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クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
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知っている人には当たり前すぎて物足りず、知らない人には意味が分からないというような、かなりどうしようもない記事を連発しつつある気もしますが、始めてしまった物は仕方ないので無理やりでも定期的に書いていこうということで…。
◆
最近、今書いてるクラニオ論文の材料にと思って、江戸時代の武術書である「天狗芸術論」(古文書ではなく「武道秘伝書」という題名だけ普通でない普通の本に載ってるものです)を読んだんですが、なかなか面白かった。そして、結構辛口でした。
その中で「なるほどたしかに」と思ったのが、修行して生死を超越した境地に至った坊さんは剣を手にとっても自由自在に動けるものか?というくだり。天狗(この武術書は武術修行者と天狗の問答の形を取っている)がその問いに答えて言うには、悟りを開いた坊さんは、輪廻の世界を離れ、常に死したも同然の心境に達しているので、剣で切られようとも、己の死にあおうと動じずにいることは可能と思うが、それだけでは生命を守る役には立たないだろう、とのこと。
この文を読んで共感し、私も常々思うのは、技術と真理の探究だとか悟り(私自身は「悟り」が何かは、あんまり興味がないので良く分かってません)みたいなものはきっちり分けた方がいいんじゃないかな、ということ。例えばクラニオをやっていると、時々神秘的といえそうな体験をすることもあるけれども、クラニオは対人ボディワーク、もしくは医療的でないセラピーの類、つまり、あくまで「技術」であり、神秘体験を得るためにやるものではあるまい…という感じですか。
◆
天狗芸術論のお坊さんの例に戻ると、「悟った坊さん(仮)」は身体状態が非常に安定し「融通無碍・自由自在」な心境に達しており、おそらく「危機状態でも既存の枠組みに囚われず自由に行動することが可能」に違いないが、だからといって、武術の技ができる訳じゃあるまい、ということなんでしょうね。まあ、相手に対し「いい対応」をして、斬りかかるつもりだった悪人を改心させたり、武術家に他分野からアドバイスすることはできるかも知れないですが、いざ斬られる段になって、剣を華麗に扱ったり、おもむろに相手を投げ飛ばしたりできるかはまた別の問題だろうと。武術には技術としての武術の鍛錬(技術というのは、テクニックを覚えるというよりは、武術の技を効率的に行使しうる身体を練ることや、敵対的な相手との関係性を理解するといった色んな要素を含むと思います)というものが必要だろうと私も思います。…もし対応できたとしたら、それはたぶん少林寺とか宝蔵院の「武術を修行した坊さん」もしくは「坊さんのコスプレをした武術家」だったんでしょう。逆に、自分が思うがままに自由自在に動き、その動きの全てが技となるような武術の達人がいたとして、その技の使い手が皆立派な人格を持っていたり、高い境地に到達しているのかというと、それもまた微妙な気がします…。
◆
もちろん、武術の技と身体状態(結果的に精神状態でもある)は全くの無関係ではなく、「武術稽古を通じて自分の身体が変化する=武術の技の質が高まる⇒からだが変わることによってものの見え方、ひととの関わり方も変わっていく⇒(繰り返し)」といったことは普通にあり、非常に深い境地に至る人も多くいたのだろうと思います。しかし、武術も結局は、「我が身を守る技術を学ぶこと」を通じて色々な物を「結果的」に得ていくだけであって、なにか高邁な境地や真理(?)に達することや、神秘体験を得ることが「目的」ではないだろうと思います(あくまで個人的な考えですが)。
エネルギーワークなども単体の技法として行われる分には別段害はないですが、それが武術の体系と結びついて「気の力は全てを救う」みたいな方向になり始めると、安っぽい宗教色や自己啓発セミナー色を帯びてきて、妙な感じになっていく場合もある気がします。別に武術とエネルギーワークが結びつくこと自体が悪いわけではなくて、武術に技術の錬磨以上の過剰な目的が期待されると、妙な方向になりやすい気がする、ということです。
◆
私も色々な講習会を放浪する中で、様々な例を見てきたし、自分自身が偉そうなことをしばしば言ってしまうもので、このお坊さんのくだりを読んで、色々考えさせられます。要はものごとを妙な期待無くありのままに見ることや、「身の程」を知ることが、結果的に健全さに繋がるって事じゃないかなとも思います。「天狗芸術論」はネタに使えそうなので、また気が向いたら取り上げてみます。
<参考までに本文>
問ふ、禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、修行の主意異なり、彼は輪廻を厭い、寂滅を期して、
初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。
故に多勢の敵の中にあって、この形は微塵になるとも、
念を動ぜざることは善くすべし。
生の用はなるべからず。唯死を厭はざるのみ。
「武道秘伝書」(吉田豊編 徳間書店)より
「天狗芸術論」自体は 丹羽十郎左衛門忠明の著
この人は「猫の妙術」の著者でもある。
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最近、今書いてるクラニオ論文の材料にと思って、江戸時代の武術書である「天狗芸術論」(古文書ではなく「武道秘伝書」という題名だけ普通でない普通の本に載ってるものです)を読んだんですが、なかなか面白かった。そして、結構辛口でした。
その中で「なるほどたしかに」と思ったのが、修行して生死を超越した境地に至った坊さんは剣を手にとっても自由自在に動けるものか?というくだり。天狗(この武術書は武術修行者と天狗の問答の形を取っている)がその問いに答えて言うには、悟りを開いた坊さんは、輪廻の世界を離れ、常に死したも同然の心境に達しているので、剣で切られようとも、己の死にあおうと動じずにいることは可能と思うが、それだけでは生命を守る役には立たないだろう、とのこと。
この文を読んで共感し、私も常々思うのは、技術と真理の探究だとか悟り(私自身は「悟り」が何かは、あんまり興味がないので良く分かってません)みたいなものはきっちり分けた方がいいんじゃないかな、ということ。例えばクラニオをやっていると、時々神秘的といえそうな体験をすることもあるけれども、クラニオは対人ボディワーク、もしくは医療的でないセラピーの類、つまり、あくまで「技術」であり、神秘体験を得るためにやるものではあるまい…という感じですか。
