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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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身体に関するワークにしろ、武術の稽古にしろ、「自分の心身にとっての基準点」を、色々な形で身体に理解させる面があるのかなと、最近何となく思っています。ここでいう基準点というのは、自分にとっての心身の中心がどの辺にあるかが分かる「なんかの基準」です。捉え方も、種類も多分非常に色々ありますので、かなり大雑把な表現をしてます。

身体の状態にしろ、思想にしろ、感情などにしろ(個人的にはこれら全て身体の状態と繋がりがあると思っていますが)、ふとしたきっかけで、誰しも、いつの間にか妙な方向に向かったり、行き過ぎちゃうことがあるかもしれない。私もそうです。いつまでも同じ事を根に持っていたとか、自分の身体の左右の動作に凄いぶれがあったとか…(別にそれらが悪いって意図ではないです)。
そういった時に「基準点」を身体が覚えていれば、なにかで行き過ぎてしまっても「おお、いかんいかん」と、割とすぐに、無理のない状態に戻りやすくなるかもしれない、と思うわけです。特に何もしなくても、人は中立的な状態に戻る力をある程度持っていると思いますが、そういった基準点が稽古やワークを通じてより明確になっていけば、「中心に戻ってきたつもりが思いきり明後日の方向にいた」といった状況も減って、楽に過ごしやすいんじゃないかなと。クラニオの役割もそういった「戻る場所」を受けた人の身体に考えさせる部分が大きいのかもしれない。

武術の型やそれに類する質の高い鍛錬法などは、「基準」としてのはたらきが分かりやすいかもしれない。それらの形は変わらないから、適切に取り組むことで、現在の自分の姿勢や動作にどの程度癖があるか、今日の自分の状態はどんな風になっているかを把握することもできるのではと思います。同時に、それらをやっているうちに、型をやっていない時でも、自分の身体の基準点が前よりはっきりわかるようになってきて(例えば、正中線や重心の落ち具合、呼吸の状態、意識の場所など、色々あると思います)、自分の身体のぶれ、ひいては、自分全体のぶれが小さくなっていく、ということもあると思います。まあ、漫然とやっていると分からないかも知れないので、丁寧に取り組む必要はあると思いますが。

クラニオの場合は、受け手の方にセッション中に触れてもらう「1次呼吸のリズム」や「ニュートラルな身体状態(身体が尋常でなく落ち着いた状態とでも思えばいいです)」といったものが「基準」になりますかね。それらの普段あまり接しない基準点を理解した上で、受け手の方の身体に、どう変わっていけばいいか、どの方向に行けばいいかを選んでもらう、というところですかね。相変わらず抽象的ですが…。

そう考えると、相手の方に働きかける能動的なワークは「基準点にいる状態」をいきなり体験させて、身体にヒントを与えるような物、クラニオのような受動的なワークは「ある基準点の位置を示して、そこまで歩いてもらおうとするもの」などともいえるかもしれないですね。他にも色々な区分があると思います。ただ、おそらく、この「基準点」というのは、分野ごとに内実も違うだろうし、同じ事やっても人それぞれで結構違うだろうけども、勝手な想像で「作り出す」ものではなく、もともと自分の内に秘められており、それを「探し出す」性質を持つという点では、ほとんどの分野で共通なんじゃないかなとも思っています。

なお、クラニオをやる人の「基準点」は「プラクティショナーニュートラル」という言葉で表現されることがあり(他にもクラニオでいう「ニュートラル」には、いくつかの種類があります)、それが今作成中の私のクラニオ論文テーマであったりするのですが、最近はそういった「基準点」について考えさせられているわけでした。

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あけましておめでとうございます。
クラニオ・バイオダイナミクス絡みの身体感覚系ブログということで、多分内容はたびたび迷走しますが、今年もおおよそ週1ペースくらいで地道に続けていこうと思います…。

