|
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスや身体に関する色々を気まぐれにつづります。
|
Calendar |
Recent Entry |
Recent Comment |
Category |
◆病院でのセッション
GW前のことですが、入院中の友人(今は元気になって本拠地に帰っていきました)にクラニオをやったことがありました。なかなか好評だったこともあり、この体験で、病院医療とクラニオは連携できる余地があるかもしれない、という少しばかりの自信を得ました。
以前も書いたと思いますが、基本的に病院などで用いられる西洋医療(以下、病院医療)と、クラニオ(バイオダイナミクス)のようなゆるい感じのボディワークやセラピーの類は、方法論だけでなく、基本となる世界観も、セッションの目的自体も異なるものであり、両者を同じ視線や基準で見ようとする限りは、理解が難しい物と思います。逆に、全く別の技法体系だからこそ、補い合える余地があるのではないか、というのが今回感じた個人的な思いです。漢方と西洋薬が共存できているようなもので。
◆症状を消すのではなく
病院でクラニオセッションをした時、友人はある臓器の摘出手術を受けたあとでした。つまり、この場でクラニオは「症状を止める」「病をなくす」ために行われたわけではありません。それはもう病院がやってくれているので、こちらの出番はありませんし、クラニオは普段もそういう「症状への直接的な対処」はしません。
では、病院でクラニオは友人の何の役に立ったのか、というと、それは「手術という体験で大きく変化した身体に新たなバランスと活力を取り戻す手助けをすること」といえるかと思います。若干文学的な表現だと「手術で少し混乱している自分の新たな身体を受け入れ、ともに歩んでいく準備を助けること」とも言い換えられるかも知れません。要は「手術後のアフターケア」です。もっとも、やる時は、アフターケアのためだとか、あまり難しいことは考えていませんが。
手術は手っ取り早く効率的に身体の問題を解決できますが、身体の各部はお互い何がしかの影響を与え合っているため、手術でひとつの臓器がなくなっただけでも、実際はその影響は全身に及ぶ可能性があります。人によっては症状が消えて退院できても、別の不安を感じたり、新たな身体に馴染むのにかなりの時間がかかる可能性もあるかもしれません(もちろん、術後に何の問題もない場合が大半だとは思います)。クラニオやゆるいボディワークはそこにうまくサポートを入れられるのでは、と思うわけです。
◆
病院医療がすばやく症状をとり除いたり、とりあえず痛みをなくしたりすることを得意とするならば、クラニオはその人の身体に無理のない限りにおいてバランスや落ち着きを取り戻す手助けができる可能性があると思います。強い刺激も与えなければ、何かの症状を消そうとしているわけでもないので(医療行為と別のことをしているので)、ほとんどの人(「全ての人」ではないです)に対してもできる点もメリットです。
クラニオが重視するのは常に身体全体に影響を及ぼしている「1次呼吸」という身体の深層の微細な動きであり、その働きは身体がどんな状況でも消えることはない(とされている)からです。痛みがあっても、病気であっても、死の床にあっても、人にはそういった側面とはまた別の(1次呼吸という)「健全さ」を持っている、ということです。
これまでの記事でも書いているように、「からだがバランスを取る」というのは比喩ではなく、(触れている感触から推測する限り)実際に骨や筋肉、体液の流れ方など、病気の有無や状況に関わらず、身体はセッションを経て何がしかの変化をすることが大半です。
◆病院医療にしかできないこと
一方、クラニオ(他のボディワークもそうだと思いますが)は大事故にあった人や発作を起こして倒れた人への対応など、緊急性が必要な状況には向いていません。病院医療とクラニオは使うのに適した場面が違うのだから当然です。
クラニオは、ある程度状態が落ち着いた人にしかできない技術でもあるわけで、「医療を代替」なんてことはそもそもできないわけです。クラニオセッションの結果、体調が良くなったりするのは、セッションを通じてバランスや活力を取り戻した身体が、自分で自分を整えた「結果」ということで、やっていること自体が違うわけです。
そもそも、普通に考えて、クラニオの技法だけでは、手術前の友人の負担をある程度軽減はできたかもしれませんが、それだけで症状に対応することは難しかっただろうと思います。絶対不可能かは分かりませんが、少なくとも、最善の手段を真面目に考えるならば、病院医療に頼るのが自然、という状況だったと思います。
大事故にあって重症を負った人を高確率で助けられるのも、病院の外科手術だけでしょう。ボディワークや鍛え抜かれた身体の回復力だけではなんともならない状況が時にあるものです。
◆協力できる余地はありそうな気も
そんなわけで、手術後のサポート、ホスピスなどの終末ケアといった、強い刺激が与えがたい状況などでは、クラニオは病院医療に協力できる部分があるのではないかとも思いました。逆に、クラニオセッションに重症そうな人が来てしまった場合、関わりのある病院に相談したり(こちらは診断ができないので)、優先的に紹介するといった選択肢もありそうです。