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天狗芸術論のお坊さんの例に戻ると、「悟った坊さん(仮)」は身体状態が非常に安定し「融通無碍・自由自在」な心境に達しており、おそらく「危機状態でも既存の枠組みに囚われず自由に行動することが可能」に違いないが、だからといって、武術の技ができる訳じゃあるまい、ということなんでしょうね。まあ、相手に対し「いい対応」をして、斬りかかるつもりだった悪人を改心させたり、武術家に他分野からアドバイスすることはできるかも知れないですが、いざ斬られる段になって、剣を華麗に扱ったり、おもむろに相手を投げ飛ばしたりできるかはまた別の問題だろうと。武術には技術としての武術の鍛錬(技術というのは、テクニックを覚えるというよりは、武術の技を効率的に行使しうる身体を練ることや、敵対的な相手との関係性を理解するといった色んな要素を含むと思います)というものが必要だろうと私も思います。…もし対応できたとしたら、それはたぶん少林寺とか宝蔵院の「武術を修行した坊さん」もしくは「坊さんのコスプレをした武術家」だったんでしょう。逆に、自分が思うがままに自由自在に動き、その動きの全てが技となるような武術の達人がいたとして、その技の使い手が皆立派な人格を持っていたり、高い境地に到達しているのかというと、それもまた微妙な気がします…。
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もちろん、武術の技と身体状態(結果的に精神状態でもある)は全くの無関係ではなく、「武術稽古を通じて自分の身体が変化する=武術の技の質が高まる⇒からだが変わることによってものの見え方、ひととの関わり方も変わっていく⇒(繰り返し)」といったことは普通にあり、非常に深い境地に至る人も多くいたのだろうと思います。しかし、武術も結局は、「我が身を守る技術を学ぶこと」を通じて色々な物を「結果的」に得ていくだけであって、なにか高邁な境地や真理(?)に達することや、神秘体験を得ることが「目的」ではないだろうと思います(あくまで個人的な考えですが)。
エネルギーワークなども単体の技法として行われる分には別段害はないですが、それが武術の体系と結びついて「気の力は全てを救う」みたいな方向になり始めると、安っぽい宗教色や自己啓発セミナー色を帯びてきて、妙な感じになっていく場合もある気がします。別に武術とエネルギーワークが結びつくこと自体が悪いわけではなくて、武術に技術の錬磨以上の過剰な目的が期待されると、妙な方向になりやすい気がする、ということです。
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私も色々な講習会を放浪する中で、様々な例を見てきたし、自分自身が偉そうなことをしばしば言ってしまうもので、このお坊さんのくだりを読んで、色々考えさせられます。要はものごとを妙な期待無くありのままに見ることや、「身の程」を知ることが、結果的に健全さに繋がるって事じゃないかなとも思います。「天狗芸術論」はネタに使えそうなので、また気が向いたら取り上げてみます。
<参考までに本文>
問ふ、禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、修行の主意異なり、彼は輪廻を厭い、寂滅を期して、
初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。
故に多勢の敵の中にあって、この形は微塵になるとも、
念を動ぜざることは善くすべし。
生の用はなるべからず。唯死を厭はざるのみ。
「武道秘伝書」(吉田豊編 徳間書店)より
「天狗芸術論」自体は 丹羽十郎左衛門忠明の著
この人は「猫の妙術」の著者でもある。
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相変わらずスローペース更新です…。
なんとなく最近「ん?」と感じるのが、「内観」という語の使われ方について。この語については前にもここで書きましたが、正確な定義自体は多分、色んな技法ごとに異なると思われるので、「一般的」にはどういうことを指すのか、私はいまいち分かってないです。ただ、自分が「内観」と書いた時、それに対するリアクションにたまに微妙にずれがある気がすることもあるので、最近その「ずれ」と感じる部分について簡単に書いてみます。あくまで私の勝手な定義ですが。
◆
内観は「自分の身体内のどこかをじっくり意識する」という意味合いで使われる場合が比較的多いと思いますが、私自身が「内観」という語を用いる時は、「自分の身体全体に何となく意識を向け続けている状態」を指して使っている場合も多いです。内観そのものは殊更に集中力を必要とするものではないので、会話や食事をしながら、同時に身体全体にわずかに意識を向け続けていることは十分可能です。実際、私自身はこれを書いている今も、ごくわずかな注意を自分の身体全体に向けています。自分の身体内部を目をつむってじっくり意識する(眺める)のは、必要な場合もありますし、細かく見られるにこしたことはないですが、じっくり見つめるほどに意識した部位が緊張するので、普段の状態としては、あまりじっくり見つめすぎるとかえって自分の動きを制限してしまい、逆効果でしょう。そういう風に常時さりげなく使えなければ、動き回る武術などでは、状況把握用のセンサー(なお、見るのは相手でなくて自分の身体状態です。自分の身体には「同調」により色々な情報が伝わります。)として使いようもなかろうとも思われます。
また、身体に意識を向けているといっても、「分析をしているわけではない」ともいえます。ただ、「身体がそこにあることを感じている」という感じでしょうか。例えば、腕が緊張していたとして、それを感じるのは、身体に何となく注意を向けた状態により、勝手に情報として伝わってくる何かからそう判断しているだけであって、普段は「君は緊張しているか、否か?」などと腕と殊更に対話をしているわけではないです。むしろ、情報を過不足無く受け取る邪魔になるので、細かく見たい、という場合も内観に関しては、分析や対話的手法はあまり役に立たない気がします。あとは、分析した場合も、分析されたあたりの部位は更に緊張しそうな気がしますね。