今年の抱負というか目標は、今学んでいるクラニオ・バイオダイナミクスと中国武術稽古の質を着実に高めていくことでしょうかね。土台固めといいますか。たびたび書くように、私はこれまで随分色々な体系をうろうろしてきたので、いまひとつ「これが専門」というものがなく、根無し草感が強かったのですが、この2つには、大変地味なれど、伝えられるべき大きな可能性があるように感じられつつあるので、長い目で見てじっくり取り組んでいきたいと思います。放浪の果てにようやく自分の基盤になりそうな体系を見出したというところですかね。私生活面は具体的には書かないですが、「しばしば働きすぎな頭(煩悩)を黙らせ」つつ、「私生活の土台も少しずつ強固に」あたりをキーワードにしていこうかと思っています。

もっとも、クラニオは今年の論文提出でようやく1人前扱いになれる予定、中国武術は習い始めて1年しか経ってないので、焦らず、やれるところから着実に前進と行きたいものです。まだ、大いに広めるといったことを考える段階ではないでしょうが、いつか立つその時に備えて力を蓄える方向で…。あとは、これまで同様、他の技法を学ぶ方々との交流の場を大切にし、自身が学ぶ体系を、その理念や原理原則を壊さないようにしつつも、同時に自分の技法として手足の如く使いこなせるよう、ヒントを得ていきたいものとも思います。流儀や伝統の尊重は必然ですが、同時に、どこにいても学びの主人公として責任を負うのはおのれ自身。また、自流以外のあらゆる技法に相応の力と価値が宿っているとも思うので、偏りのない広い視野を心がけたいものとも思います。本年もよろしくお願いします。

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クリスマスも終わり、2010年ももう終盤ですね。私には色々あったようななかったような1年でした。私の身体に関する学び関連では、クラニオと中国武術に特化した1年だったという印象です。

◆私の2010年(身体部門だけ)
数年続けてきたクラニオの基礎講座は、今年で講座部分は一通り終了、中国武術の教室には昨年12月に訪問、今年1月から本格的に行き始めた状態で、それぞれ転機を象徴するような動きだったかなと思っています。それまでの私は(クラニオ以外は)色々な身体関連の講座に首を突っ込んで…と繰り返しているところがあり、どうも落ち着きなかったですが、今年は大分落ち着いた感じがありました。まあ、それでも武術は他流派の講座に数回行きましたが、それでも大分減ったということで…。

◆クラニオ部門
クラニオ、武術領域で今年印象に残ったことを簡単にまとめてみると、クラニオに関しては、「待つ」「任せる」ことの重要性をより学んだというところでしょうか。クラニオ・バイオダイナミクスは、ここまで書いてきたように、身体はみずから環境に適応し、自らを調整する働きを常に発揮しており(人が不死身でないことから分かるように、やれる範囲には限界もありますが)、極力その「身体の内なる働き」に任せることを重視するため、クラニオでは「触れる」「そこに静かにいる」以外の能動的な行為(意識やエネルギーを送るなど)はしないわけです。ただ、これを適切に行うには、静かにしていると湧いてくる自分の煩悩や不安をどう扱うか、といった点に色々な壁があり、昨年の私なら、つい身体の変化の様子が気になってむやみに観察してみたり(それは相手に緊張をもたらし、受け手の人の身体が行うことを阻害しかねない)、自分自身の姿勢が気になって、自分が緊張してみたり(そして、その緊張は容易に受け手に伝わる)しがちでした。
今年は講座や日々の実践を通じて、そこから多少進み、「相手の方の身体の働きを信頼し、自身の身体と、自然に伝わってくる相手の身体の情報を受け取りながらひたすら待つ」という態度が少し理解できてきた気がします。まるで科学的ではないですが、クラニオ・バイオダイナミクスというのはそういうものであり、それで確かになにかが起きていく(…ように感じる)ので、私としては、来年も「無理なくそこにいる」ことの質をただ深めていこうと思っております。

◆武術部門
武術に関して印象に残ったこととしては、型の重要性が身体で理解できた点でしょうか。これまでの私は、本格的にどこかの教室に定期的に通って型を本格的に学んだことがなかったので、書籍などで型の重要性は認識していたつもりでしたが、要は内部感覚でカバーできればいいんだろうと思っていたところがありました。しかし、実際に型に取り組んでみると、先生が良しとする要件が守られた型・形には、独特の動的な働き(エネルギーやいわゆる気ではなく)が確かにおのずから生じることが認識でき、外形が似ていることと、手渡しの形はまったく違うのだということが良く分かりました。
あとは、同じ型を繰り返していると、ある場所で妙に引っかかったり、しんどかったりするので、自分の姿勢や動きの癖がより分かりやすい気もします。型は変わらないが故に、自分を測るものさしのようなものでもあるんでしょうね。内部感覚を研ぎ澄ます中で、必然的に姿勢が整う方法もあると思うので、「型がないと駄目」とは思いませんが、確かに、「形から入らないと分かりがたいこともある」というのは非常に印象に残りました。