今回のことは友人の依頼によるもので、病院と相談してやったわけでもなく、病院関係の方がこういった「科学的といいがたい」部分もあるボディワークに日本でどの程度理解を頂ける物かも分かりませんが(また、誰が依頼するのかや、病院内でボディワーク関係者をどう扱うのかなどの法律や事務手続き上の問題もありそうですが…)、もしいつの日か理解がある方と縁ができることがあれば、うまく協力しあえればいいなと思っています。
GW前のことですが、入院中の友人(今は元気になって本拠地に帰っていきました)にクラニオをやったことがありました。なかなか好評だったこともあり、この体験で、病院医療とクラニオは連携できる余地があるかもしれない、という少しばかりの自信を得ました。
以前も書いたと思いますが、基本的に病院などで用いられる西洋医療(以下、病院医療)と、クラニオ(バイオダイナミクス)のようなゆるい感じのボディワークやセラピーの類は、方法論だけでなく、基本となる世界観も、セッションの目的自体も異なるものであり、両者を同じ視線や基準で見ようとする限りは、理解が難しい物と思います。逆に、全く別の技法体系だからこそ、補い合える余地があるのではないか、というのが今回感じた個人的な思いです。漢方と西洋薬が共存できているようなもので。
◆症状を消すのではなく
病院でクラニオセッションをした時、友人はある臓器の摘出手術を受けたあとでした。つまり、この場でクラニオは「症状を止める」「病をなくす」ために行われたわけではありません。それはもう病院がやってくれているので、こちらの出番はありませんし、クラニオは普段もそういう「症状への直接的な対処」はしません。
では、病院でクラニオは友人の何の役に立ったのか、というと、それは「手術という体験で大きく変化した身体に新たなバランスと活力を取り戻す手助けをすること」といえるかと思います。若干文学的な表現だと「手術で少し混乱している自分の新たな身体を受け入れ、ともに歩んでいく準備を助けること」とも言い換えられるかも知れません。要は「手術後のアフターケア」です。もっとも、やる時は、アフターケアのためだとか、あまり難しいことは考えていませんが。
手術は手っ取り早く効率的に身体の問題を解決できますが、身体の各部はお互い何がしかの影響を与え合っているため、手術でひとつの臓器がなくなっただけでも、実際はその影響は全身に及ぶ可能性があります。人によっては症状が消えて退院できても、別の不安を感じたり、新たな身体に馴染むのにかなりの時間がかかる可能性もあるかもしれません(もちろん、術後に何の問題もない場合が大半だとは思います)。クラニオやゆるいボディワークはそこにうまくサポートを入れられるのでは、と思うわけです。
◆
病院医療がすばやく症状をとり除いたり、とりあえず痛みをなくしたりすることを得意とするならば、クラニオはその人の身体に無理のない限りにおいてバランスや落ち着きを取り戻す手助けができる可能性があると思います。強い刺激も与えなければ、何かの症状を消そうとしているわけでもないので(医療行為と別のことをしているので)、ほとんどの人(「全ての人」ではないです)に対してもできる点もメリットです。
クラニオが重視するのは常に身体全体に影響を及ぼしている「1次呼吸」という身体の深層の微細な動きであり、その働きは身体がどんな状況でも消えることはない(とされている)からです。痛みがあっても、病気であっても、死の床にあっても、人にはそういった側面とはまた別の(1次呼吸という)「健全さ」を持っている、ということです。
これまでの記事でも書いているように、「からだがバランスを取る」というのは比喩ではなく、(触れている感触から推測する限り)実際に骨や筋肉、体液の流れ方など、病気の有無や状況に関わらず、身体はセッションを経て何がしかの変化をすることが大半です。
◆病院医療にしかできないこと
一方、クラニオ(他のボディワークもそうだと思いますが)は大事故にあった人や発作を起こして倒れた人への対応など、緊急性が必要な状況には向いていません。病院医療とクラニオは使うのに適した場面が違うのだから当然です。
クラニオは、ある程度状態が落ち着いた人にしかできない技術でもあるわけで、「医療を代替」なんてことはそもそもできないわけです。クラニオセッションの結果、体調が良くなったりするのは、セッションを通じてバランスや活力を取り戻した身体が、自分で自分を整えた「結果」ということで、やっていること自体が違うわけです。
そもそも、普通に考えて、クラニオの技法だけでは、手術前の友人の負担をある程度軽減はできたかもしれませんが、それだけで症状に対応することは難しかっただろうと思います。絶対不可能かは分かりませんが、少なくとも、最善の手段を真面目に考えるならば、病院医療に頼るのが自然、という状況だったと思います。
大事故にあって重症を負った人を高確率で助けられるのも、病院の外科手術だけでしょう。ボディワークや鍛え抜かれた身体の回復力だけではなんともならない状況が時にあるものです。
◆協力できる余地はありそうな気も