まあ、内観というのは小難しい言葉ですが、単に全身の手足や頭、胴体がちゃんとそこに存在していることを確認し続けている程度のことなんだろうと思います。私自身はこれを、武術などを学ぶずっと前から無意識にやっている気がするので、いろいろな経験を経て、より色々な状況でも変わらず意識を向けていられるようになった気もしますが、特別なことという気はしません。いわゆる「グラウンディング」に役立つものではあると思いますが、おそらく誰もが持っている身体意識の感知力なんじゃないかなと思っています。
◆
もっとも、内観によって「特に意識が薄くなる部位」「意識が届きにくい部位」というのもあります。全身を感じていても、緊張している部位などはぽっかりと穴でも空いているかのようで、意図的に細かく感じようとしないと、なかなか存在が感じられなかったりもします。また、なにかにのめり込んでいる時も、内観の精度は鈍りがちです。例えば、最近よく見かける、街中で携帯などをいじっている人が「全身とてつもなく無防備」なのは、「自分の身体に意識が向いていない(自分の身体状態が内観できてない)」からだと思われます。こうなると、後ろから押されでもしたら、ろくに反応もできずに階段等から転落すると思われるので、いちおう武術などをたしなむものとして、見ていて複雑な心境です。携帯を弄りながらでも身体に意識を置いていれば(内観できていれば)、多少は無防備度が減るとは思いますので、甚だ余計なお世話ながら、私の心の平和のためにも、街中においては是非、姿勢を正し、自分の身体を意識しながら紳士的に携帯や携帯ゲーム機を弄って頂きたいものです。結果的にそういった習慣を身につけたほうが、なまじ殴り方や投げ技なんか覚えようとするよりも、余程セルフディフェンスになるとも思います。
まあ、より全身が過不足無く感じられ、それが自分の行動を制限しない程度の凝視度であるならば、「ふだんの内観」としては、まあまあよいのじゃないかと思っています。要するに身体の存在をいつも感じることで、変にぼんやりしたり、妄想や仮想世界に全力で突貫することなく、目の前の状況に対してふつうの対応力を発揮できるようにする、というだけなんでしょうね。ここに書いたようなことは「全身に意が行き渡っている」などといっても良いですが、多分それは私がここでいう内観を更に高度にしたようなもので、意味合いが異なりそうなので、私はただ「内観」とだけ呼んでいるわけでした。
なんとなく最近「ん?」と感じるのが、「内観」という語の使われ方について。この語については前にもここで書きましたが、正確な定義自体は多分、色んな技法ごとに異なると思われるので、「一般的」にはどういうことを指すのか、私はいまいち分かってないです。ただ、自分が「内観」と書いた時、それに対するリアクションにたまに微妙にずれがある気がすることもあるので、最近その「ずれ」と感じる部分について簡単に書いてみます。あくまで私の勝手な定義ですが。
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内観は「自分の身体内のどこかをじっくり意識する」という意味合いで使われる場合が比較的多いと思いますが、私自身が「内観」という語を用いる時は、「自分の身体全体に何となく意識を向け続けている状態」を指して使っている場合も多いです。内観そのものは殊更に集中力を必要とするものではないので、会話や食事をしながら、同時に身体全体にわずかに意識を向け続けていることは十分可能です。実際、私自身はこれを書いている今も、ごくわずかな注意を自分の身体全体に向けています。自分の身体内部を目をつむってじっくり意識する(眺める)のは、必要な場合もありますし、細かく見られるにこしたことはないですが、じっくり見つめるほどに意識した部位が緊張するので、普段の状態としては、あまりじっくり見つめすぎるとかえって自分の動きを制限してしまい、逆効果でしょう。そういう風に常時さりげなく使えなければ、動き回る武術などでは、状況把握用のセンサー(なお、見るのは相手でなくて自分の身体状態です。自分の身体には「同調」により色々な情報が伝わります。)として使いようもなかろうとも思われます。
また、身体に意識を向けているといっても、「分析をしているわけではない」ともいえます。ただ、「身体がそこにあることを感じている」という感じでしょうか。例えば、腕が緊張していたとして、それを感じるのは、身体に何となく注意を向けた状態により、勝手に情報として伝わってくる何かからそう判断しているだけであって、普段は「君は緊張しているか、否か?」などと腕と殊更に対話をしているわけではないです。むしろ、情報を過不足無く受け取る邪魔になるので、細かく見たい、という場合も内観に関しては、分析や対話的手法はあまり役に立たない気がします。あとは、分析した場合も、分析されたあたりの部位は更に緊張しそうな気がしますね。
まあ、内観というのは小難しい言葉ですが、単に全身の手足や頭、胴体がちゃんとそこに存在していることを確認し続けている程度のことなんだろうと思います。私自身はこれを、武術などを学ぶずっと前から無意識にやっている気がするので、いろいろな経験を経て、より色々な状況でも変わらず意識を向けていられるようになった気もしますが、特別なことという気はしません。いわゆる「グラウンディング」に役立つものではあると思いますが、おそらく誰もが持っている身体意識の感知力なんじゃないかなと思っています。
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もっとも、内観によって「特に意識が薄くなる部位」「意識が届きにくい部位」というのもあります。全身を感じていても、緊張している部位などはぽっかりと穴でも空いているかのようで、意図的に細かく感じようとしないと、なかなか存在が感じられなかったりもします。また、なにかにのめり込んでいる時も、内観の精度は鈍りがちです。例えば、最近よく見かける、街中で携帯などをいじっている人が「全身とてつもなく無防備」なのは、「自分の身体に意識が向いていない(自分の身体状態が内観できてない)」からだと思われます。こうなると、後ろから押されでもしたら、ろくに反応もできずに階段等から転落すると思われるので、いちおう武術などをたしなむものとして、見ていて複雑な心境です。携帯を弄りながらでも身体に意識を置いていれば(内観できていれば)、多少は無防備度が減るとは思いますので、甚だ余計なお世話ながら、私の心の平和のためにも、街中においては是非、姿勢を正し、自分の身体を意識しながら紳士的に携帯や携帯ゲーム機を弄って頂きたいものです。結果的にそういった習慣を身につけたほうが、なまじ殴り方や投げ技なんか覚えようとするよりも、余程セルフディフェンスになるとも思います。
