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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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知っている人には当たり前すぎて物足りず、知らない人には意味が分からないというような、かなりどうしようもない記事を連発しつつある気もしますが、始めてしまった物は仕方ないので無理やりでも定期的に書いていこうということで…。


 最近、今書いてるクラニオ論文の材料にと思って、江戸時代の武術書である「天狗芸術論」(古文書ではなく「武道秘伝書」という題名だけ普通でない普通の本に載ってるものです)を読んだんですが、なかなか面白かった。そして、結構辛口でした。
 その中で「なるほどたしかに」と思ったのが、修行して生死を超越した境地に至った坊さんは剣を手にとっても自由自在に動けるものか?というくだり。天狗(この武術書は武術修行者と天狗の問答の形を取っている)がその問いに答えて言うには、悟りを開いた坊さんは、輪廻の世界を離れ、常に死したも同然の心境に達しているので、剣で切られようとも、己の死にあおうと動じずにいることは可能と思うが、それだけでは生命を守る役には立たないだろう、とのこと。
 この文を読んで共感し、私も常々思うのは、技術と真理の探究だとか悟り(私自身は「悟り」が何かは、あんまり興味がないので良く分かってません)みたいなものはきっちり分けた方がいいんじゃないかな、ということ。例えばクラニオをやっていると、時々神秘的といえそうな体験をすることもあるけれども、クラニオは対人ボディワーク、もしくは医療的でないセラピーの類、つまり、あくまで「技術」であり、神秘体験を得るためにやるものではあるまい…という感じですか。


 天狗芸術論のお坊さんの例に戻ると、「悟った坊さん(仮)」は身体状態が非常に安定し「融通無碍・自由自在」な心境に達しており、おそらく「危機状態でも既存の枠組みに囚われず自由に行動することが可能」に違いないが、だからといって、武術の技ができる訳じゃあるまい、ということなんでしょうね。まあ、相手に対し「いい対応」をして、斬りかかるつもりだった悪人を改心させたり、武術家に他分野からアドバイスすることはできるかも知れないですが、いざ斬られる段になって、剣を華麗に扱ったり、おもむろに相手を投げ飛ばしたりできるかはまた別の問題だろうと。武術には技術としての武術の鍛錬(技術というのは、テクニックを覚えるというよりは、武術の技を効率的に行使しうる身体を練ることや、敵対的な相手との関係性を理解するといった色んな要素を含むと思います)というものが必要だろうと私も思います。…もし対応できたとしたら、それはたぶん少林寺とか宝蔵院の「武術を修行した坊さん」もしくは「坊さんのコスプレをした武術家」だったんでしょう。逆に、自分が思うがままに自由自在に動き、その動きの全てが技となるような武術の達人がいたとして、その技の使い手が皆立派な人格を持っていたり、高い境地に到達しているのかというと、それもまた微妙な気がします…。


 もちろん、武術の技と身体状態(結果的に精神状態でもある)は全くの無関係ではなく、「武術稽古を通じて自分の身体が変化する=武術の技の質が高まる⇒からだが変わることによってものの見え方、ひととの関わり方も変わっていく⇒(繰り返し)」といったことは普通にあり、非常に深い境地に至る人も多くいたのだろうと思います。しかし、武術も結局は、「我が身を守る技術を学ぶこと」を通じて色々な物を「結果的」に得ていくだけであって、なにか高邁な境地や真理(?)に達することや、神秘体験を得ることが「目的」ではないだろうと思います(あくまで個人的な考えですが)。
 エネルギーワークなども単体の技法として行われる分には別段害はないですが、それが武術の体系と結びついて「気の力は全てを救う」みたいな方向になり始めると、安っぽい宗教色や自己啓発セミナー色を帯びてきて、妙な感じになっていく場合もある気がします。別に武術とエネルギーワークが結びつくこと自体が悪いわけではなくて、武術に技術の錬磨以上の過剰な目的が期待されると、妙な方向になりやすい気がする、ということです。


 私も色々な講習会を放浪する中で、様々な例を見てきたし、自分自身が偉そうなことをしばしば言ってしまうもので、このお坊さんのくだりを読んで、色々考えさせられます。要はものごとを妙な期待無くありのままに見ることや、「身の程」を知ることが、結果的に健全さに繋がるって事じゃないかなとも思います。「天狗芸術論」はネタに使えそうなので、また気が向いたら取り上げてみます。

<参考までに本文>
問ふ、禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、修行の主意異なり、彼は輪廻を厭い、寂滅を期して、
初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。
故に多勢の敵の中にあって、この形は微塵になるとも、
念を動ぜざることは善くすべし。
生の用はなるべからず。唯死を厭はざるのみ。

「武道秘伝書」(吉田豊編 徳間書店)より
「天狗芸術論」自体は 丹羽十郎左衛門忠明の著
この人は「猫の妙術」の著者でもある。

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会社員生活の傍ら、ICSBという団体の教程で手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

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