そんなわけで、手術後のサポート、ホスピスなどの終末ケアといった、強い刺激が与えがたい状況などでは、クラニオは病院医療に協力できる部分があるのではないかとも思いました。逆に、クラニオセッションに重症そうな人が来てしまった場合、関わりのある病院に相談したり(こちらは診断ができないので)、優先的に紹介するといった選択肢もありそうです。
今回のことは友人の依頼によるもので、病院と相談してやったわけでもなく、病院関係の方がこういった「科学的といいがたい」部分もあるボディワークに日本でどの程度理解を頂ける物かも分かりませんが(また、誰が依頼するのかや、病院内でボディワーク関係者をどう扱うのかなどの法律や事務手続き上の問題もありそうですが…)、もしいつの日か理解がある方と縁ができることがあれば、うまく協力しあえればいいなと思っています。
PR
◆ベッカーの3ステップ
「ベッカーの3ステップ」なにやら妙な名称ですが、以前ブログ用に自己設定したお題一覧を見たらこれが含まれていたので書きます。クラニオ・バイオダイナミクスの完全な内部知識で、どの程度一般公開して書いて良いものか良く分からないので、なんとなく、おおざっぱに、書いてみます。
「ベッカーの3ステップ」というのは、クラニオのセッションを受ける人の身体がどんな風に変化するかを表現した言葉です。何度もセッションを受けて徐々に身体が変化するという意味ではなくて、「1度のセッション」の中で、クラニオを受ける方の身体が起こす変化の要点をまとめた言葉、もしくは法則みたいなものです。なので、セッション1回の中で身体が何度か変化すれば、この「3ステップ」も複数回観察されることもあります。
なお、これはクラニオ・バイオダイナミクスで言われていることなので、「それ以外のクラニオ」でどのように捉えられているかは不明です。
◆ベッカーさん
ベッカーというのは人の名前です。クラニオそのものの創生期に活躍した達人みたいな人だと思っておけば概ね間違いないと思われます。クラニオ創始者のサザーランド氏のお弟子さんに当たる方だそうです。ベッカー氏はクラニオの色々な技法面での発展に寄与したようで、クライアントさんへの触れ方(ハンドポジション)の中には「ベッカーホールド」と呼ばれるものもあります。
◆ベッカーの3ステップが起こる時
クラニオセッションで、プラクティショナー(クラニオやる人)に触れられ、十分落ち着くことができた身体は、自分の身体のバランスを自分で整えようとするプロセスに入ります。これは受ける方の身体が勝手にやることなので、プラクティショナーは、その働きが阻害されないような環境を整えて見守ります。
で、見守っていると、受け手の方の身体が「ベッカーの3ステップ」が行っている流れで変化をすることが多いと気づく、というわけです。別にこの3ステップを使ってなにかするのではなくて、この3ステップの知識を目安にセッションの進行具合を確認するという感じです。ひとつの物差しという所ですね。
その3ステップとは以下になります(簡略化した表現です)
1.身体は自分の「中心」がどこかを探すかのような動きをする
2.「中心」を見つけた身体は静まり、変化のためのエネルギーを蓄える
3.身体は見つけた「中心」を基準として再編成する
…いまいち分かりにくい表現ですね。気休めかも知れませんが補足などしてみます。
◆ステップ1補足
1で言う「中心」というのは、厳密な身体の真ん中という意味ではなく、これから身体が変化するにあたって「基準」となりそうな点や線というような意味です。これから変わろうとする時に、どう変わればいいかを教えてくれる目印みたいなものが、ここでいう「中心」です。例えば「首のある骨を基準にできた身体全体の歪みのパターン」があるとしたら、「首のある骨」が「中心」であると体が自動的に認識し、そこをこれから変化を起こす基準点として設定するイメージです(かなり大雑把な表現で、実際はもっと複雑です)。
◆ステップ2補足
次に2.ですが、ここで面白いのは、「中心」を発見しても、いきなり変化するのではなくて、身体は一度静まるということです。これは本当に止まったようになります。勿論息はしていますし、心臓も動いていますが、それすらも静けさの中にいるような独特の感じです。かなり長い時間止まったようになっていることもあります。我々はこの状態を「ニュートラル」と呼んでいます。クラニオ・バイオダイナミクスではもっと深い静かな状態を示す「スティルネス」という概念もありますが、ここでは省略します。
静かにしている間に身体が何をやっているのかは、場合によって異なると思いますが、ここでは、代表的な説明である「変化に必要なエネルギーを蓄えている」としておきます。身体のどこかが変化するにはエネルギーが必要で、それを一度溜めるような過程があるわけです。そのため、疲れ切っている人にセッションした場合、身体はまず、このエネルギーを蓄えることに集中する場合が多いです。変化をするためには、ある程度の余裕が必要とも言えます。
この段階は、蝶の幼虫が実際に蝶になる前のさなぎの段階のようなものと考えると、なんとなく位置づけが想像しやすいかも知れません。
◆ステップ3補足