まあ、より全身が過不足無く感じられ、それが自分の行動を制限しない程度の凝視度であるならば、「ふだんの内観」としては、まあまあよいのじゃないかと思っています。要するに身体の存在をいつも感じることで、変にぼんやりしたり、妄想や仮想世界に全力で突貫することなく、目の前の状況に対してふつうの対応力を発揮できるようにする、というだけなんでしょうね。ここに書いたようなことは「全身に意が行き渡っている」などといっても良いですが、多分それは私がここでいう内観を更に高度にしたようなもので、意味合いが異なりそうなので、私はただ「内観」とだけ呼んでいるわけでした。
めんどい事は当分書かない等といっておきながら、唐突に「トラウマ化」について書いてみます。読みたい方は自分に当てはまる!とか、あまりびびらないで読んで下さい。特別なことをしなくても、多分なんとかできてます。すくなくとも、薬などでどうこうする状態ではないです。
◆トラウマ化とは
クラニオでいう「トラウマ化」は、「○○が苦手」であるとか、「過去の出来事に付随した嫌な体験」という意味では使いません。色々な心身のストレスを受けた結果、自律神経系が過剰に活性化しやすくなり、自律神経が「ニュートラルな(ふつうの)状態」に戻りにくくなっている状態のことを呼びます。病気ではありません。あくまで「そういう身体状態」です。ちなみにこの「トラウマ化」の考えは、「ソマティック・エクスペリエンス」という心理学関連のワークの考えをほぼそのまま踏襲したものです。心理系のワークなので、クラニオとアプローチは違いますが、「トラウマはあくまで身体の状態」「解決に過去を振り返る必要なし」と喝破した画期的なワークです。
ちなみに、自律神経系とは、交感神経と副交感神経から成る神経系です。簡単に言えば、活動と鎮静のバランスを司る神経ですね。活動を司るのが交感神経、鎮静を司るのが副交感神経です。行動が必要な時は交感神経が活性化し、休息などが必要な場合は副交感神経が活性化する、という感じで、生きていくにはどちらの機能も必要です。両方がバランスよく働いているのが、ひとつの理想的な状態といえるでしょう。それらが過剰に活性化することも、別に悪いわけではありません。実際、激怒したり、尋常でなく落ち込んでしばらく無気力だったり、といった状態は誰しも経験はあるかと思います。でも、人間の身体は自動的に自分の状態を調整し、環境に適応するための働きを持っているので、大抵は、これらの過剰に活性化した自律神経系もある程度時間が経てば元に戻ります。
ただ、事故などの非常に強力なストレス要因に出会ったり、長期にわたるストレス状態に置かれると、交感神経や副交感神経のスイッチが入ったままになってしまい、興奮すべきでないところでも興奮していたり、といったことが起きます。例えば、交感神経の過活性が常態化すると、常に周囲が全部敵だと思えるとか、眠いはずなのに眠れないなどが起こり、副交感神経が過活性になる場合は、いつまでも無気力状態だったりします。目の前の出来事が大変厳しい場合、自律神経系の過活性は、その場を凌ぐのに必要な選択肢の一つですが、その危機が去り、過活性が必要なくなってもそのままだと、いろいろ生活に不都合なので困るということです。それが「トラウマ化」の状態です。
人の身体は自分で調整ができるけれども、その調整機能には限界もあるので、その調整の方向がたまにオーバーだったり、現状に適切でない方向に向かったまま止まっていることもあるということですね。アレルギーの説明などでしばしば聞く「免疫系がオーバーに働いている」の、自律神経版みたいに考えるとよいかもしれません。
◆対応できるトラウマ化
これらの「トラウマ化」という状態はただの概念や精神論ではなく、肉体(おそらく人体周囲に展開するエネルギーフィールドも含む)の状態と連動しており、「トラウマ化」した身体状態は、自律神経系が存在する脳幹の緊張や、身体各所の微妙な緊張、身体内のエネルギーの不均衡などの形で表現されていることが多いようです。「トラウマ化」という名前はごついですが、前述の通り、結局は肩こりなどと同じ「ある身体の状態」なのだから、いちいち複雑な手段を用いなくても、適切な身体への働きかけでなんとかなる可能性は高いと思います。実際、たいていの人の身体調整・適応機能は、一時ずれていても、色々な出来事を通じて自機能の状態を再認識し、自分に負荷がかからないよう、無意識のうちにある程度対応できているのだと思います。
クラニオは、それらのトラウマ化状態に対応しうる技法のひとつとされていますので、トラウマ化状態の負荷軽減や早期解決の助けになることもあると思います。まあ、しんどくなくても、何だかんだいって、自律神経系の状態は自分ではなかなか判断しようもなく、結構お疲れだったりするようなので、楽にはなるかも知れません。クラニオの場合は、セッションを通じて、受け手の方の身体に、今よりもニュートラルな・楽な状態を「探してもらう(受ける人自体はだいたい寝てますが、身体のほうがやってくれるということです)」ことを通じ、自ら「自律神経がニュートラル・ふつう」な状態を取り戻す手助けをすることになります。調整する働きを持っているのは身体自体であり、トラウマ化と言っても、その調整の方向性が一時的に少々ずれただけなので、クラニオはあくまでそれのサポートに徹するのみで大丈夫、ということですね。
ちなみに、うつ状態くらいなら、トラウマ化の範疇かも知れませんが、トラウマ化と精神疾患はイコールと断言できません。ゆえに、多重人格など、複雑な精神疾患のケースはクラニオではサポートくらいはできても、完全な対応は難しいと思われます。いずれにせよ、トラウマ化は「病気以前の状態」というところだと思うので、大変な精神疾患に対しては、クラニオ等よりも心療の専門家の方のところに向かうのが適切であるとお断りしておきます。
◆対トラウマ化
なお、いうまでもないですが、強いストレスや継続的なストレスを受けても、誰しもがトラウマ化するわけではありません。トラウマ化しないで冷静に対応できるどころか、苦難を自分の糧にしてしまうような人もたくさんいます。何ヶ月か前に話題になった、チリの落盤事故でも、同じ出来事に遭っているのに、かなりダメージを受けた人から、他の人をケアできる程余裕がある人まで様々だったことからも分かると思います。クラニオ云々を超えて、ストレスを上手に乗り越えられる人にはどんな違いがあるのかについて明確化、普遍化できれば色々益するところは多そうに思います。とりあえず、以下の2点は(当たり前なんですが)「ストレス対応術もといトラウマ化しづらさ」と関係が深そうです。
