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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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例によって、ブログ放置気味です…。
とりあえず、割と最近のセッションの所感など書いてみます。
一言で言い表すとすれば、「解剖図の身体イメージにとらわれない」というところです。

クラニオ・バイオダイナミクスも、多少方針が独特であるにせよ、やはりボディワークなので、頭部の解剖学などはそれなりに詳しく学びますし、○○骨のワーク、とか、内臓のワーク、のようなものも学びます。なにより、触れる対象はエネルギーやエーテル体といったものではなくて、肉体です。
それと同時に、セッションの時は、解剖図ではこの骨はここと連結しているからこう動くはず、といった推論を働かせずに、今目の前で起こっている状況に対応し続けることが必要で、「セッション中は(解剖学の)知識はカーテンの後ろ側に」と先生には教えられました。「解剖図の身体イメージにとらわれない」のロマン的表現というところでしょうか。
なお、誤解されるといけないので最初に断っておきますが、これは、「解剖図・解剖学を知らなくてよい」という事では全くなくて、「それらを知ったうえでセッションでは手放すことが重要」という話です。以下もその前提を踏まえた上での所感・見解なので誤解なきよう。


そして最近、どうもこの「知識はカーテンの後ろ側に」の理解があまり深くなかったなと感じるに至ったわけです。これまでは、解剖学の知識に基づいた分析は使わないにしても、何となくうすぼんやりと解剖学図のイメージに則ってセッションしていた気がしますが、クラニオバイオダイナミクスのセッションに関しては、それらのイメージは100%不要とは言わないにせよ、限りなく不要に近いのではなかろうかと何となく感じています。
少々妙な表現になりますが、セッション中は、骨であるはずの部位も液であるかのような感じがすることがあります。臓器である部位がエネルギーでできているかのような感じがすることもあります。上記は割と一般的な例で、不可思議なことは他にも色々あるわけですが、この例だけとっても、解剖学的にはありえないことだと思いますし、あくまで体感としてそう感じているだけなので、機械で測定してみたら何らかの解剖学的変化が見られる可能性は高いと思います。
ただ、その「常識的でない・科学的でない状態」を感じたことを無理に解剖図に当てはめたり、否定したりせずにセッションを続けていくことで、より深いセッションになる確率が上がったり、受ける方の身体システムが落ち着きやすいような気がしています。逆に、これまでの経験からすると、セッション中の変化を解剖図に当てはめたり分析したりすることで、(それはそれで問題なくセッションは成立するのですが)、本来ならもっと豊かに表現できたはずの、受ける方の「バイオダイナミック」な変化を微妙に阻害していたような気がしなくもありません。


これまで、クラニオは「調整」や「矯正」ではないと散々書いていますが、ではなんなのかというと「変容」なのではないかと最近は思っています。この「変容のワーク」という言葉もセミナー5くらいに先生から聞いた言葉なので、私が命名したわけではなく、今更実感している、というだけなのですが。
「変容」というのは、身体部位Aを緩めて骨Bが動くことで、骨Bの癒着により圧迫されていた部位が解放され…といった「因果関係」の世界ではなく、錬金術において、鉄が金に変わるイメージのように、静けさを挟んで、身体の様相がAからBという全く異なる状態に変わってしまうようなイメージです。
硬直した状態を「緩めて」いくのではなく、硬直した状態から緩んだ状態に「置き換わる」ような感じとでも言えるかもしれません。もちろん、あくまでイメージですので、実際のセッション中では先に書いた「因果関係の世界」が粛々と進行中かもしれませんが、セッション中の身体の変化の様子は、術者にとっては、この「変容」という言葉がしっくりきます。
これは私の主観のみならず、受けた方からも同じような内容の感想をいただくことがあります(もちろん、そういう感想でない場合もあります)。時にこちらが驚くような体験を語られる方もありますが、「スティルネス」や「ウィズダム イン ザ ボディ」といったクラニオ本で紹介されている「体験者の声」と、頂いた感想を改めて見直してみると結構似た表現があるので、「変容」をイメージさせるような結果は、クラニオ・バイオダイナミクスを実施することでしばしば発生しうる結果の1つなのだろうと思っています。


そんなわけで、最近の様子についてアバウトな表現で書いてみました。
なお、個人的には、今回書いたような内容は、私が向かうべきセッション方針として納得感があるのは確かですが、仮に私が全く同じ人に全く同じ方針でセッションを行ったとしても、受ける側や行う側の身体状態や関係性などによってセッション内容や結果は変わるくらいなので、今回書いたことがクラニオ・バイオダイナミクスの正解とかベストな結果だという気は全くありません。

また、解剖図などの「特定の形」にとらわれないことが良いとか高級と言いたいわけでもないです。個人的には、形があることもないことも、どちらにも正しさと価値があると思います。形や法則性があるものをしっかり学ぶからこそ、「形がないけど意味のある表現」ができるのだと思いますし、そこからまた形あるものへ戻って質を高め…といったスパイラル的な成長が可能とも思っています。また、あえて形に徹底的にこだわることで磨かれる道もあるように思います。
「同じものを学んでも最後は ひとりひと技」と私が学ぶ中国武術の先生や先輩も言われてましたが、クラニオも、身体寄りのセッションをする人や、エネルギーワークに近いセッションをする人、技術重視や気持ち重視など、色々な方針の方がいるでしょうし、技術の原理原則から外れない範囲で行われる限り、個人的な方針の好みや、経験の差異による技術の熟練度はあるにせよ、いろいろな解釈や表現があって良いと思います。

ちなみに、セッションを受けた方から、私自身がクラニオを受ける側として感動したことはあるかと聞かれ、受けて感動した覚えはほとんどないと答えてしまいましたが(もちろん受けた後は、受けてよかったなと思いますが、結構疲れているのか、ぐっすり寝てしまってセッション途中の詳細を覚えていないことが多く…)「やる側」としての感動体験には事欠かないと感じるしだいです。


5/20追記
先日セッションをした際、そういえば、セッション中に解剖図がふと浮かんでくる場合もあるよなと感じました。こういった場合は上記と反対で「浮かんできた解剖図を見まいとする」ほうが不自然な感じがします。「解剖図にとらわれない」というのは、その時々に応じて解剖図のイメージを使うことも使わないこともできる、という両方の意味があるよなと思った出来事でした。どんな手段も使い方によりけりというところでしょうね。

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朧 こと 今野
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自己紹介:
会社員生活の傍ら、ICSBという団体の教程で手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。

「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。

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