最後の3.では、身体の実際の変化が始まります。身体が、今よりバランスのとれた状態に向け、自らを新たに作り替える過程という所です。静まっていた身体が動き出す時は、止まっていた時計が動き出すかのようで、いつ見てもなかなか神秘的です。
この過程では骨や膜が動いたり、神経系の緊張が解けたり、放熱が起こったり、体液が良く流れたり、エネルギーの奔流のようなものが身体を通過していったり、いろいろなことが起こります。1.で身体が自らのどこを中心と見定めたにせよ、結果的に身体全体が少しずつ変わるので、身体は多様な変化を起こすということですね。
例えば、1.の例のように首の歪みを「中心」に再編成がおこなわれたとしたら、その結果である3.では、首そのものの負荷の軽減のみならず、頭や腹部の緊張、体液の状態など、「全体」が変わることが大半です。受ける方の身体の知恵にお任せする方針なので、クラニオをやる側が開始前に予想もしなかったような変化をする場合もあります。
◆
まあ、あまり分かりやすくなかったかと思いますが、こんな感じでしょうかね。とりあえず、「身体がセッションを通じて自ずから変わる」とひとくちにいっても、それはちょこっと骨が動くといった程度のことではなく、実はかなりドラマチックなことをやっているんだ、ということを少しでも想像する手助けとなれば幸いです。身体は賢いです。
「ベッカーの3ステップ」なにやら妙な名称ですが、以前ブログ用に自己設定したお題一覧を見たらこれが含まれていたので書きます。クラニオ・バイオダイナミクスの完全な内部知識で、どの程度一般公開して書いて良いものか良く分からないので、なんとなく、おおざっぱに、書いてみます。
「ベッカーの3ステップ」というのは、クラニオのセッションを受ける人の身体がどんな風に変化するかを表現した言葉です。何度もセッションを受けて徐々に身体が変化するという意味ではなくて、「1度のセッション」の中で、クラニオを受ける方の身体が起こす変化の要点をまとめた言葉、もしくは法則みたいなものです。なので、セッション1回の中で身体が何度か変化すれば、この「3ステップ」も複数回観察されることもあります。
なお、これはクラニオ・バイオダイナミクスで言われていることなので、「それ以外のクラニオ」でどのように捉えられているかは不明です。
◆ベッカーさん
ベッカーというのは人の名前です。クラニオそのものの創生期に活躍した達人みたいな人だと思っておけば概ね間違いないと思われます。クラニオ創始者のサザーランド氏のお弟子さんに当たる方だそうです。ベッカー氏はクラニオの色々な技法面での発展に寄与したようで、クライアントさんへの触れ方(ハンドポジション)の中には「ベッカーホールド」と呼ばれるものもあります。
◆ベッカーの3ステップが起こる時
クラニオセッションで、プラクティショナー(クラニオやる人)に触れられ、十分落ち着くことができた身体は、自分の身体のバランスを自分で整えようとするプロセスに入ります。これは受ける方の身体が勝手にやることなので、プラクティショナーは、その働きが阻害されないような環境を整えて見守ります。
で、見守っていると、受け手の方の身体が「ベッカーの3ステップ」が行っている流れで変化をすることが多いと気づく、というわけです。別にこの3ステップを使ってなにかするのではなくて、この3ステップの知識を目安にセッションの進行具合を確認するという感じです。ひとつの物差しという所ですね。
その3ステップとは以下になります(簡略化した表現です)
1.身体は自分の「中心」がどこかを探すかのような動きをする
2.「中心」を見つけた身体は静まり、変化のためのエネルギーを蓄える
3.身体は見つけた「中心」を基準として再編成する
…いまいち分かりにくい表現ですね。気休めかも知れませんが補足などしてみます。
◆ステップ1補足
1で言う「中心」というのは、厳密な身体の真ん中という意味ではなく、これから身体が変化するにあたって「基準」となりそうな点や線というような意味です。これから変わろうとする時に、どう変わればいいかを教えてくれる目印みたいなものが、ここでいう「中心」です。例えば「首のある骨を基準にできた身体全体の歪みのパターン」があるとしたら、「首のある骨」が「中心」であると体が自動的に認識し、そこをこれから変化を起こす基準点として設定するイメージです(かなり大雑把な表現で、実際はもっと複雑です)。
◆ステップ2補足
次に2.ですが、ここで面白いのは、「中心」を発見しても、いきなり変化するのではなくて、身体は一度静まるということです。これは本当に止まったようになります。勿論息はしていますし、心臓も動いていますが、それすらも静けさの中にいるような独特の感じです。かなり長い時間止まったようになっていることもあります。我々はこの状態を「ニュートラル」と呼んでいます。クラニオ・バイオダイナミクスではもっと深い静かな状態を示す「スティルネス」という概念もありますが、ここでは省略します。
静かにしている間に身体が何をやっているのかは、場合によって異なると思いますが、ここでは、代表的な説明である「変化に必要なエネルギーを蓄えている」としておきます。身体のどこかが変化するにはエネルギーが必要で、それを一度溜めるような過程があるわけです。そのため、疲れ切っている人にセッションした場合、身体はまず、このエネルギーを蓄えることに集中する場合が多いです。変化をするためには、ある程度の余裕が必要とも言えます。