…とまあ、少々抽象的ですが、こんな感じでしょうか。このブログも、クラニオ関連のみではネタが尽きてしまいがちなのと、私自身はクラニオを知ってはもらいたいが、ど派手に宣伝したいわけでもないのとで、どうなるやらという感じではありますが、来年もクラニオ・バイオダイナミクスの存在そのものの如く、細々と地味に続けていきたく思います。また、コメントを頂いた方々、ありがとうございました。拍手機能コメントには返信できないようなので、この場にて御礼申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。

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いくつか前の記事で書いたとおり、猫のいるお宅にセッションにうかがったとき、セッション中のいいタイミングに、その猫がベッドに登ってきた、ということがありました。そして先日、再びそのお宅を訪問したところ、その猫は最初からベッドの隅の方に待機していました。飼い主の方によると、私がその家を訪問する1分くらい前に突然ベッドに飛び乗ったとのこと。賢い猫です。動物は遠くからでも、個別の人の気配も分かるのでしょうね。思うに、野生動物が敵の姿を見た後でしか動くしかできなかったら危険なんか避けられないでしょうし、人間だって背後の攻撃の気配くらいは普通に分かるわけですから、動物が敏感なのはまあ、当たり前でしょうね。

今回、この猫は私がセッションをしている間中、ベッドの端でおとなしく座ったり、寝たりしており、セッション終了後は満足したようにベッドから降りていきました。原因はあいかわらず不明です。クラニオによって創られる場みたいなものがやっぱり気に入っているんだろうな、と思うのみです。他に気になる点としては、この猫は、クラニオが始まると、しばしばしきりに臭いをかいでいることがあります。クラニオセッションが始まると何か空気の臭いが変わるんでしょうか。クラニオは通常、およそ臭いとほど遠い技術ですが、セッションにより特別な臭いが立ち上るというよりは、猫はセッションの進行による何がしかの変化を鼻で感じようとしているのかも知れないとも思います。この体験ではほのぼのしたというくらいで、何が分かったということもなく、特にオチもないですが、まあ、こんな都会でも動物の野生(?)のようなものに触れていると嬉しいですね。

ちなみに動物といえば、前のwith猫セッション記事を書いた後、クラニオをやっている知人に、飼い犬にセッションをしたという話を聞くことができました。それによると、犬は受けるまでは抵抗を示していたものの、無理やりつかまえてやってしまった(?)ところ、眠り始めたそうです。もっとも、無理やりつかまえてやったのがまずかったのか、それ以降はやらせてくれなかったようです。クラニオをやっている別の方は、最初は飼い犬はクラニオをあまり好まなかったが、老犬になった最近は、かなりリラックスして眠りつつ受けているようだ、とのことでした。とりあえず、受けてさえくれれば、動物にも実感はあるみたいですね。まあ、私が10匹くらいの猫の前でクラニオをやったとして、10匹全てが寄ってくるわけでもあるまいし、結局は動物にも、ワーク自体や、それをやる人の好みがあるんでしょうね。

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知っている人には当たり前すぎて物足りず、知らない人には意味が分からないというような、かなりどうしようもない記事を連発しつつある気もしますが、始めてしまった物は仕方ないので無理やりでも定期的に書いていこうということで…。