ひとつは、その人には「既存の出来事によるトラウマ化の影響がほとんどない」ので、落ち着いて行動できるという点。トラウマ化していると、刺激に過敏に反応しやすくなりますが、逆だと、その人本来の普通の対応がしやすいので、少々困難な状況でも乗り越えるための力を発揮しやすいでしょう。この実現には、クラニオや他の適切なワークを受けても助けになるかも知れないし、その人なりの日常の習慣や行動パターンなどが役に立っていることも多いかも知れません。いうなれば、対ストレスの「土台」の部分ですかね。
もうひとつは、自律神経系が容易に過活性しないような身体技法やこつを身体で体得している、という点。これは、メカニズムについては不明ですが、様々な人生経験を乗り越える中で、ストレスをうまく受け流すコツを覚えていたり、武術やヨガなどを学ぶ中で、自分の状態をニュートラル・冷静に保つ習慣を身につけている、といったことが関連しているものと思います。特に武術の対人稽古は「攻撃という形で自分に与えられたストレスを、自分への被害を最小限にしたまま、如何に冷静かつ適切に処理するか」という性質が強いと思うので、日常のストレスにも応用できる部分は大きいと思います。前述のように、トラウマ化といっても「身体の特殊な緊張状態」みたいなものなので、身体技法への取り組み方によっては、いかようにも対応のしようはあるのでは、とは思われます。こちらは対ストレスの「技術」に当たる部分でしょう。
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…というわけで、トラウマ化について色々語ってみました。まあ、ひとくちにトラウマ化といっても、程度の差もあるだろうし、案外身近なものであると同時に、絶望するほど大袈裟な状態でもないといえるとは思います。思うに、身近に興奮しやすい人や、気力が著しくなさそうな人などがいるとして、彼らも本当はそういう性格ではないのに、「なんか酷い目にあって一時的にトラウマ化している」だけかもしれないですね。まあ、結構付き合いもしんどいでしょうから、仏のように親切にするのは難しいかも知れないですが、なにかその人に問題があっても、正面から非難したり激突したりするのを避けたり、仕事の割り振りなどでも大きすぎる刺激に圧倒されないよう工夫してあげれば、時間が経つにつれ落ち着いてくるかも知れません。周囲もトラウマ化についての理解やサポートへの協力も必要かも知れませんね。私自身はこの程度しか分かっていないですが、このトラウマ化への理解やストレス対応方法によって、結構色々なことが楽になると思うので、今後も理解を深めていきたいと思っています。
◆トラウマ化とは
クラニオでいう「トラウマ化」は、「○○が苦手」であるとか、「過去の出来事に付随した嫌な体験」という意味では使いません。色々な心身のストレスを受けた結果、自律神経系が過剰に活性化しやすくなり、自律神経が「ニュートラルな(ふつうの)状態」に戻りにくくなっている状態のことを呼びます。病気ではありません。あくまで「そういう身体状態」です。ちなみにこの「トラウマ化」の考えは、「ソマティック・エクスペリエンス」という心理学関連のワークの考えをほぼそのまま踏襲したものです。心理系のワークなので、クラニオとアプローチは違いますが、「トラウマはあくまで身体の状態」「解決に過去を振り返る必要なし」と喝破した画期的なワークです。
ちなみに、自律神経系とは、交感神経と副交感神経から成る神経系です。簡単に言えば、活動と鎮静のバランスを司る神経ですね。活動を司るのが交感神経、鎮静を司るのが副交感神経です。行動が必要な時は交感神経が活性化し、休息などが必要な場合は副交感神経が活性化する、という感じで、生きていくにはどちらの機能も必要です。両方がバランスよく働いているのが、ひとつの理想的な状態といえるでしょう。それらが過剰に活性化することも、別に悪いわけではありません。実際、激怒したり、尋常でなく落ち込んでしばらく無気力だったり、といった状態は誰しも経験はあるかと思います。でも、人間の身体は自動的に自分の状態を調整し、環境に適応するための働きを持っているので、大抵は、これらの過剰に活性化した自律神経系もある程度時間が経てば元に戻ります。
ただ、事故などの非常に強力なストレス要因に出会ったり、長期にわたるストレス状態に置かれると、交感神経や副交感神経のスイッチが入ったままになってしまい、興奮すべきでないところでも興奮していたり、といったことが起きます。例えば、交感神経の過活性が常態化すると、常に周囲が全部敵だと思えるとか、眠いはずなのに眠れないなどが起こり、副交感神経が過活性になる場合は、いつまでも無気力状態だったりします。目の前の出来事が大変厳しい場合、自律神経系の過活性は、その場を凌ぐのに必要な選択肢の一つですが、その危機が去り、過活性が必要なくなってもそのままだと、いろいろ生活に不都合なので困るということです。それが「トラウマ化」の状態です。
人の身体は自分で調整ができるけれども、その調整機能には限界もあるので、その調整の方向がたまにオーバーだったり、現状に適切でない方向に向かったまま止まっていることもあるということですね。アレルギーの説明などでしばしば聞く「免疫系がオーバーに働いている」の、自律神経版みたいに考えるとよいかもしれません。
◆対応できるトラウマ化
これらの「トラウマ化」という状態はただの概念や精神論ではなく、肉体(おそらく人体周囲に展開するエネルギーフィールドも含む)の状態と連動しており、「トラウマ化」した身体状態は、自律神経系が存在する脳幹の緊張や、身体各所の微妙な緊張、身体内のエネルギーの不均衡などの形で表現されていることが多いようです。「トラウマ化」という名前はごついですが、前述の通り、結局は肩こりなどと同じ「ある身体の状態」なのだから、いちいち複雑な手段を用いなくても、適切な身体への働きかけでなんとかなる可能性は高いと思います。実際、たいていの人の身体調整・適応機能は、一時ずれていても、色々な出来事を通じて自機能の状態を再認識し、自分に負荷がかからないよう、無意識のうちにある程度対応できているのだと思います。
クラニオは、それらのトラウマ化状態に対応しうる技法のひとつとされていますので、トラウマ化状態の負荷軽減や早期解決の助けになることもあると思います。まあ、しんどくなくても、何だかんだいって、自律神経系の状態は自分ではなかなか判断しようもなく、結構お疲れだったりするようなので、楽にはなるかも知れません。クラニオの場合は、セッションを通じて、受け手の方の身体に、今よりもニュートラルな・楽な状態を「探してもらう(受ける人自体はだいたい寝てますが、身体のほうがやってくれるということです)」ことを通じ、自ら「自律神経がニュートラル・ふつう」な状態を取り戻す手助けをすることになります。調整する働きを持っているのは身体自体であり、トラウマ化と言っても、その調整の方向性が一時的に少々ずれただけなので、クラニオはあくまでそれのサポートに徹するのみで大丈夫、ということですね。