この段階は、蝶の幼虫が実際に蝶になる前のさなぎの段階のようなものと考えると、なんとなく位置づけが想像しやすいかも知れません。
◆ステップ3補足
最後の3.では、身体の実際の変化が始まります。身体が、今よりバランスのとれた状態に向け、自らを新たに作り替える過程という所です。静まっていた身体が動き出す時は、止まっていた時計が動き出すかのようで、いつ見てもなかなか神秘的です。
この過程では骨や膜が動いたり、神経系の緊張が解けたり、放熱が起こったり、体液が良く流れたり、エネルギーの奔流のようなものが身体を通過していったり、いろいろなことが起こります。1.で身体が自らのどこを中心と見定めたにせよ、結果的に身体全体が少しずつ変わるので、身体は多様な変化を起こすということですね。
例えば、1.の例のように首の歪みを「中心」に再編成がおこなわれたとしたら、その結果である3.では、首そのものの負荷の軽減のみならず、頭や腹部の緊張、体液の状態など、「全体」が変わることが大半です。受ける方の身体の知恵にお任せする方針なので、クラニオをやる側が開始前に予想もしなかったような変化をする場合もあります。
◆
まあ、あまり分かりやすくなかったかと思いますが、こんな感じでしょうかね。とりあえず、「身体がセッションを通じて自ずから変わる」とひとくちにいっても、それはちょこっと骨が動くといった程度のことではなく、実はかなりドラマチックなことをやっているんだ、ということを少しでも想像する手助けとなれば幸いです。身体は賢いです。
◆プチサバイバル講座に参加
おとといまで、ゆるめの某サバイバル講座(これ⇒ http://www.wildandnative.com/nativelifeshoukai.html)に参加していました。裸足で林の中を歩き回ったり、必死になってたき火の火が消えないよう奮闘したり、けっこう寒い屋外で寝袋で寝たりする体験をする講座でした。とはいえ、ゆるめのサバイバルなので、たき火の点火はライター使用だったり、外が寒くて寝られない時はコテージに退避してもよかったり、スタッフの方々は無理しないで済む配慮を色々してくれました。どうしようもなく文明人であるところの私にとっては、それでも色々苦労したわけですが、とても楽しく良い経験になりました。
◆裸足で歩く
学んだことは色々ありますが、これは手軽にできて良いなと思ったのが、上にも書いた「素足になってそこらの林や草地などを歩き回ること」です。
最初は微妙な心理的抵抗があったり、また、とがった枝などが落ちているような場所だったので、少しばかり足裏を傷つけたりと、歩き慣れなかったのですが、しばらく歩いていると、足の裏のほうがとがった物を踏みかけた時、踏んだ時の衝撃を素早く逃がしてくれたりするようになって怪我もしにくくなり、最初はのろのろとしか歩けなかったのが、3日目になると岩の上に飛び乗ったりと、かなりスムースに動けるようになってきました。なお、踏んだ時の衝撃を逃がす、などと書いていますが、別な身体の操作は必要なく、自動的に足裏が判断してくれるような感じでした。
◆恩恵
そうやって歩いていると、普段の「文明化した自分」と少し違う「野生の自分」や、忘れてしまった童心に少しばかり還れる気がしてきます。要は開放感があるということです。授業や会社をサボった時の開放感に近い…かもしれません。社会生活も大事ですが、ヒトはいち動物でもあるわけなので、それを少しばかり思い出してみるには、裸足で歩くのはなかなか手軽で、良いもののように思います。
もうひとつの恩恵は、裸足で歩いていると足の裏に色々な刺激が与えられるので、「自然足つぼマッサージ」のような健康によい効果がありそうだ、ということです。ご存じのように、足裏は全身の様々な器官と連動しているので、裸足歩きによって、どうも全身に適度な刺激が加えられるようです。
そのためか、今回の講座の2,3日でも裸足で歩いていると、いつの間にか重心がしっかり落ちて(リラックスして)姿勢も自然と楽になったような気がしています。まあ、でこぼこの人工物の上でやっても良いのかも知れないですが、自然界ならば歩く度に環境は違うし、なにより人工のでこぼこの上を黙々と歩くのは何となく味気ないですよね。野原などを歩いていると、足下の草の状態や、草の上で生きている虫に目がいったりと、いろいろな発見もあって、なかなか楽しいです。
そんなわけで、「裸足歩き」は、文明化しすぎた日常にちょっとした刺激を求めている方には気軽にできる試みとしてお勧めです。アスファルトの道を歩くときなどは注意が必要ですが、草地などで実施すると結構気持ち良いです。ご家族とアウトドア等の機会に一緒に実行してみるもよし、そこらの河原や公園などで、健康法としてひとり黙々と実行するもよしです。
