非常に深い境地に至る人も多くいたのだろうと思います。しかし、武術も結局は、「我が身を守る技術を学ぶこと」を通じて色々な物を「結果的」に得ていくだけであって、なにか高邁な境地や真理(?)に達することや、神秘体験を得ることが「目的」ではないだろうと思います(あくまで個人的な考えですが)。
 エネルギーワークなども単体の技法として行われる分には別段害はないですが、それが武術の体系と結びついて「気の力は全てを救う」みたいな方向になり始めると、安っぽい宗教色や自己啓発セミナー色を帯びてきて、妙な感じになっていく場合もある気がします。別に武術とエネルギーワークが結びつくこと自体が悪いわけではなくて、武術に技術の錬磨以上の過剰な目的が期待されると、妙な方向になりやすい気がする、ということです。


 私も色々な講習会を放浪する中で、様々な例を見てきたし、自分自身が偉そうなことをしばしば言ってしまうもので、このお坊さんのくだりを読んで、色々考えさせられます。要はものごとを妙な期待無くありのままに見ることや、「身の程」を知ることが、結果的に健全さに繋がるって事じゃないかなとも思います。「天狗芸術論」はネタに使えそうなので、また気が向いたら取り上げてみます。

<参考までに本文>
問ふ、禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、修行の主意異なり、彼は輪廻を厭い、寂滅を期して、
初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。
故に多勢の敵の中にあって、この形は微塵になるとも、
念を動ぜざることは善くすべし。
生の用はなるべからず。唯死を厭はざるのみ。

「武道秘伝書」(吉田豊編 徳間書店)より
「天狗芸術論」自体は 丹羽十郎左衛門忠明の著
この人は「猫の妙術」の著者でもある。

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しばらく前に書いた「ぶじゅつ(本)との出会い」が続編(?)を予告したまま止まっているので、つづき。

◆古武術の発見
 ある時、八極拳の本を見つけて以来、私はなんとなく東洋の伝統武術に興味を持ったわけですが、当時の私は、人から長期にわたってものを習うことにもの凄く苦手意識があり(それがかなり克服されたのは結構最近です)、かつ、武術(このブログで使う「武術」は、東洋の伝統武術、もしくはその稽古体系を下敷きにした動作のワークというような意味です。)の道場はとても恐ろしい場所なんじゃないかと怖がっていたので、なかなか実際の活動を始めようという気分になれませんでした。そんな中、「武術的活動開始」のきっかけとなったのが「古武術の発見~日本人にとって「身体」とは何か」(養老孟司、甲野善紀著 光文社)という本でした。当時は書店の片隅に置かれている印象の本でしたが、その後文庫版も出たし、著者2名の知名度とも相まって、現在は割と有名かもしれませんね。

◆術理?
 この本には「ナンバ歩き」といったユニークな概念の紹介や、昔の武術家の凄いエピソードなど、いろいろな話が載っていて面白かったのですが、当時の私が特に興味を持った内容は、武術にはどうやら「術理」というものがあって、「柔よく剛を制す」は精神論ではなく、明確な技術法則によって実現されているらしい、ということです。つまり、伝統武術というのは、身体で行う知的な文化活動みたいなものでもあり、どうやら普通の競技スポーツとも、殴り合いや叩き合いが多そうな現在武道とも方向性が違うみたいなので、「精神論」「体育会系のノリ」に尋常ならざる苦手感があった私も何とかやれるんじゃないかと思ったのでした。
 私は武術で強くなりたいとは多分あまり思っていなかったので、なんでヨガ等でなく武術を選んだのか今でも疑問ですが、まあ、この本によって喚起させられたある種の知的好奇心によるところが大きかったんだろうと思います。甲野先生の本全般に見られることですが、この本では、達人の技は、「その人の天性に依存する偶然」ではなく、姿勢や身体の使い方といった「合理性」によって成り立っている(つまり達人技もある程度は伝達可能という意味合いですね)と捉えており、武術について神秘的な書き方をしていなかったのも好印象でした。当時の私は神秘的なものが苦手でしたので(その後、紆余曲折を経て、そっち方面にも結構精通した人になってしまうのですが)。あとは…ストレス発散や健康のために始めたと言えなくもないですかね。