ちなみに、うつ状態くらいなら、トラウマ化の範疇かも知れませんが、トラウマ化と精神疾患はイコールと断言できません。ゆえに、多重人格など、複雑な精神疾患のケースはクラニオではサポートくらいはできても、完全な対応は難しいと思われます。いずれにせよ、トラウマ化は「病気以前の状態」というところだと思うので、大変な精神疾患に対しては、クラニオ等よりも心療の専門家の方のところに向かうのが適切であるとお断りしておきます。
◆対トラウマ化
なお、いうまでもないですが、強いストレスや継続的なストレスを受けても、誰しもがトラウマ化するわけではありません。トラウマ化しないで冷静に対応できるどころか、苦難を自分の糧にしてしまうような人もたくさんいます。何ヶ月か前に話題になった、チリの落盤事故でも、同じ出来事に遭っているのに、かなりダメージを受けた人から、他の人をケアできる程余裕がある人まで様々だったことからも分かると思います。クラニオ云々を超えて、ストレスを上手に乗り越えられる人にはどんな違いがあるのかについて明確化、普遍化できれば色々益するところは多そうに思います。とりあえず、以下の2点は(当たり前なんですが)「ストレス対応術もといトラウマ化しづらさ」と関係が深そうです。
ひとつは、その人には「既存の出来事によるトラウマ化の影響がほとんどない」ので、落ち着いて行動できるという点。トラウマ化していると、刺激に過敏に反応しやすくなりますが、逆だと、その人本来の普通の対応がしやすいので、少々困難な状況でも乗り越えるための力を発揮しやすいでしょう。この実現には、クラニオや他の適切なワークを受けても助けになるかも知れないし、その人なりの日常の習慣や行動パターンなどが役に立っていることも多いかも知れません。いうなれば、対ストレスの「土台」の部分ですかね。
もうひとつは、自律神経系が容易に過活性しないような身体技法やこつを身体で体得している、という点。これは、メカニズムについては不明ですが、様々な人生経験を乗り越える中で、ストレスをうまく受け流すコツを覚えていたり、武術やヨガなどを学ぶ中で、自分の状態をニュートラル・冷静に保つ習慣を身につけている、といったことが関連しているものと思います。特に武術の対人稽古は「攻撃という形で自分に与えられたストレスを、自分への被害を最小限にしたまま、如何に冷静かつ適切に処理するか」という性質が強いと思うので、日常のストレスにも応用できる部分は大きいと思います。前述のように、トラウマ化といっても「身体の特殊な緊張状態」みたいなものなので、身体技法への取り組み方によっては、いかようにも対応のしようはあるのでは、とは思われます。こちらは対ストレスの「技術」に当たる部分でしょう。
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…というわけで、トラウマ化について色々語ってみました。まあ、ひとくちにトラウマ化といっても、程度の差もあるだろうし、案外身近なものであると同時に、絶望するほど大袈裟な状態でもないといえるとは思います。思うに、身近に興奮しやすい人や、気力が著しくなさそうな人などがいるとして、彼らも本当はそういう性格ではないのに、「なんか酷い目にあって一時的にトラウマ化している」だけかもしれないですね。まあ、結構付き合いもしんどいでしょうから、仏のように親切にするのは難しいかも知れないですが、なにかその人に問題があっても、正面から非難したり激突したりするのを避けたり、仕事の割り振りなどでも大きすぎる刺激に圧倒されないよう工夫してあげれば、時間が経つにつれ落ち着いてくるかも知れません。周囲もトラウマ化についての理解やサポートへの協力も必要かも知れませんね。私自身はこの程度しか分かっていないですが、このトラウマ化への理解やストレス対応方法によって、結構色々なことが楽になると思うので、今後も理解を深めていきたいと思っています。
◆賢い猫
今日はクライアントさんのお宅に伺ってセッションをしました。そして、セッションを初めてしばらくしたら、クライアントさんの飼い猫が、ベッドに上がって眠り始めました。しかも、その猫は、最初は周囲で臭いをかいでいるだけだったのが、私が「ロングタイド」を感じ始めるや、おもむろにベッドに上がってきて、その後、私がセッションに心地よさを覚えた時には眠っているというタイミングの良さ。おそらく、セッションが「ロングタイド」にシフトしたことが猫には離れていても分かったのでしょう。実に賢いです。見事な感覚です。というか、私よりも明らかに分かってるようです…。動物はこういった見えざる働きに対しては人間より遥かに鋭敏な感覚を持っているんでしょうね。
ちなみに、「ロングタイド」というのは、これまでたびたび書いてきた「1次呼吸」の種類のひとつで、その中でも微風が吹いているかのように感じられる、大変微細でゆっくりしたリズムです。肉体そのものの動きというより、肉体周囲に存在する(といわれる)エネルギーフィールドの層の動きとされています。胎生学的にはこのロングタイドの働きとエネルギーフィールドをガイドにして、胎児の肉体は徐々に作られていくともいわれています。また、クラニオのセッションはやる人を中心に周囲数メートルくらいの射程(?)があり、クラニオが行われている部屋の隅の方に座っているだけでも、非常に眠くなったり、寝てしまったりすることがあります。ゆえに、直に触れていない人(動物)にも、触れている人ほどではないにせよ、クラニオの影響はある程度は及んでいるものと思われます。原理は不明ですが。
◆動物へのワーク
ロングタイドについてはともかく、この体験で改めて興味が湧いたのが、動物に対するワークについて。知人からはクラニオが好きな猫や、エネルギーワークが好きな猫がいるという話は聞いたことがあるので、少なくとも猫はそういった細かな(手応えがないともいう)ワークが好きなのかも知れないと思わせるものはあります。私の周りには猫好きな人が多く、犬や兎や鳥など、他のペットの事例を聞いたことがないので、全ての動物に共通かは不明ですが…(魚なんかは触れないから無理か)。もっとも、今回のケースでは、猫にダイレクトに触れていないから、猫もあまり警戒せずに興味を持ったということもあるとは思います。やはりダイレクトに触れるとなると、やる側と動物との相性や、その動物自身の人への慣れ具合などもあると思うので、簡単にいかないケースも多いと思います。