おとといまで、ゆるめの某サバイバル講座(これ⇒ http://www.wildandnative.com/nativelifeshoukai.html)に参加していました。裸足で林の中を歩き回ったり、必死になってたき火の火が消えないよう奮闘したり、けっこう寒い屋外で寝袋で寝たりする体験をする講座でした。とはいえ、ゆるめのサバイバルなので、たき火の点火はライター使用だったり、外が寒くて寝られない時はコテージに退避してもよかったり、スタッフの方々は無理しないで済む配慮を色々してくれました。どうしようもなく文明人であるところの私にとっては、それでも色々苦労したわけですが、とても楽しく良い経験になりました。
◆裸足で歩く
学んだことは色々ありますが、これは手軽にできて良いなと思ったのが、上にも書いた「素足になってそこらの林や草地などを歩き回ること」です。
最初は微妙な心理的抵抗があったり、また、とがった枝などが落ちているような場所だったので、少しばかり足裏を傷つけたりと、歩き慣れなかったのですが、しばらく歩いていると、足の裏のほうがとがった物を踏みかけた時、踏んだ時の衝撃を素早く逃がしてくれたりするようになって怪我もしにくくなり、最初はのろのろとしか歩けなかったのが、3日目になると岩の上に飛び乗ったりと、かなりスムースに動けるようになってきました。なお、踏んだ時の衝撃を逃がす、などと書いていますが、別な身体の操作は必要なく、自動的に足裏が判断してくれるような感じでした。
◆恩恵
そうやって歩いていると、普段の「文明化した自分」と少し違う「野生の自分」や、忘れてしまった童心に少しばかり還れる気がしてきます。要は開放感があるということです。授業や会社をサボった時の開放感に近い…かもしれません。社会生活も大事ですが、ヒトはいち動物でもあるわけなので、それを少しばかり思い出してみるには、裸足で歩くのはなかなか手軽で、良いもののように思います。
もうひとつの恩恵は、裸足で歩いていると足の裏に色々な刺激が与えられるので、「自然足つぼマッサージ」のような健康によい効果がありそうだ、ということです。ご存じのように、足裏は全身の様々な器官と連動しているので、裸足歩きによって、どうも全身に適度な刺激が加えられるようです。
そのためか、今回の講座の2,3日でも裸足で歩いていると、いつの間にか重心がしっかり落ちて(リラックスして)姿勢も自然と楽になったような気がしています。まあ、でこぼこの人工物の上でやっても良いのかも知れないですが、自然界ならば歩く度に環境は違うし、なにより人工のでこぼこの上を黙々と歩くのは何となく味気ないですよね。野原などを歩いていると、足下の草の状態や、草の上で生きている虫に目がいったりと、いろいろな発見もあって、なかなか楽しいです。
そんなわけで、「裸足歩き」は、文明化しすぎた日常にちょっとした刺激を求めている方には気軽にできる試みとしてお勧めです。アスファルトの道を歩くときなどは注意が必要ですが、草地などで実施すると結構気持ち良いです。ご家族とアウトドア等の機会に一緒に実行してみるもよし、そこらの河原や公園などで、健康法としてひとり黙々と実行するもよしです。
クラニオ・バイオダイナミクス(以下クラニオ)では「リソース」と呼ばれる概念があります。ふつうは資源とかそういう意味の英単語ですが、クラニオでは多少違った意味合いを持っています。
◆リソース
簡単に言えば、クラニオで使う「リソース」は「自分にとって活力を与えてくれるもの」というところです。それは、自分の心地よい身体の感覚だったり、好きな光景や物語であったり、落ち着けるような漠然としたイメージであったり、いろいろです。「呼吸に意識を向ける」などもひとつのリソースであるかも知れません。
この「リソース」自体は具体性のあるイメージに近いものですが、イメージといっても身体に少なからず影響は及ぼすものなので、リソースをしっかりと感じる事で自分自身を落ち着けることも可能です。
◆セッション中のリソース
クラニオのプラクティショナーはこの「リソース」の力を活用してセッションを進めることもあります。例えば、自分の身体の痛みが気になる人に、自分が痛くない、できれば安心な感じのする身体の部位(足の親指とか、耳とか、突拍子もないところでも良いのです)を探してもらって、そこの感覚をじっくり感じてもらうなどです(大けがの場合はそうも行かないでしょうが、そもそもクラニオに来る人はそこまで大変な状態ではないはずなので)。すると、痛みから目が逸らされた身体は落ち着きを多少なりとも取り戻し、クラニオセッションの恩恵を受けやすい状態になるわけです。
もっとも、「身体のどこなら気持ちいいですか」「どういうイメージだと心地よいですか」と突然聞くのも、初めての人にとっては戸惑うことだと思うので、個人的には、余程しんどそうな人かクラニオを受け慣れている人以外にはあまり聞きません。私自身があまり意識してそういう「リソース探し」をしない人だというのもあります。
◆日常のリソース
私の場合は武術稽古で得られる「何か良い身体の感じ」が多分リソースに相当する物で、その感覚にはあまり意識しなくても、いつも少しはつながっているような感じもするので、あまり熱心に探すまでもないのかも知れません。いろんな趣味や仕事を持っている人がいますから、人によってかなり色々なリソースがあるんじゃないかなと思います。
