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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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個人的に色々イベント続きで忙しかった1か月でしたが、それとは何ら関係なく、なんとなく学習をネタに書いてみます…。

<法則の再発見>

先月のクラニオアドバンス講座の途中、「フルイドフィールド」という液感のあるフィールドについての内容があったのですが、その時、同期の一人が、それについて聞いてから何年か経つが、実感がなく今一つ理解できない、と言われ、先生が他にも同じように思っている人はいるか、といわれたので、実はいまいち納得できていなかった私も手をあげました。
すると先生は、これに限らず、自分で体感して納得できるまでは疑っていてよいのですよ、先生が言うことだからといって、鵜呑みにする必要はない、という意味のことをいわれました。このことは、私としては学習を行うにあたって自然な態度と思いますが、先生にそう言ってもらえるととても心強く感じました。

これは、すでに先人によって法則がほぼ明らかになっている内容を教わった場合でも、その内容の理解には「自分自身による、既存の法則の再発見」「体感による理解」が必要ということですね。何かを学ぶとき、もちろん先生の言う通りにやってみるのですが、最初から答えが法則として先人に明かされている事柄も、学ぶ側にとっては大概は未知の世界であり、また、ある程度自分の技量や感覚が育たないと理解できない場合もあるため、自分で様々な試行錯誤を経て体感として理解を深め、その事柄の法則を「再発見」することで、初めて生きた智慧としてある程度使いこなせるようになるものだと思います。


この例だと、「フルイドフィールド」という概念を知識として知っているだけの状態を脱し、先生が言っているからにはそういう層が存在するのだろうが、本当にあるのだろうか?等と少し疑いつつも試行錯誤を繰り返し、それを自分の体感として把握して、セッションに活かせる状態にすることで、ようやく「フルイドフィールド」を(一応は)理解した、といえるでしょう。
ちなみに、私とその同期の方は、質問をした当日セッションで一緒に組んでみた結果、お互いの意識の使い方の共通点から、「フルイドフィールド」がいまいち分からないのは意識の使い方の問題だったらしい、という結論に達し、この経験から、お互いこのフィールドを意識する手がかりを得ることができました(試行錯誤と再発見ですね)。個人的には十分な理解とはまだ言えませんが、今回きっかけをつかんだので、今後の経験で理解が深まっていくだろうと思っています…。

少々極端な言い方ですが、「人から既存の体系を学ぶことは、何もかもお膳立てされたものを思考停止状態で丸暗記するようなもので、自由度や試行錯誤の余地はない」という前提の意見をごくまれに見かける気がしますが、実際は前述のようにクリエイティブな営みであると思います。まあ、文字や数字など、丸暗記が必要、もしくは方法論として効率的な事柄もあるとは思いますが、それはここでは置いておくとして。
先生はあくまでガイドであり、「これまでに発見された答え」や「応用例」を教えてくれますが、その「答え合わせ」や「更なる応用展開」は学習者自身で行う必要がある、とも言えると思います。本当に当たり前のことなので、書くまでもない気がしてきましたが、クラニオだけでなく、身体を使う学習の多くで言えそうな気もします。


<学習とまね>

私は先生の紹介するハンドポジションやクラニオの原理に概ね忠実なつもりでセッションを実施していますが、必ずしもその表現が先生と同じというわけでもなく、考えてみれば、別に先生の真似をしているつもりはないし、先生のことはもちろん尊敬していますが、先生と同じようになりたいとか、同じ技を使うことを目標に掲げているわけではないな、と最近ふと思いました。(もちろん、先生と同レベルの技能が使えたら素晴らしいと思いますが、直接的な「目標」として意識していないということです。)。例えば職人さんの技であるとかも含め、身体を使う学習は「先生の所作をまねて上達」と説明されることもある気がしますが、真似といっても単なる猿真似とは違うのではないか、と何となく思っています。

身体を使う学習では、しばしば先生のお手本を見て同じ格好や動作をしたりするので、形式としては「真似」なのかもしれませんが、実際は先生の真似をしようとしているというより、先に書いたように、先人から伝わってきた学習方法・学習素材(型とか、原理とか)に取り組み、試行錯誤しながら先人の発見を自らの身体で再発見・再構成することが主な学習内容であって、先生から無意識に影響を受ける部分は多々あると思いますが、先生と自らを「意図的に同一化」することはあまりない気もします。ある学習体系を学んでいると、学習体系の奥に潜むその流儀のエッセンス的なものが身についてきて、本人にそのつもりはないが、結果的に先生や先人と似てくる部分がある…というようなものだと思います。


これは私が習っている中国武術でも最近思うところで、たとえば、私は急ぐときなど、道で独特のちょこちょこした歩き方(早歩き?)を無意識にしていることがあるのですが、この歩き方は教室で見かける先生や先輩方の動きの一部と雰囲気がどことなく似ている気がします(もちろん動きの質には差がありますが)。これに関しては、いつの間にどうやって自分が身に着けたのかあまり記憶になく、単に普通に稽古していただけで、先生と同じような動きをしようと意図的に真似したり、「そのように歩くための稽古」を特にした覚えもないのですが、いつの間にかそうなっていたようです。

人はそれぞれ体型や身体の癖、価値観などが違うのだから、同じものを学んでも学習者ごとに動きの表現が微妙に違ってくるのは自然と思います。それと同時に、先人から伝わってきたものか、それと同じ方針の稽古方法を練習していれば、技量の巧みさなどの差はあるにせよ、師匠にほどほどに似て、それでいて自分にとっても無理のない技能や動作の運用法が自然と身に付いてくるのでは、と思います。

学んだ流儀に何か問題を感じ、別の流派を立ち上げる場合ですら、身に着いたもの(身に着いたものに対する批判的意識や問題意識も含め)をベースに行う限りにおいては、表現にその人独特の部分が多くなっただけで、魂・エッセンス的な部分ではもともと学んだものと実はあまり変わらないのかもしれない、とも思います。何も習っていない人が自由に動けと言われて動いた場合ですら、実は過去の経験をもとに動いている部分が多くのかもしれません。


そんなわけで、先生に似せようとしなくても、しかるべき稽古方法をしていれば何となく先生や創始者に無理なく似てきて、得るところもあると思うのですが、逆に誰かの見た目や言動のくせ、手順としての動きなどの表面的な部分だけ意図的に真似すると、その人が用いる体系のエッセンス的な部分はあまり身につかず、その人固有の駄目な癖とか文体とか妙な所を中心に似るような気もします。その人の「行動パターン」も技能を構成する一部ではあるでしょうが、技能そのものではないわけで。
例えば、独特の言動やファッションでテレビに出たりする、カリスマ性のある武術師範がいたとして、その言動を真似しても、技そのものが上手になる事はないと思います(当たり前のことですが…)。もしその師範のような動きを身に付けたくて何かを「真似」するならば、その方の個性的な言動や格好ではなく、「有名になっても失敗を恐れない姿勢」とか、「稽古内容」を真似するべき、というところでしょう。

まあ、人は自分以外の何物にもなれないですし、無意識に親や先生の影響も受けていると思うので、学習にあたっては、先生や目標とする対象に意図的に似ようとするのではなくて、その人々が使うのと同じ、もしくは類似の体系を無理なく学んでいたら自然と似ていた、という程度で十分なのではないかと思います。

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朧 こと 今野
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自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

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私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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