ただ、いずれにせよ、動物がワークをしているところに寄ってきたり、傍で眠ったりするのは、何がしか好ましいものをワークに感じているためだろうとは思います。動物が健康によいと思うから来るのか、単に好きだから来るのか、その辺りは動物に聞いてみるほか無く不明です。まあ、動物は本来ボディワークなどは必要ない(というか、そういう概念自体ない)んでしょうけども、最近のペットはストレスを溜めたりすることもあるみたいだし、定期的にやっていれば、免疫力が高まるなど(「そうかもしれない」としかいえないですが)動物の健康に寄与する部分もあるかも知れないので、実は案外潜在的な需要はあるのかも知れないとも思います。
ちなみに、私自身は外で武術の稽古をしていても、気がつくと何故か猫や鳥などの動物に近くで見物されていることがしばしばあるので、動物がワークをやってる人の側に来るというのは、ワークそのものの影響度に加え、そのワークを使う人自身の状態も関係しているといえるかも知れないですね。
今日はクライアントさんのお宅に伺ってセッションをしました。そして、セッションを初めてしばらくしたら、クライアントさんの飼い猫が、ベッドに上がって眠り始めました。しかも、その猫は、最初は周囲で臭いをかいでいるだけだったのが、私が「ロングタイド」を感じ始めるや、おもむろにベッドに上がってきて、その後、私がセッションに心地よさを覚えた時には眠っているというタイミングの良さ。おそらく、セッションが「ロングタイド」にシフトしたことが猫には離れていても分かったのでしょう。実に賢いです。見事な感覚です。というか、私よりも明らかに分かってるようです…。動物はこういった見えざる働きに対しては人間より遥かに鋭敏な感覚を持っているんでしょうね。
ちなみに、「ロングタイド」というのは、これまでたびたび書いてきた「1次呼吸」の種類のひとつで、その中でも微風が吹いているかのように感じられる、大変微細でゆっくりしたリズムです。肉体そのものの動きというより、肉体周囲に存在する(といわれる)エネルギーフィールドの層の動きとされています。胎生学的にはこのロングタイドの働きとエネルギーフィールドをガイドにして、胎児の肉体は徐々に作られていくともいわれています。また、クラニオのセッションはやる人を中心に周囲数メートルくらいの射程(?)があり、クラニオが行われている部屋の隅の方に座っているだけでも、非常に眠くなったり、寝てしまったりすることがあります。ゆえに、直に触れていない人(動物)にも、触れている人ほどではないにせよ、クラニオの影響はある程度は及んでいるものと思われます。原理は不明ですが。
◆動物へのワーク
ロングタイドについてはともかく、この体験で改めて興味が湧いたのが、動物に対するワークについて。知人からはクラニオが好きな猫や、エネルギーワークが好きな猫がいるという話は聞いたことがあるので、少なくとも猫はそういった細かな(手応えがないともいう)ワークが好きなのかも知れないと思わせるものはあります。私の周りには猫好きな人が多く、犬や兎や鳥など、他のペットの事例を聞いたことがないので、全ての動物に共通かは不明ですが…(魚なんかは触れないから無理か)。もっとも、今回のケースでは、猫にダイレクトに触れていないから、猫もあまり警戒せずに興味を持ったということもあるとは思います。やはりダイレクトに触れるとなると、やる側と動物との相性や、その動物自身の人への慣れ具合などもあると思うので、簡単にいかないケースも多いと思います。
ただ、いずれにせよ、動物がワークをしているところに寄ってきたり、傍で眠ったりするのは、何がしか好ましいものをワークに感じているためだろうとは思います。動物が健康によいと思うから来るのか、単に好きだから来るのか、その辺りは動物に聞いてみるほか無く不明です。まあ、動物は本来ボディワークなどは必要ない(というか、そういう概念自体ない)んでしょうけども、最近のペットはストレスを溜めたりすることもあるみたいだし、定期的にやっていれば、免疫力が高まるなど(「そうかもしれない」としかいえないですが)動物の健康に寄与する部分もあるかも知れないので、実は案外潜在的な需要はあるのかも知れないとも思います。
ちなみに、私自身は外で武術の稽古をしていても、気がつくと何故か猫や鳥などの動物に近くで見物されていることがしばしばあるので、動物がワークをやってる人の側に来るというのは、ワークそのものの影響度に加え、そのワークを使う人自身の状態も関係しているといえるかも知れないですね。
◆今日の言い訳
先週くらいから、クラニオ論文の作成を開始しました。そして、予想通り、こちらのブログは若干更新が適当になりつつあります…。
このブログには当初はクラニオにまつわる「ためになる系」のことを書こうかと思ったんですけども、自分が気が向かない時に書いたものをあとで読み返してみると、無理やり感があったり、手抜きだったり、妙に「自信過小」だったりしていて、いつも真面目というのは、なかなか難しい。ただでさえ、シリアスな(そして、多分世の中の大勢の方には共感が困難な)内容を書こうとすると、適当なことを書いてはいかんと思い、しかも堅苦しい文体も嫌だと思うので半端に手抜き感溢れる文になり、妙な方向に気合いを入れて長文を書き疲労するというパターンに陥りがちなので、論文取り組み中(当分続きますが)は、もうすこし適当な方向で書こうと思っています。
普段やることがなく、だらけているような時期ならば、己に喝を入れるべく、真面目な内容を書く意欲も湧こうというものですが、さすがに論文を書いたりしていると「真面目成分」はそちらで十分満喫しているので、こっちまで真面目文は手が回りにくいというわけです。基本的に効率よく動いて、空き時間で怠けることを好む人ですので。
◆論文です
…というわけで、論文ですが、これは(前にも書いた気がしますが)、我が学ぶ団体「ICSB」のクラニオの正規プラクティショナー資格と国際資格を、来年セットで得るために必要なものでして、重要です。でも、論文といっても、大学院の修士論文とか学会の研究発表ほど厳密な構成や論理展開が必要というわけでもないです。ここまでクラニオを学んできた集大成として、ある程度の分量を論文の形式に則って書いてねと言う程度なので、まあ、この数年クラニオってきた(造語)自分を振り返るのにはちょうど良い機会という奴でしょう。