思うに、むしろリソースが価値を発揮するのは、クラニオセッションのような特別な場所よりも、日常で不安や痛みに出会った時かもしれません。そういう時に、不安そのものに目を向けると、それを増幅させることになりやすいです。
しかし、自分の身体の安定した部分や今ここでないどこかの風景や思い出といったまったく別の方向に一時意識を向けてしまうことで、一息ついた身体には、かえって不安に立ち向かう力が生まれることもあります。
浮き足だったまま対象に向かわないで、少し落ち着き、一度面倒ごとに立ち向かえる身体状態になってから立ち向かう、というわけですね。まあ、全力で逃げねばならない時などは落ち着く暇がないと思うので、場合にもよりますが。
◆物足りないかも知れないけれど
どうも人間は不安なことに何故か好んで首を突っ込みたがる性質があるようで、気がつくと自分で自分を不安にすることを積極的にしていることもあるような気がします。たとえば、過激なキャッチコピーの週刊誌でも(たとえその情報によって自分が余計興奮や混乱するとしても)売れるのは、人が強い刺激になにか魅力を感じる部分があるからなんでしょう。
まあ、そういう物が存在すること自体は全然問題ないんですが(私自身も過酷な展開のアクション漫画やゲームは好きですし)、精神的にくたびれている時までそういう刺激を求めると、余計疲労してしまったりすることもあるので、そういう時には自分の中の心地よい感覚やイメージを探してみるのも手かも知れませんね。リソースの感覚はおだやかだったり暖かだったりで、刺激としては物足りないかも知れないけれど、それはその「物足りなさならではの思わぬ力」を持っているかもしれません。
◆リソース
簡単に言えば、クラニオで使う「リソース」は「自分にとって活力を与えてくれるもの」というところです。それは、自分の心地よい身体の感覚だったり、好きな光景や物語であったり、落ち着けるような漠然としたイメージであったり、いろいろです。「呼吸に意識を向ける」などもひとつのリソースであるかも知れません。
この「リソース」自体は具体性のあるイメージに近いものですが、イメージといっても身体に少なからず影響は及ぼすものなので、リソースをしっかりと感じる事で自分自身を落ち着けることも可能です。
◆セッション中のリソース
クラニオのプラクティショナーはこの「リソース」の力を活用してセッションを進めることもあります。例えば、自分の身体の痛みが気になる人に、自分が痛くない、できれば安心な感じのする身体の部位(足の親指とか、耳とか、突拍子もないところでも良いのです)を探してもらって、そこの感覚をじっくり感じてもらうなどです(大けがの場合はそうも行かないでしょうが、そもそもクラニオに来る人はそこまで大変な状態ではないはずなので)。すると、痛みから目が逸らされた身体は落ち着きを多少なりとも取り戻し、クラニオセッションの恩恵を受けやすい状態になるわけです。
もっとも、「身体のどこなら気持ちいいですか」「どういうイメージだと心地よいですか」と突然聞くのも、初めての人にとっては戸惑うことだと思うので、個人的には、余程しんどそうな人かクラニオを受け慣れている人以外にはあまり聞きません。私自身があまり意識してそういう「リソース探し」をしない人だというのもあります。
◆日常のリソース
私の場合は武術稽古で得られる「何か良い身体の感じ」が多分リソースに相当する物で、その感覚にはあまり意識しなくても、いつも少しはつながっているような感じもするので、あまり熱心に探すまでもないのかも知れません。いろんな趣味や仕事を持っている人がいますから、人によってかなり色々なリソースがあるんじゃないかなと思います。
思うに、むしろリソースが価値を発揮するのは、クラニオセッションのような特別な場所よりも、日常で不安や痛みに出会った時かもしれません。そういう時に、不安そのものに目を向けると、それを増幅させることになりやすいです。
しかし、自分の身体の安定した部分や今ここでないどこかの風景や思い出といったまったく別の方向に一時意識を向けてしまうことで、一息ついた身体には、かえって不安に立ち向かう力が生まれることもあります。
浮き足だったまま対象に向かわないで、少し落ち着き、一度面倒ごとに立ち向かえる身体状態になってから立ち向かう、というわけですね。まあ、全力で逃げねばならない時などは落ち着く暇がないと思うので、場合にもよりますが。
◆物足りないかも知れないけれど
どうも人間は不安なことに何故か好んで首を突っ込みたがる性質があるようで、気がつくと自分で自分を不安にすることを積極的にしていることもあるような気がします。たとえば、過激なキャッチコピーの週刊誌でも(たとえその情報によって自分が余計興奮や混乱するとしても)売れるのは、人が強い刺激になにか魅力を感じる部分があるからなんでしょう。
まあ、そういう物が存在すること自体は全然問題ないんですが(私自身も過酷な展開のアクション漫画やゲームは好きですし)、精神的にくたびれている時までそういう刺激を求めると、余計疲労してしまったりすることもあるので、そういう時には自分の中の心地よい感覚やイメージを探してみるのも手かも知れませんね。リソースの感覚はおだやかだったり暖かだったりで、刺激としては物足りないかも知れないけれど、それはその「物足りなさならではの思わぬ力」を持っているかもしれません。