◆フリー稽古会の衝撃
 そして、この本を読んで、術理以上に興味が湧いたのが、甲野先生が訪れるという「恵比寿稽古会(のちに解散。現在は「半身動作研究会」という名前で、主宰者の中島章夫さんが恵比寿稽古会の雰囲気を引き継ぎつつ運営されています。)」という集まりの稽古方針です。そこでは、何故か「各人がそれぞれ独自の自主稽古的なもの(何かの型をやったり、人と組んで崩しあってみたり、木刀素振りしていたり、じっとしていたり、いろいろです。)」をしていて、甲野先生と他の稽古人の方々は、師弟関係ではなく、たまたま場を共有する共同研究者みたいなものらしいと。当時の私は武術というのは先生の指導もとい命令に新兵の如く服従して学ぶ以外の選択肢はないのだろうと思っていたので、こういったオープンな考えで運営されている稽古場があることに驚きました(今思えば凄いびびりようです。実は普通の伝統武術教室の多くも実は結構オープンな環境なのだと知るのはこの後何年か経ってからです)。

 更に、恵比寿稽古会の稽古人は、段位や稽古年数で評価されることもなければ(逆に言えば、長くいるとか年上という理由で偉そうな顔はできないということでもありますね)、皆勤や時間厳守の義務もないという姿勢にも驚きました(この点に関しても、伝統武術教室の多くは比較的寛大であると後で知りました。皆勤必須だったらとても社会人は通えません…。)。要は余程問題でもおこさなければ、ある程度やる気のある人なら誰でも下手なりに置いてくれる場所という事です。人に教わることにびびるくらいですから、当時の私には、人と競えるような余裕なんてあるわけもなく、そこらに放置してもらって、一人でじっくり動きながら考え込めるようなこの環境はある意味理想的と感じられました。
 当時の私にも、自主稽古だけでちゃんと武術の技らしきものがやれるようになるのかというのは疑問だったのですが、ともかく置いてくれそうではあったので、良く判らないなりに恵比寿稽古会に行ってみることにしました。そして、この恵比寿稽古会が私の「武術的稽古活動」のスタート地点になったわけですが、まあ、どちらにしろ私には、スタート地点として、この場所しか選択肢はなかったろうなと今も思います。

◆フリー稽古会の意味
 もっとも、フリー稽古会を入り口に稽古を始めた私でも、今なら「もし人からものを習うことに抵抗がなく、武術の技や自分の心身を深めていきたいと思うなら、自分と合いそうな教室や先生、これはいいなと感じられる流派を時間をかけてじっくり探し、そこに最初から通ったほうが良い」と道場を探す人にはアドバイスすると思います。実際、甲野先生の稽古会で多くの方に出会いましたが、私も含め、大概の常連の方は、ここをスタート地点に、後に何がしかの伝統武術や身体技法を学ばれる(あるいは最初から専門分野を持っている)ことが多かったです。結局、自由な環境におかれることで、かえって制約や基本の重要性というか、そういうものに還る必要性を感じることになる方が少なからずいたのだろうと思います。もちろん、甲野先生が現れる稽古会という事で、前述の中島さんを始め、甲野先生自身の稽古の歩みについて研究しようという方もいました。最近はそういう方のほうが多いのかも知れません。そこは、自由な稽古会ですから、「研究テーマは人それぞれ」ということで良いんだと思います。

 ただ、私みたいな「訳あり」の人がリハビリ的稽古活動を黙々と行ったり、やがて自分の道を見つけるまで、好きなように居させてくれる場所として、あるいは、様々なプロフィールを持つ方々が立場を忘れて自由に交流できる場所として(一般社会ではなかなか武術や身体ワーク分野のマニアックな会話ができないので、そういう話が普通にできる仲間がいるだけでも助かります。)、前述のような方針で運営されるフリー稽古会はとても意味があると思うし、今後も志ある方が続けていって欲しいなと思っています。こういった稽古会があったことには、個人的には本当に感謝しています。…恵比寿稽古会に行き始めた頃の私の迷走っぷりなどについては、気が向いた時にネタ的に書いてみようと思います。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、ICSBという団体の教程で手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

クラニオセッションは現在、ブログ主と近しい方、ICSBのクラニオ学習者を中心に限定的に実施しています。
詳細は「☆クラニオセッションご希望の方へ」をご覧ください。

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