私は、武術稽古も好きなので、この機会に武術ネタを無理やりでもクラニオ論文に登場させてやろうという妙な意欲を燃やし、両者の合体が可能そうな「プラクティショナーニュートラル」というテーマを選びました。プラクティショナーニュートラルというのは、簡単に言えば、クラニオやる側の人にとって必須の、姿勢や意識の置き方によって生じる安定した身体感覚のことですね。これがきちんとしていると、セッションに必要な心身の静まりや安定感、状況把握力、強い同調感などのサポートが自然と得られます。これは(…あるていど)できていなければクラニオじゃない!、というくらい重要ですが、原理原則を習っても、初心の頃は、これが結構ぐらぐらしていたり、逆に身体が固まっていたり、明後日の方向に意識が飛んで自分だけ気持ちよくなったり、受ける相手のフィールドに突っ込んだりしがちなわけですが、それがどんな風に上手になっていくのかを自分の痛い経験(私も最初は前述の如き状態でしたし、今も完璧でない時はままあります…)も踏まえて偉そうに書いてみよう、というわけです。
なお、無理やり武術要素を投入する部分は、「稽古が進むにつれ自分の中のコアな身体感覚がどんな風に深まっていったか」を自分の稽古経験を交えて書くという形になる予定です。なんせ私はたいした技が出来ませんので、妙にうがった視点です。ここは屁理屈派として、もっともらしさ抜群の「猫の妙術」なども引用してやろうかとも思っています。で、両者(どっちも「身体感覚」つながりですので)の進展・深化過程を比べて、身体感覚といういかにも暗黙的で訳の分からない物が、熟練につれてどんな風に深化するのかが、2つの視点を通じて少し明示化できれば面白いかなと思っています。
で、論文を書き始めたところ、また妙に気合いが入ってしまったようで、前書きと、冒頭部分で「プラクティショナーニュートラルって何だ」と書くのだけに1万字くらいを使ってしまいました。まだぜんぜん本論に達してません。とりあえず、文章量は心配しなくて良さそうだと思いました。この辺の進捗は…書きたい時に書きます。書かないかも知れません。…とまあ、こんな風にダラダラ書くのが無駄に文が長くなる一因なんでしょうな。
先週くらいから、クラニオ論文の作成を開始しました。そして、予想通り、こちらのブログは若干更新が適当になりつつあります…。
このブログには当初はクラニオにまつわる「ためになる系」のことを書こうかと思ったんですけども、自分が気が向かない時に書いたものをあとで読み返してみると、無理やり感があったり、手抜きだったり、妙に「自信過小」だったりしていて、いつも真面目というのは、なかなか難しい。ただでさえ、シリアスな(そして、多分世の中の大勢の方には共感が困難な)内容を書こうとすると、適当なことを書いてはいかんと思い、しかも堅苦しい文体も嫌だと思うので半端に手抜き感溢れる文になり、妙な方向に気合いを入れて長文を書き疲労するというパターンに陥りがちなので、論文取り組み中(当分続きますが)は、もうすこし適当な方向で書こうと思っています。
普段やることがなく、だらけているような時期ならば、己に喝を入れるべく、真面目な内容を書く意欲も湧こうというものですが、さすがに論文を書いたりしていると「真面目成分」はそちらで十分満喫しているので、こっちまで真面目文は手が回りにくいというわけです。基本的に効率よく動いて、空き時間で怠けることを好む人ですので。
◆論文です
…というわけで、論文ですが、これは(前にも書いた気がしますが)、我が学ぶ団体「ICSB」のクラニオの正規プラクティショナー資格と国際資格を、来年セットで得るために必要なものでして、重要です。でも、論文といっても、大学院の修士論文とか学会の研究発表ほど厳密な構成や論理展開が必要というわけでもないです。ここまでクラニオを学んできた集大成として、ある程度の分量を論文の形式に則って書いてねと言う程度なので、まあ、この数年クラニオってきた(造語)自分を振り返るのにはちょうど良い機会という奴でしょう。
私は、武術稽古も好きなので、この機会に武術ネタを無理やりでもクラニオ論文に登場させてやろうという妙な意欲を燃やし、両者の合体が可能そうな「プラクティショナーニュートラル」というテーマを選びました。プラクティショナーニュートラルというのは、簡単に言えば、クラニオやる側の人にとって必須の、姿勢や意識の置き方によって生じる安定した身体感覚のことですね。これがきちんとしていると、セッションに必要な心身の静まりや安定感、状況把握力、強い同調感などのサポートが自然と得られます。これは(…あるていど)できていなければクラニオじゃない!、というくらい重要ですが、原理原則を習っても、初心の頃は、これが結構ぐらぐらしていたり、逆に身体が固まっていたり、明後日の方向に意識が飛んで自分だけ気持ちよくなったり、受ける相手のフィールドに突っ込んだりしがちなわけですが、それがどんな風に上手になっていくのかを自分の痛い経験(私も最初は前述の如き状態でしたし、今も完璧でない時はままあります…)も踏まえて偉そうに書いてみよう、というわけです。
なお、無理やり武術要素を投入する部分は、「稽古が進むにつれ自分の中のコアな身体感覚がどんな風に深まっていったか」を自分の稽古経験を交えて書くという形になる予定です。なんせ私はたいした技が出来ませんので、妙にうがった視点です。ここは屁理屈派として、もっともらしさ抜群の「猫の妙術」なども引用してやろうかとも思っています。で、両者(どっちも「身体感覚」つながりですので)の進展・深化過程を比べて、身体感覚といういかにも暗黙的で訳の分からない物が、熟練につれてどんな風に深化するのかが、2つの視点を通じて少し明示化できれば面白いかなと思っています。
で、論文を書き始めたところ、また妙に気合いが入ってしまったようで、前書きと、冒頭部分で「プラクティショナーニュートラルって何だ」と書くのだけに1万字くらいを使ってしまいました。まだぜんぜん本論に達してません。とりあえず、文章量は心配しなくて良さそうだと思いました。この辺の進捗は…書きたい時に書きます。書かないかも知れません。…とまあ、こんな風にダラダラ書くのが無駄に文が長くなる一因なんでしょうな。
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プロフィール
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HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
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