 最近、今書いてるクラニオ論文の材料にと思って、江戸時代の武術書である「天狗芸術論」(古文書ではなく「武道秘伝書」という題名だけ普通でない普通の本に載ってるものです)を読んだんですが、なかなか面白かった。そして、結構辛口でした。
 その中で「なるほどたしかに」と思ったのが、修行して生死を超越した境地に至った坊さんは剣を手にとっても自由自在に動けるものか?というくだり。天狗(この武術書は武術修行者と天狗の問答の形を取っている)がその問いに答えて言うには、悟りを開いた坊さんは、輪廻の世界を離れ、常に死したも同然の心境に達しているので、剣で切られようとも、己の死にあおうと動じずにいることは可能と思うが、それだけでは生命を守る役には立たないだろう、とのこと。
 この文を読んで共感し、私も常々思うのは、技術と真理の探究だとか悟り(私自身は「悟り」が何かは、あんまり興味がないので良く分かってません)みたいなものはきっちり分けた方がいいんじゃないかな、ということ。例えばクラニオをやっていると、時々神秘的といえそうな体験をすることもあるけれども、クラニオは対人ボディワーク、もしくは医療的でないセラピーの類、つまり、あくまで「技術」であり、神秘体験を得るためにやるものではあるまい…という感じですか。


 天狗芸術論のお坊さんの例に戻ると、「悟った坊さん(仮)」は身体状態が非常に安定し「融通無碍・自由自在」な心境に達しており、おそらく「危機状態でも既存の枠組みに囚われず自由に行動することが可能」に違いないが、だからといって、武術の技ができる訳じゃあるまい、ということなんでしょうね。まあ、相手に対し「いい対応」をして、斬りかかるつもりだった悪人を改心させたり、武術家に他分野からアドバイスすることはできるかも知れないですが、いざ斬られる段になって、剣を華麗に扱ったり、おもむろに相手を投げ飛ばしたりできるかはまた別の問題だろうと。武術には技術としての武術の鍛錬(技術というのは、テクニックを覚えるというよりは、武術の技を効率的に行使しうる身体を練ることや、敵対的な相手との関係性を理解するといった色んな要素を含むと思います)というものが必要だろうと私も思います。…もし対応できたとしたら、それはたぶん少林寺とか宝蔵院の「武術を修行した坊さん」もしくは「坊さんのコスプレをした武術家」だったんでしょう。逆に、自分が思うがままに自由自在に動き、その動きの全てが技となるような武術の達人がいたとして、その技の使い手が皆立派な人格を持っていたり、高い境地に到達しているのかというと、それもまた微妙な気がします…。


 もちろん、武術の技と身体状態(結果的に精神状態でもある)は全くの無関係ではなく、「武術稽古を通じて自分の身体が変化する=武術の技の質が高まる⇒からだが変わることによってものの見え方、ひととの関わり方も変わっていく⇒(繰り返し)」といったことは普通にあり、非常に深い境地に至る人も多くいたのだろうと思います。しかし、武術も結局は、「我が身を守る技術を学ぶこと」を通じて色々な物を「結果的」に得ていくだけであって、なにか高邁な境地や真理(?)に達することや、神秘体験を得ることが「目的」ではないだろうと思います(あくまで個人的な考えですが)。
 エネルギーワークなども単体の技法として行われる分には別段害はないですが、それが武術の体系と結びついて「気の力は全てを救う」みたいな方向になり始めると、安っぽい宗教色や自己啓発セミナー色を帯びてきて、妙な感じになっていく場合もある気がします。別に武術とエネルギーワークが結びつくこと自体が悪いわけではなくて、武術に技術の錬磨以上の過剰な目的が期待されると、妙な方向になりやすい気がする、ということです。


 私も色々な講習会を放浪する中で、様々な例を見てきたし、自分自身が偉そうなことをしばしば言ってしまうもので、このお坊さんのくだりを読んで、色々考えさせられます。要はものごとを妙な期待無くありのままに見ることや、「身の程」を知ることが、結果的に健全さに繋がるって事じゃないかなとも思います。「天狗芸術論」はネタに使えそうなので、また気が向いたら取り上げてみます。

<参考までに本文>
問ふ、禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、修行の主意異なり、彼は輪廻を厭い、寂滅を期して、
初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。
故に多勢の敵の中にあって、この形は微塵になるとも、
念を動ぜざることは善くすべし。
生の用はなるべからず。唯死を厭はざるのみ。

「武道秘伝書」(吉田豊編 徳間書店)より
「天狗芸術論」自体は 丹羽十郎左衛門忠明の著
この人は「猫の妙術」の著者でもある。

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プロフィール
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。

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