◆
震災の後、数回クラニオセッションをしましたが、どうも頸部と目に疲労が溜まっていたり、極めて緊張していたりする点で皆さん共通しているようでした。もちろん、数名なので、日本の大半の人の首が緊張しているかは分からないわけですが、直接の被害を受けていなくても、それだけ身体は強く緊張していることが多いのだなということは感じさせられました。これは遠隔地にいて、テレビを見たり、人から体験談を聞いたりしただけの人でも同じようです。南方の県に住んでいて、まったく被害を受けていない私の友人も入院してしまいました。それ以前の日頃の疲れもあったのでしょうが、震災の情報が更なる負担になったのかも知れません。
◆
震災やそれに伴う色々な出来事で、多くの人がなにかを受け取ったのだと思います。そして「なにかしなくては」と思う。その思いをどのように表現するか、どの程度で満足するか、それは人によって違うのだろうと思います。募金する人もあれば、物資の送付をする人もあれば、現地に足を運ぶ人もあれば、日常の仕事に集中することで、結果的に産業全体の発展に貢献しようとする人もいる。
そもそも、ただ普通に生活をして、ものを売ったり買ったりするだけでも、それは巡り巡って多くの人の生活に影響を及ぼすわけですから、真っ当な行動であれば、なにをやっても、それはそれで誰かの役に立っていると思います。自分の中に納得感があるならば、過剰に無理をせず、各自がそれぞれの方法でやることをやればそれで良いのだと思います。
◆
ただ、無意識のうちに受け取ったものは思いだけでなく、肉体そのものへの負荷も結構あり、しかもあまり自覚がないこともあるようなので、そっちはそっちで意識的に気をつけておけば良いのではと思います。
なじみのマッサージやボディワークがあるなら、現在何ら違和感を感じていなくても、あえて受けてみるのもいいかもしれませんし、武術稽古なり、運動の習慣がある人はそれを、とくにそういう習慣がない人は、気がついた時にストレッチでもやればよいかも知れません。なお、ストレッチといっても、無理に柔軟性を上げるしんどい動きをするのではなく、全身を気持ちよく伸ばす感じで気楽にやるのがよいと思います。
震災の後、数回クラニオセッションをしましたが、どうも頸部と目に疲労が溜まっていたり、極めて緊張していたりする点で皆さん共通しているようでした。もちろん、数名なので、日本の大半の人の首が緊張しているかは分からないわけですが、直接の被害を受けていなくても、それだけ身体は強く緊張していることが多いのだなということは感じさせられました。これは遠隔地にいて、テレビを見たり、人から体験談を聞いたりしただけの人でも同じようです。南方の県に住んでいて、まったく被害を受けていない私の友人も入院してしまいました。それ以前の日頃の疲れもあったのでしょうが、震災の情報が更なる負担になったのかも知れません。
◆
震災やそれに伴う色々な出来事で、多くの人がなにかを受け取ったのだと思います。そして「なにかしなくては」と思う。その思いをどのように表現するか、どの程度で満足するか、それは人によって違うのだろうと思います。募金する人もあれば、物資の送付をする人もあれば、現地に足を運ぶ人もあれば、日常の仕事に集中することで、結果的に産業全体の発展に貢献しようとする人もいる。
そもそも、ただ普通に生活をして、ものを売ったり買ったりするだけでも、それは巡り巡って多くの人の生活に影響を及ぼすわけですから、真っ当な行動であれば、なにをやっても、それはそれで誰かの役に立っていると思います。自分の中に納得感があるならば、過剰に無理をせず、各自がそれぞれの方法でやることをやればそれで良いのだと思います。
◆
ただ、無意識のうちに受け取ったものは思いだけでなく、肉体そのものへの負荷も結構あり、しかもあまり自覚がないこともあるようなので、そっちはそっちで意識的に気をつけておけば良いのではと思います。
なじみのマッサージやボディワークがあるなら、現在何ら違和感を感じていなくても、あえて受けてみるのもいいかもしれませんし、武術稽古なり、運動の習慣がある人はそれを、とくにそういう習慣がない人は、気がついた時にストレッチでもやればよいかも知れません。なお、ストレッチといっても、無理に柔軟性を上げるしんどい動きをするのではなく、全身を気持ちよく伸ばす感じで気楽にやるのがよいと思います。
|
プロフィール
|
HN:
朧 こと 今野
性別:
男性
自己紹介:
会社員生活の傍ら、手技セラピー「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」を学んでいます。
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
「★クラニオバイオリンク集」ではここ以外のクラニオバイオ関連サイトを紹介しています。
私自身のクラニオセッション等の活動は現在休止中です。
私のプロフィール的なものはこちら
|
最新記事
|
(10/26)
(07/01)
(12/27)
(02/16)
(10/26)
|
最新コメント
|
|
日記カテゴリ
|
|
ブログ内検索
|
